四日目の夕食後だった。あれからカーソンは片時も離さない、と言った様子でラウルスとアケルを側に置いた。
 他愛ない話、あるいは過去の栄光。それも自分のものではなく、アウデンティース王の。そして王の素晴らしい業績の数々。
 カーソンは語って語って語り尽くした。これほど楽しげなお館様を見るのは久しぶりだ、と召使が噂するほど。
 はじめのうちこそ目許に憂愁を帯びていたラウルスだったが、今日はついにくすぐったそうに笑っていた。カーソンに理由はわかるまい。アケルには、わかる。
「では、おやすみなさいませ。どうぞよい夢を」
 本職の吟遊詩人顔負けの優雅さでアケルが一礼し、ラウルスも続く。そして慌てる召使に遭遇した。
「どうしたんです?」
 カーソンを楽しませてくれている吟遊詩人とその連れ、との認識があるせいか、召使たちは一様に柔らかく接してくれていた。
「申し訳ありません、お騒がせいたしまして」
 だがこのときはおろおろと辺りを見回すばかり。アケルはにこりと微笑んで怒っているのではないのだ、と伝える。
「なにか御前様に不都合が……と思ったものだから。せっかくこんなにもてなしてくださっているのだから、ね――」
 自分たちがいる間はとにかく楽しんで欲しいのだ、とアケルは言外に言う。その言葉だろうか、それとも声だろうか。ラウルスは後者だ、と思う。召使はほっとしたよう息をつく。
「いえ……たいしたことではないのですが」
「――が?」
 微笑むアケルの目の鋭さはラウルスだけが気づいた。さては、と思う。待ち望んだ報告がやっと聞けるか、と。
「地下に――」
 水瓶がある、と召使は訥々と話し出した。アケルは息を飲んでその後を待つ。やっとだ、と思う。
「それがなぜか急に、割れたものですから。水瓶が、です。お客様なら、ご存知でしょう?」
「あぁ、そうだね。水瓶は割れるものではないから……少し、驚くね」
 アケルの言葉に我が意を得たり、とばかり召使は大きくうなずく。確かにそのとおり。水瓶はそう簡単に割れるものではない。丈夫で長持ちするのが身上、それが水瓶だ。
 それが急に割れた、と言って召使はうろたえていた。あまりの怯えぶりに、アケルは申し訳なくなってしまう。
「その水瓶は――」
「はい?」
「あの日――にも、あったものなのかな、それより前から?」
 アケルの言葉に召使がひくりと肩を震わせた。思い出したいことではないのだろう。あるいは親しい人を亡くしたか。
 激動の日。確かにアケルは幾足りかの人々を救えた。けれど救えなかった人々だとて多くいる。むしろ、心に残っているのは救えなかった人。
「ラウルス?」
 アケルの腕にそっと彼が手を添えていた。まるでアケルの心のうちを察したかのよう。すべてを救えなくとも、たとえ一人でも救ったのはお前だ、と眼差しが語る。アケルはうなずけなかった。
「そうですね……えぇ、ずいぶん以前からあったものです、はい」
「だったら、それだよ、きっと」
「え?」
「きっと目に見えないひびでも入っていたんじゃないかな?」
「それだけ、でしょうか」
 あぁ、とアケルは内心で溜息をつく。怖いのだ、人は。繰り返すのかと怯えるのだ人は。またあの日が来るのかと。
 もう二度とない、とは言えないアケルだった。けれど繰り返させはしないと誓っているアケルとラウルスでもあった。たとえそれを口にすることができなくとも。何の根拠もない言葉故に、人に言うことはできない。忘れられるのだとしても。安易な言葉は口にはできない。
「心配は要らないんじゃないかな?」
 だから、微笑むだけだった。大丈夫と励ますように笑うことしかできなかった。
「心配するなよ、この男の勘はこれでけっこう当たるんだぜ」
 ラウルスが、この屋敷での評判どおり、無頼の戦士めいた口調で言いつつ笑う。少し似合わなくていつもアケルは笑いそうになってしまう。それを見たラウルスも笑いをこらえるものだから、実に珍妙な顔になる。だがそれが洒脱な戦士、になぜか見えるらしい。こういうとき、精悍な顔立ちに逞しい体、と言うのは得だ、とアケルは思う。まして一種独特な金の房の混じる茶の髪。猛禽めいたそれが、召使たちには恐ろしげにも憧れにも見えるらしい。
「そう、ですよね。えぇ、そうですとも!」
 現にラウルスの言葉に召使ははっきりとうなずいていた。この説得力はさすがだ、とアケルは感嘆する。言葉は荒くいい加減であったとしても、その態度は王のそれ。召使は安堵と共に息を吐き、頭を下げて去って行った。
「――申し訳ないような気がしますね」
 廊下を自分たちにあてがわれた部屋へと向かいつつアケルは呟く。辺りに誰もいない、と見計らってのことだった。
「なにがだ?」
「だがら、水瓶」
「お前はお前にできることをした。そうだろ? それに――」
「ほっとくほうが危ないですしね。それは、わかってるんですよ。ただ」
 三日かけて、アケルは歌った。水瓶に向けて。カーソンに歌って聞かせていたのも嘘ではない。だが、本当に歌っていたのは、水瓶。
