出立前、カーソンに挨拶をしようとしたらせめて朝食を食べていけ、と引き止められてしまった。旅に慣れた二人にとって、粗食は厭うものではなかったけれど、こんなに豪勢な朝食を口にすることは当分ない、とカーソンの言葉に甘えることにした。
 ほろほろと音が流れている。最後にもう一度聞かせて欲しい、とカーソンに頼まれて演奏していたアケルのリュートだった。
「しかし素晴らしいな。正に神に愛された吟遊詩人、と言うところか」
 いまだリュートを奏で続けるアケルはほんのりと微笑んで礼に代えただけだった。カーソンの前でのアケルはおとなしく控えめで、とてもラウルスの知る彼と同一人物とは思えないほど。
「俺としてはこいつを愛でているのは神々ではなく世界、と言いたいですがね」
 旅の戦士のどこを気に入ったものか、カーソンは暇さえあればラウルスを側に置いて話を聞きたがった。記憶はない。それでも名残は。アケルにとってカーソンの示す態度はこの上もなく嬉しいものだったけれど、ラウルスにとってはどうだろうか。切ないのではないかと思わなくもない。
「ほう。なぜだね?」
「たいしたことじゃありませんよ、ただそう思うってだけのことです」
 ひらりと顔の前でラウルスが片手を振る。リュートを弾きつつアケルは思う。まさか本当のことを言えるわけもない。神々に、と言うより神人に、だろうか、ラウルスは遺恨がある。そこまで言っては言いすぎか、とも思う。だが、事実でもある。混沌との戦いにおいて、神々が少しでも早く手を貸してくれていたのならば、あれほどの人命が失われることはなかった。ラウルスは信じてそれを疑わない。
「世界、な……」
「こいつの歌に、俺は世界を感じますよ。こいつが喜びの歌を歌うとき、夜明けの銀色の音がする」
「ほう、戦士は中々の詩人だな」
 にやりとするカーソンの目の中、本人ですら気づかない、知り得ない懐かしげな色。彼が彼の王を見つめる眼差しだった。
「神々と言えばだな、戦士。神人にお目にかかったことはあるか」
「神人ですか?」
「王城跡に、御使いが降臨なさっただろう。あの方々のことだ」
「あぁ、あれですか」
 渋い色が浮かばないよう、ラウルスは片手で顎をさすっては表情を隠す。
「一度は、お目にかかってみたいですよね、ラウルス?」
 リュートを爪弾きつつアケルは言う。そうだな、とうなずいたラウルスのかすかな溜息に苦さを聞いた。
「わしもお目通りが叶ったことはないのだが、実に美しい方々と聞く。遠目にでもよい、拝見したいものだなぁ」
 憧れの目。カーソンの目は、何を見ているのだろうと二人は思う。アルハイドの民を助けてもくれなかった神の使い。なぜそれほど崇められる。真実は闇の中かと思えば、神々と悪魔と、どちらのやり口がよりいっそうあくどいのか、と思ってしまう。
「神人は、神々の使いだと言うことですが、本当なのでしょうか?」
「あぁ、そうらしいな。何しろ、神官殿が言っている。それも、予言の神官殿だ」
「あれか……確か、フィデスと言った……」
 思わず口をついた言葉にラウルスがはっとする。だがカーソンは意外に物を知った戦士だ、と好感を持っただけらしい。
「その神官殿だ。彼が、降臨された御使いは確かに神々の使いと、な」
 それを民間ではいつの間にか神人、と呼ぶようになったのだと言う。はじめのころは幼き神、とも呼んでいたのだが、廃れてしまったらしい。
「そういえば御前様。ファーサイトの賢者団はなんと言っているのでしょう? 最近あまり名を聞きませんが」
「それは……まぁ、そうだろうな」
 途端に言葉を濁したカーソンだった。どことなくためらいのある表情。だがカーソンだった。アケルはともかく、ラウルスは彼と言う男をよく知っている。そのままじっと待っていた。
「賢者団はもう、終わりだろうな」
 予想通りだった、カーソンがぽつりと呟くよう話しはじめる。アケルの爪弾くリュートが、力を与えてでもいるかのように。
「なんでです?」
 無邪気なラウルスの問いかけに、カーソンは小さく笑った。困ったような、今更隠し立てをしても何にもならないと腹をくくったかのような。
「大異変において、混沌の化身となったのが、賢者団の長だったからだよ。神人の降臨があと少しでも遅ければ、このアルハイド大陸はどうなっていたことか」
「そうなんですか? ぜひ、歌にしたい、聞かせてくださいませんか、御前様?」
 にっこりとアケルが言ったのは、まぎれもなくラウルスを抑えるためだった。なにを言い出すかわかったものではない。
「――陛下が、あの場にいらしたことは知っているな? あわや、と言うときに駆けつけてくださったらしい。わしもたいしたことは知らんのだ。すまんな」
 たかが流れ者に対してカーソンは申し訳なさそうに頭を下げて見せた。驚くより先に、胸の奥が暖まる。
「神人が陛下にご助力くださったとしても、陛下の行き先はわからんままだ。神人も黙して語らん、と聞く。どこかで、生きておいでだと、信じるしかないというのは――」
 つらい。口に出さなかった言葉だからこその深い情。アケルはそっと眼差しを伏せることで同意に代えた。
「他の賢者はどうしてらっしゃるんです?」
