いままで珍しい吟遊詩人に、それも慈しんだファロウが助けたという男にほころんでいたカーソンの表情が一転して暗くなる。 「ファロウめはな、わしの息子同然の男だった――」 カーソンにも息子がいた。だが何年も前、流行病で亡くなっていた。それ以前からファロウを息子のように思っていたカーソンだったが、実の息子を亡くしてからはファロウを跡継ぎにとも思っていた、と問わず語りに語った。 「立派で、お優しい騎士様でいらっしゃいました」 「それなのに、あやつまで逝ってしまいおって」 アケルの言葉が耳に入っていないよう、ふと苦く笑っていままで手に持っていた花をファロウの墓前に供える。花を供えたとき、暗さは影を潜めていた。 その後姿を見つつ、ラウルスは思う。アケルの歌のみならずすでに声ですら、彼はこうして人々を救うことができる。たとえ一瞬の後には忘れられたとしても。 「さ、来るがよい」 ファロウの墓にカーソンは別れを告げる。あれ以来、いったい何度ここを訪れているのだろう。ラウルスは足元を見やった。ここに、こうして道ができるほど、カーソンはファロウの墓前に来ているのだ、と。 屋敷は、変わらなかった。はじめて見たあのときから、少しも変わっていないようアケルには思える。そのことに少しだけほっとした。 混沌は、あの激動の日にここも襲ったはずだ。大陸中、襲われなかった箇所はないのだから。だからこそ、壊れず残った屋敷が目にありがたい。 「夕食まで休むがいい」 「御前様――」 「吟遊詩人殿には是非、夕食の席で一曲披露してもらいたいな」 にこりと笑ったカーソンの表情に、ラウルスは目をそらそうとした。が、なんとか思いとどまる。代りに見えないよう、拳を握った。 「一曲といわず何曲でも。お気に召すまでご奉仕いたしましょう」 優雅な一礼はまるで本職の吟遊詩人のようだった。ラウルスはただアケルを見ていた。カーソンではなく。 召使が二人を部屋に案内していく。扉の前まで来て、召使は下がって行ったが、用があれば何なりと、と言い置いていったことからも、そして室内の様子からも二人は丁重に扱われているらしい。そうアケルは思う。 「ずいぶん立派な部屋に通されましたね」 いまの自分たちは一介の旅人、それも流れ者なのだ。厩の片隅で休め、と言われても何の不思議もない。 「あぁ、そうだな」 ゆっくりと部屋を見回していたラウルスだった。メディナ侯爵邸の中でも、ここは客室棟だ。それもさほど身分卑しからず、と言うあたり。アウデンティースとしては足を踏み入れたことのない棟だったがおそらく近衛騎士であったマルモルなどはここに泊まったことがあるだろう。 「ラウルス」 ふ、とアケルの手が伸びてきた。両手で頬を包み込み、青い目が覗き込む。考えるまでもない、見る必要すらない。その懸念。 だがアケルは何も言わなかった。大丈夫か、と問えばラウルスは平気だと答える。カーソンのことがつらいかと言えば、済んだことだと笑う。 そうするしかないラウルスだから。だからアケルは自分にできることをした。そっと手を引いて、寝台に腰掛けさせる。首をかしげて見せたラウルスに微笑んで、その足元にアケルは座った。 「おい――」 アケルは答えず。代わりにリュートが鳴った。ほろほろとした音色。慰めではない。ならばなんだと問われてもラウルスにはわからなかった。 ただ。床に座っていたアケルが振り返り、わずかに目を見開く。リュートを奏でつつ歌いつつ、立ち上がり、隣に座りなおす。 邪魔だろうとは思った。けれど止まらなかった。歌うアケルの肩先に額を当てれば、温かい。たった一つ、自分に残されたものが彼でよかった。何もかも失ってしまって、あのカーソンにすら忘れられてしまって。それでもアケルがいる。 そっとアケルが身じろいだのを感じ、ラウルスは離れる。やはり邪魔だったか、と小さく笑えば歌いつつアケルは首を振った。なだらかな、男にしては高い声。けれど透き通って伸びやかで、それなのに低く染み入る。 歌が途切れた、と思ったときには頬に彼の唇があった。柔らかな、それこそ男のものとは思えない唇。離れたと思う間もなく唇にも、それを感じた。そしてなぜか、反対の頬にも。瞼にも。 「ラウルス」 呼んでいるのに、歌のようだった。歌詞のないアケルの歌に滑り込んだ自分の名。ただひとつ、それだけが歌詞だとでも言うように。 「目を閉じて」 素直に言われるままに従ったラウルスの瞼から頬へと、アケルの唇がたどる。そこまでされて、ようやくラウルスにもわかることがある。 「じっとしていて」 思わず自分の頬に触れようとした手は、笑う彼に止められてしまった。苦笑して、息を吸う。もうずいぶん楽になっている、言おうとしてけれど、それもアケルにはわかっているだろう。 何度も何度もアケルの唇が頬に流れた涙の跡をたどっていた。照れくさい、と思うよりラウルスが感じたのは感謝だった。 「アケル」 まだ流れている音色を止めさせるのは忍びない。だから静かに手を伸ばすだけ。心得て背中を向けたアケルを背後から抱きしめる。