ラウルスは意外に思っていた。確かにカーソンは「夕食」と言った。晩餐ではなく。その席は夕食と表現するのに相応しい、小ぢんまりとしたものだった。とても侯爵の食卓ではない。
「さぁ、もっと食べたまえ。肉はどうだね。まだ若いのだから、遠慮などするものではない」
 朗らかとすら言っていい、カーソンだった。それを思えば、身を切られるようにつらいラウルスだ。この二年、ファロウが死んだ二年。カーソンの食卓は、どれほど寂しいものだったのか。
 カーソンはアケルを右隣に、ラウルスを反対の隣に座らせるという破格のもてなしぶりだった。それが昨日までの火の消えたような食事風景を思わせてやりきれない。
 アケルもそれには気づいているのだろう、にこにこと笑みを振りまき、料理に感嘆して見せる。確かに吟遊詩人としてはお目にかかるはずもない豪華な食事だ。もっとも、一時は王宮で暮らしもしたアクィリフェルだ。本心では珍しいと思っているはずがない。
 だがそう思ったのはラウルスの勘違いだった。アケルは、確かに珍しいと思ってはいた。もっとも、理由はラウルスのそれとは違う。
 メディナの領主ともあろう人が、ずいぶんと簡素な食事をしている。そう思った。ずらりと並んだ料理は、庶民の基準に照らせば高価極まりない。だが相手は貴族。それもアウデンティース王の右腕とも称された将軍だ。
 平素から、舌の蕩けるような肉や季節はずれの野菜を食べているものと思っていた。しかし目の前にある料理はみな、調理こそは丁寧なものの、多少裕福な商家の食卓、と言われても信じそうなものだった。
「知っていることと思うが、メディナに客があるのは珍しい」
 少しばかり緊張した面持ちでカーソンが言う。アケルはあのことか、と見当のついたような顔をし、ついで微笑んで見せる。
「もうずいぶん前のことですから。それに、混沌は――」
「あぁ、そうだ。陛下が、お討ちになった。あのときも、そうだった。メディナが襲われたとき、真っ先に御自ら駆けつけてくださった」
 遠い目をしてカーソンが言う。あのときにはまだ元気なファロウが傍らにいた、そう思っているのかもしれない。
「陛下、ですか?」
 意外なことを聞く、とばかりなアケルだった。ラウルスはそっと笑いを噛み殺す。今ここに、シャルマークには新たな王家が建つ。初代女王としてティリアが立派にこの地を治めている。
 アケルはそれなのにあなたにとって王とはアルハイド王のことなのですか、と問う。他意のない優しげな目をしているものだから、ラウルスとしては目をそらすしかない。
「あぁ、そうだ。陛下だ。姫様には申し訳ないが……いや、姫様とお呼びするのも間違っているとは承知の上だが。わしにとって陛下はアウデンティース様お一人。実に立派な、いや……そんな言葉では到底表しきれない、そんなお方であったよ」
「混沌と戦い、そののちにお亡くなりになられたと――」
「そう、らしいな。混沌との戦いの場に、姫様はお出でになったそうだが。お父上様は影もなかったと。――だからな、わしは陛下は生きておいでだと、思っておる。なにがあったのかは、知らん。だがきっとどこかで生きておいでだ。そう、信じておる」
 きっぱりと言い、カーソンはアケルをそしてラウルスを見つめて微笑んだ。カーソンの言葉に間違いはない。今ここに、アウデンティースその人がいる。カーソンは知りもせず。
「御前様、聞いていただけますか? この身には野望があります。いつか、アウデンティース王のなされたことを、歌いたいと思っています」
「おぉ、それはいい! 陛下が、どれほど頼もしくお優しく、素晴らしい方だったか、ぜひ後世に残るような歌を作りたまえ。本当に……あの方は、ご自身より民を先になさる方だったのだから……」
 カーソンの声が潤み、目を瞬く。今でもどれほどの尊崇を王に捧げているのか。アケルはちらりともラウルスを見なかった。見なくとも、彼の心のうちならば聞こえていた。
「そう言えば、こちらの戦士はラウルス、と言うのだったな?」
「えぇ、そうですが。何か?」
 不思議そうに首をかしげて見せるラウルスの心を感じてはアケルは身震いをする。ぞっとしてたまらなかった。彼はどうしてこんなときに、こんな話題で何事もないよう笑える。
「御前様、そろそろお弾きいたしましょう」
 返答を待たず、アケルは席を立つ。心得た召使がさっと食卓の前に新たに椅子を持ってきた。そこに腰を下ろし、アケルはリュートを構える。
「あぁ、楽しみだ。よろしく頼む」
 返答代わりにアケルはリュートを爪弾いた。無礼なやりようだったが、吟遊詩人なりの礼と理解したカーソンが微笑む。
 はらりと音が解けるようだった。曲がはじまったのではない。いままでここにあったのに気づかなかった音楽をアケルは示して見せた。
「これは素晴らしい、ぜひ陛下に――」
 お聞かせしたい、言いかけてその王がもうこの世にいないことをカーソンは思い出したよう口をつぐんだ。生きている、口ではそう言う。けれどいるのならば、姿を見せないはずがない。アウデンティース王は、民をおいて姿を消すような王ではない。