 するりと忍び込んできたラウルスの声。カーソンはその場の暗さを吹き飛ばすもの、として聞いただろう。現にほんのりと笑みを浮かべた目に感謝。だがアケルは。
「賢者か……。名を変えて生きているものも、どこかにはいるだろうが……」
「それは?」
「大異変の日のことを、聞いたことはないのか? ファーサイトは凄まじい異変が起きた、それも最大級の異変が起きた箇所のひとつだ。あれでは……生きてはいまいよ、山にいたものはな」
 首を振り、カーソンは賢者を悼む。懐の広い男だとつくづくアケルは思う。長のスキエントがあのようなことになったのならば、他の賢者だとて本物の賢人であったのかどうか。そう疑ってもおかしくはない。だがカーソンはそのようなことは一片たりとも考えたことすらないらしい。
「陛下の行方は知れず、賢者団は崩壊し、禁断の山は消え去った。この世界はこれからどうなっていくのか――」
 遠い眼差しの向こうの更なる彼方。カーソンの目にはアウデンティース王が映っていた。はらりとした音色に、郷愁を誘われ、そして手で触れそうな現実が返ってくる。はっとして音を見やれば、吟遊詩人が微笑んでいた。
「アルハイド王家はなくとも、シャルマークには女王陛下が、ほかの二王国にも立派な国王陛下がおいでです。人は強いものです。立ち直りますとも、必ずや」
「それにしても御前、なんでアルハイド王国を継がなかったんですかね、王子様方は」
 いけしゃあしゃあと言ってのけたのはもういつものラウルスの声だった。ほっとするとともにアケルはなぜか切ない。本人は無理をしているつもりはないだろう。けれど声に軋みが聞こえる。
 諦める、とラウルスは言った。この身に降りかかった呪詛はアルハイドの人々を救った代償。ならば悩むのは間違いだと彼は言う。あるものはあるものとして先に進むとラウルスは言う。
 思い切った、そう言うけれど、それでも簡単にそうできるのならば、人はこれほど苦しみはしない、アケルは思う。
 解決するのは時間だけか、と思えばそれも切ない。自分はラウルスにいったいどんな手助けができるのか。ただいるだけでよいのか、迷うばかりだった。
「それはな、戦士。陛下があまりにも偉大な国王でいらっしゃるからだ」
 きっぱりと断言され、ラウルスの唇がおかしな形に歪む。目は楽しげな色をしていた。小さく吐き出した吐息の音色も、くすぐったげだった。
 その中に、切なさがないわけではない。あって当然。だがラウルスは、なんということだろうかとアケルは感嘆する。その苦痛ですら、あるべきものとして受け入れた音だった。
「陛下の跡を継ぐだけならば、ケルウス殿下にもできたことだろう。だが、平時であれば、だ。この非常時、広大なアルハイド王国を殿下お一人で支えるのはあまりに無謀」
「国を分けるほうがよっぽどな無茶でしょうにねぇ」
「いやいや戦士。それは違うぞ。領土がなんだ、財力がどうした。お三方は、アウデンティース様の薫陶を受けたのだぞ。アルハイド国王としてあるべき姿を、お父君様はお見せになったのだぞ。殿下方が思うのはただひとつ、民のため。ケルウス殿下は、若く力のない身ひとつで民を統べるより、ご兄弟みなで力を合わせて民のために働くと仰せになった。さすがは……アウデンティース様のお子様だ」
 なるほど、とようやく納得がいった。二人とも、この二年は旅続きではあったが、庶民の間をまわっているばかりだった。貴人の手が届かない場所を、との思いが二人ともにあったせい。おかげでどうしてアルハイド王国の名が消え、三王国となったのかは知れないままだった。
「素晴らしい方々ですね。そのようなお子様が三人もいらっしゃるとは、アウデンティース王は、どれほど立派な方でいらしたのか、想像するしかないのが悔やまれます」
 ラウルスはうっかりアケルの頭を平手で叩こうとした自分の手を、反対の手で押さえる羽目になった。ちらりと見やったアケルは、目だけでほんのりと笑っていた。
「まったくだ。おぉ、そうだ。二人とも、吟遊詩人ならばなにをおいてもシャルマークの王都に、シーラに行くがいい。――女王陛下の婚儀があるぞ」
 にやりとしたカーソンに、アケルは華やかな笑みを浮かべた。ラウルスの呆気にとられた顔に注意をひきつけないために。
 急にそわそわとしだしたラウルスをカーソンは旅の再開を待ちかねている、と解釈してくれたらしい。笑って餞別まで持たせてくれた。旅の糧食に、あって困るものではないと多少の金まで。
「わしも姫様の婚儀には駆けつける。その場でまた聞かせてくれるものと信じているぞ」
「えぇ、必ずや」
「ではまた会おう、必ずだぞ。そうでなくともメディナに立ち寄った際には、必ず屋敷を訪れよ、約束せい」
 からからと笑うカーソンの言葉に嘘はない。いまはまだ。否、この後もずっと。二人とも、わかっていた。手を振り、頭を下げ、二人は歩み去っていく。その後姿を見つめつつ、カーソンが呟いた。
「――珍しいことがあるものだ。旅人、か? 見かけない顔だが……。あれは、何者だろうな」
 傍らに控える家令に尋ねれば、家令もまた首をかしげるばかり。見知らぬ二人の背は徐々に遠くなって、消えた。




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