演奏の邪魔をしないよう、緩やかにそっと。 「お前がいる――」 脈絡のない言葉。二人の間でだけ通じる言葉。アケルはうなずかなかった。ラウルスの本心だと言うのは、わかっていた。 それでもどれほどいま彼の心が傷ついているのか。カーソンは、アウデンティース王の側近中の側近。自他共に第一の臣と認めていた男。 悪魔の祝福、あるいは呪い。ならば例外などない。ラウルスにもそれはわかっていたはず。カーソンが、自分を覚えているはずもないこと。そんなことはわかっていた。 それでもこの二年、メディナの地を避け続けたのは、見たくなかったから。アケルが禁断の山に足を向けたくなかったように。 あのカーソンですら、自分を忘れた。それを見たいはずがない。なのに、見ざるを得なかった。 「わかっちゃ、いたんだ。だが」 自分が見たくないからと言って、メディナを襲うかもしれない混沌を放置はできない。そんなことは考えたこともない。 「あなたは」 優しい人。アケルの歌詞のない歌がそう歌う。まさか、と聞き取ったラウルスでさえ疑ったが、首だけ振り向けたアケルは微笑んでいた。 「僕の声が聞こえるのは、あなただけ」 互いに残されたのは互いのみ。この世界の放浪者となっても、それでもまだ互いがいる。それは幸福なことだとアケルは歌う。 「つらいことも悲しいこともたくさんありますけど」 「でもそれが、生きているってことでもあるな」 「えぇ、まったく」 例えば。混沌の戦いに勝利して、そして二人が呪いを受けていなかったとしたら。アウデンティース王は、王冠を捨てられない。アクィリフェルは、狩人であり続けるのが当然。二人は引き離されたまま過ごすことになっただろう。互いを思いつつ、会うもままならない状態で。 「それなら、今のほうがいいと思うのは、僕の間違いでしょうか」 「いいや。実のところ俺もそう思う」 実際、呪われたと理解した瞬間にアウデンティースが思ったのはそれだった。これでアケルと共に過ごすことができる。半分くらいは強がりだった。けれど残り半分は本心だった。 「なぁ、アケル。こんなことは言いたくないがな。俺には口で言うしかないんだ」 お前のよう歌で伝える術はないのだから。困ったように呟くラウルスの声に、アケルは小さく笑みをこぼす。 「それで充分ですよ」 声を聞かせてくれれば、あるいはそこにいるだけでも、ラウルスの考えていることならばわかる。だからこそ、言ってほしかった。思っていることを素直になんでも言ってほしかった。彼の声を聞くのが単純に、好きだった。 「お前も、つらいだろうと思ってな」 「どうしてです?」 「カーソン。お前のことも、覚えてない」 「当たり前じゃないですか。あなたを覚えてないのに僕を覚えているはずがない」 からりと笑うからこそ、アケルの痛みがラウルスにはわかる。親しい、と言っていいのかはわからない。ラウルスにわかるのは、豪胆な将軍であったカーソンが、一介の狩人であったアクィリフェルと言う男を心から買い、敬服していた事実。そのカーソンをアクィリフェルもまた尊敬していた。 「……覚えていてくれたら、と思いますよ。それはね。僕を覚えていてくれて、そしてなぜファロウ殿を殺したと罵ってくれればと思いますよ」 「お前な! それは違うだろうが。お前のせいじゃない、お前は悪くない!」 「でも、僕の手が足らずファロウ殿を死なせてしまった事実は変わりません。――覚えていてくれれば、謝りたいですけどね」 今のカーソンには詫びようがない。そうアケルは言う。静かな吐息が、彼の心の内を物語るようだった。 「アケル」 す、とラウルスの声が変わる。アケルの耳にはアウデンティースの声に聞こえ、体を離して振り向いた途端。頬に軽い熱を感じて目をみはった。 「カーソンを見くびるな。お前のせいでファロウが死んだと言うような男だと、お前は本気で思うのか。カーソンはそんな男か」 「……ラウルス」 「お前がカーソンを重く買っていたのも、敬っていたのも俺はこの目で見ている。その上でもう一度聞く。カーソンはそんな男か」 「――いいえ」 うつむいたアケルをラウルスは両腕で抱きしめる。リュートの音がなくなって、急に室内は静かだった。 「自分を責めるな。俺もお前も人間だ。できることとできないことがある。やりたいと思っても、手が届かないこともある。やりたいことと、できることは違う。スキエントの二の舞だぞ、それは」 はっとしたよう顔を上げかけたアケルの頭をラウルスは抱え込んで離さない。燃えるような赤毛に顔を埋めていたかったのは自分だ、ラウルスは目を閉じる。 「お互い、できることをしよう」 ラウルスは強い。アケルは心から感嘆する。今この状況で彼はそれを本心として口にできる。ぼろぼろに傷ついても人々のために混沌を討とうとする彼。最後の血の一滴まで民に捧げ尽くし、そしてなお差し出すものがないのを嘆くのがアルハイド王だとかつて彼は言った。その王のため、自分は何ができるのだろうとアケルは思う。 「もう一曲、お聞きになりませんか。我が王よ」 |