 頑丈この上ない水瓶に小さなひびを入れていくために。自然に中の水に押されて割れるよう、アケルは歌っていた。
「怖がらせたくはなかった、か……」
 せっかくあの日を生き抜いた人々なのだから。もう二度とあのようなことはないのだ、と安心して暮らして欲しい。せめて、この屋敷に異変はないとの夢でもかまわない。そうして暮らして欲しいのに。
「なぁ、アケル」
 部屋の扉を開けて、二人きりになってからラウルスはゆるりとアケルと向き合う。髪以上に猛禽のような金の目に見据えられてアケルは声が出せなかった。
「お前が水瓶にあの水を作らなかったら、どうなっていた?」
 以前メディナの地を訪れたとき、その場しのぎに、と水に歌った。海辺の土地だ。いくら混沌がその彼方にあるとは言え、海に出なければ生業の道が閉ざされてしまう民のために。
「あの水、どのくらい残ってたか、わかったか?」
「それは……まぁ、わかりましたけど」
「で?」
「半分は、減ってましたね」
 言いたくないことを言うようアケルは唇を歪める。アケルとて、わかってはいるのだ。だが。
「だったら、その半分は民のための役に立ったんだ。いまは役割が変わっちまったけどな、それでも、お前の歌った水は、人の役に立ったんだ」
 だから後悔するなとラウルスは言う。強いな、とアケルは思う。カーソンと再会したばかりのときの揺らぎようが嘘のよう、毅然と立つラウルスがそこにいた。
「アケル」
 促しに、ようやく彼はうなずいた。理解していること、しなければならないこと。わかってはいる。それでもまだ逡巡を繰り返すのはなぜだろう。
「若いな、お前は」
 ラウルスがにやりとしていた。それほど顔に出ていたか、と思えば頬が赤らむのを抑えきれない。
「色々悩んで、間違うかもしれないって怯えて、それでも進んでいこうとするお前が俺は可愛くってならないよ、アケル」
「子供扱いしないでください! そりゃ、僕はあなたのお子様方と同じくらいですけどね、年! でも、すごく嫌です、それ。わかってるんですか、ラウルス!」
 吼えるアケルを微笑ましげにラウルスは見つめ、その目にアケルはしまったと臍を噛む。すっかり乗せられてしまっていた。
「まぁ、確かに子供の年だよな、お前」
 にんまりとするラウルスに、気づいたときには掴みかかっていた。じゃれるようなそれにラウルスが明るい声をあげる。
「でもなぁ、いくらなんでも俺は子供に手を出すような無茶はちょっとなぁ?」
「出したじゃないですか! きっちり口説いて自分のものにしたくせに、なに言ってるんですか、いまさら!」
「だから! お前を子供だとは思ってないって言ってんだろうが! 人の話は聞けよ、まったく」
 ひょい、と腕を掴まれたと思ったら転がされていた、寝台の上に。アケルはほっそりと優雅だ。だがこれでも鍛え抜かれた禁断の山の狩人だ。あの日以来、狩人としての修練は積んでいないものの、体力が衰えたはずもない。
「ラウルス、あなたって人は……!」
 その自分をあっけないほど簡単にラウルスは転がした。片手であしらって、なんでもないかのように。唖然とするより自分の鍛錬不足を嘆くより、アケルはおかしくなってくる。
「なに笑ってんだよ?」
「さすがだな、と思って。いえ……変な国王陛下もいたものだな、と思ったら笑えて」
「もう違う」
「でも、一朝一夕に身につく技術じゃないでしょう? 本当に、あなたときたら。おかしいな」
 くすくすと笑いつつアケルの腕がラウルスに伸ばされた。ゆるりと首に絡みつき、自分のほうへと引き寄せる。
「さすがだな、あなたは」
 目の前で、北の海の目が微笑んでいた。きらきらと輝くそれにラウルスこそ、飲まれそうになる。
「お前ね――」
「なんですか」
「そこまで言うならたまには言えよな」
 言いつつラウルスはアケルの唇を塞ぐ。軽くついばむだけのくちづけにアケルは不満そうなうなり声を上げた。
「なんのことです?」
 けれど目は笑う。北の海の冷たい青。それなのに優しい色をしている、そう思うのは間違いなくラウルスの惚れた欲目というものだろう。自覚しているラウルスは苦笑してもう一度唇をついばむ。
「たまには惚れてるって言えよ。いつも俺ばっかり言わされてる」
「言わせてるわけじゃないですよ?」
 だったら言え、とばかり睨んでくるラウルスの悪戯な眼差しにアケルは小さく笑った。金茶の髪に指を差し込み、顔を引き寄せては唇を重ねる。されるままのラウルスに胸が詰まるほどの歓喜。
「アケル」
 呼んだのか、それとも先ほどの答えを促しているのか。アケルは促しととり、少しばかり顔を離して彼の目を覗き込む。
「言えませんよ、そんな恥ずかしいことはね!」
 期待させておいてそれはない、と盛大に喚くラウルスの声が大きいとたしなめるより、塞いだほうが早いとばかりアケルは彼の唇を貪った。




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