「戦士の名だがな」
 アケルの曲に耳を遊ばせつつ、カーソンは言う。ラウルスも心の半分をそちらに持っていかれながら、言葉に注意を戻した。
「……陛下の、御名だった」
「アウデンティース王の、ですか?」
 そんなことは今はじめて聞いた。ラウルスは器用に表情を取り繕って見せる。貴族でないのならば知らないはずのアウデンティースの名を、たかが流れ者の戦士が知るはずはないのだから。
「あぁ、そうだ。ご即位なる前、お若いころはラウルスと名乗っておいでだった」
「それは……なんともなぁ。うちの両親はなにを考えていたんでしょうね?」
 軽やかに笑って見せるラウルスの声がアケルの耳に届いたときには、苦く重い物となっていた。するりと音色を変える。カーソンの痛みだけではなく、この二人の。出会っているのに、そうとは言えない、わからない二人のために。
「民は知らんことだからな。よい名を持ったと思うべきだぞ、戦士」
「――光栄です?」
「なんだその言い方は! しゃっきりせんか、しゃっきりと!」
「いやいや、そうおっしゃられましてもねぇ」
「貴様、陛下の御名に泥を塗るような真似をしてみろ。このカーソン、決して許しはせんぞ!」
 声を荒らげているくせに、奇妙に楽しげなカーソンだった。召使たちは、つつましい素振りを崩さないまま、だが驚きに目をみはっていた。ファロウ亡き後、主人がこれほど楽しげに笑っているのを目にするのははじめてだ、と。
「侯爵様のお眼鏡に適うようになるのは、ちょいとばかり無理じゃないですかね」
「努力をしろ、と言っているんだ、わしは。まったく、そういうところばかり陛下に似おって」
「ん? どういう意味です?」
 にやりと笑ったラウルスに、一瞬カーソンが驚いたような顔をした。まるでそこにはないものを見たような、そんな気がして。目を瞬いたときには、自分がなにに驚いたのかすら、わからなくなっていたものの。
 アケルはその驚きを聞き取っていた。わずかに息を飲んだその音。それだけで充分だった。カーソンの目がなにを捉えたか。彼はそこに見たのではないか、アウデンティースを。すぐさま、記憶から消えてしまったとしても。
 それならば、来た甲斐がある。メディナにあるはずの水瓶だけではなく、カーソンのため、ここにきてよかったとアケルは思う。
 カーソンの心は知ることだろう。たとえ何一つ覚えていられなくとも、彼の王が恙無く生き、そしていまも民を救うために走り回っていると知ることだろう。
「面影はなくとも――心は知る。そこに彼の人がいると」
 滑り出した歌詞に、自分も器用なことができるようになったものだ、とアケルは内心で苦笑した。まるで本職の吟遊詩人のようだ、と。
 カーソンは、この歌すら覚えてはいられないだろう。二人が去れば、すぐに忘れてしまうことだろう。けれど、心の片隅、カーソン本人ですら知らない密やかな場所に、息づき続ける。
 ――呪いなど。人間の逞しさを、知るがいいんですよ。悪魔。
 アケルの心の呟きが聞こえたかのよう、ラウルスが小さく微笑んだ。いまなにをしているのか、見抜いているのは彼だけ。
 そしてアケルはただ、カーソンの心のためにだけ奏でているのではなかった。目的はあくまで水瓶。屋敷の配置を思い出し、そこに向かって歌い続けていた。
「物が水瓶ですからね、そうそう場所を移したりはしないはずです」
「そりゃそうだ。が?」
「そこになかったとわかったときには、それも聞こえますから。改めて探すまでです」
「どうやってだ?」
 もちろん歌で。アケルは夕食がはじまる前、にっこり笑ってそう言った。いまも、水瓶に向かって歌っているのだろうとラウルスは思う。
 歌って、ひっそりと水瓶を壊す、とアケルは言っていた。中身がこぼれて大地に染み込んでしまえば、水に含まれた聖性は分散する。混沌に狙われる可能性は少なくなる、そう言った。
 それなのに、アケルは歌っていた、美しい歌を。水瓶の破壊とは結びつきそうもない歌を。
「戦士、どうした。おい――」
 カーソンが取り乱していた。老いたな、と思うラウルスは、けれどそれを言えないことで正気に返る。はたと気づけばまた、頬に流れる涙。
「いえ、その――」
「心根の優しい男だな、戦士」
 言われた途端にうろたえたような目をしたラウルスに、カーソンは微笑む。吟遊詩人が歌う優しい恋歌に涙する戦士、と言うのもいいものだと笑うカーソン。
「とんでもない。これは……思い出し泣きですよ」
「そんなものがあったとはな。長生きは、するものかな?」
「するものです」
 まだ涙の残る目でラウルスが笑えば、カーソンがにやりと返す。ラウルスは、アケルに心のうちで感謝していた。
 股肱の臣を目の前にして、それと知らない相手と語り合うその苦痛。ひりひりと痛む心を察して歌ったアケル。歌に、ではない。アケルに涙した。この優しい男のため、自分はいったい何をしてやれるのだろうと思う。思いつくかぎりは、何も。




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