シャルマークはメディナの海辺は、ミルテシアの海とはまるで違う顔を見せていた。南の華やかな色合いをしたミルテシアの海に比べると、遥かに厳しい青だった。
「大丈夫そうだな」
 その海を眺めつつラウルスはほっとしたよう呟く。禁断の山の跡地からの強行軍だった。さすがに疲れてはいたけれど、今のところ異変は起こっていないらしい。そのことに疲労が吹き飛ぶ気がした。
「感じますか?」
「ん? そりゃあな。聖地の湖とはだいぶ違う。あそこに立っただけで……ぞっとしたからな」
「僕もですよ。内臓がひっくり返った気がしました」
 思い出しても肌が粟立つ、と言わんばかりの口調に、それを感じられない自分をラウルスは悔やみ、同じほどほっとする。自分までもがあのとき囚われていたならば、アケルは混沌に飲まれていたかもしれないと思えばこそ。
「とりあえず、いまのところまだ大丈夫らしいが……どうする?」
 このまま帰っては何かが起こったときに二度手間だ。いっそ片づけておきたいが、と問うラウルスの目にアケルは微笑んだ。
「お。久しぶりに笑ったか。ほっとしたよ、俺は」
「なんのことです?」
「ずっと張り詰めっぱなしだっただろうが。あれじゃいくらお前でも体が持たん」
「いくら僕でも、と言うあたりに引っ掛かりを覚えますけどね!」
「狩人だから体力に不足はないだろうって褒めてるんだろうが!」
 生憎そうは聞こえない、と嘯くアケルの目にラウルスは見入っていた。ここまでどれほど気を張っていたのかが伺えるような安堵ぶりだった。
 普段は美しい深い青の目もきつく見えるほど、アケルは淡々と歩き続けた。リュートまで弾きながら、だ。ラウルスには負担のほどがわからない。それを悔しく思う。
「なんですか、僕の顔に何かついてますか!」
「いーや。別に。と言うか、あれだな。北にまわってみたいもんだな?」
「はい? 急に何を言い出したんですか。本当にあなたって人は意味がわからない!」
「お前の目を見てたら北の海が見たくなった。それだけだ」
 激動の日に世界が作り上げた北の山脈は容易に人を近づかせない峻険なものらしい。二人も遠目に瞥見したことがあるだけで、近づいたことはなかった。
「そんな暇がどこに? まずはメディナです」
「そんなこと言ってもなぁ」
 行きたくなってしまったものは仕方ないだろう、とラウルスは呟く。さほど本気でもないのだから、アケルはその思いも聞き取っていることだろう。
 ただ、安心していた。少なくとも今現在においてメディナは安全だ。メディナには、一度は救った民がいる。そしてあのカーソンがいる。
「仕事しますよ、ラウルス。まず仕事を片づけて、それからです。それまでは僕の目でも眺めてるんですね」
「眺めてたら文句いうくせになにを言うか」
「当たり前じゃないですか!」
 腹立たしげな口調なのに、声は笑っている。器用なものだとラウルスは呆れたのに自分もいつの間にか笑っていて、似た者同士なのかもしれないとふと思う。
「それで、アケル?」
 まさかカーソンの屋敷に乗り込むわけにも行かない。いまの二人はカーソンにとって見ず知らずの他人だ。
「まずは……あなたなら知ってると思うんですけど。墓地、どこですか」
「墓地!? そりゃ、わかるが」
 何度も訪れているのだから、わからないはずがない。アケルが尋ねているのは村人の共同墓地ではなく、カーソンに近しい者の墓地だろう。
「ここまできて、ファロウ殿の墓を素通りはできませんよ、僕には」
「それもそうだ。行くぞ」
 混沌との戦いにおいてファロウが果たした役割は大きい。ただラウルスは思う。結果的にそうなったと言うだけであって、ファロウが自覚的に行動したわけではないと。
 以前、混沌を退ける手段を求めて旅をしていた国王だったあのころ。ファロウはまだ本名のアクィリフェルを名乗っていたアケルにとてつもない無礼を働いている。
 あれは自分の悪意に感応しただけ、ファロウの性根は素直な人だ。アケルはそう言った。が、ラウルスとしては納得する必要を感じない事実でもあった。
「ファロウ殿は、優しい人だったんですよ」
「ほう、そうか」
「ラウルス! ひとつお尋ねしますけどね、陛下! もしもファロウ殿がどうしようもないろくでなしだったら、カーソン卿が重用したと本気であなたは思うんですか!」
 それはすなわちカーソンへの侮蔑と不信だ、とアケルは言う。それにはラウルスも苦笑するしかなかった。
 メディナ領主の墓地は、穏やかな静謐に包まれていた。墓地なのだから当然と言えば当然。だがそこにあってはならないものが眠っている、そんな寂寥をラウルスですら感じた。
「カーソン卿、お寂しいでしょうね」
 道々摘んできた花をファロウの墓前に手向ければ、ラウルスもうなずく。そして思う。死者は、この花を誰から受け取るのだろうかと。今ここに訪れたアケルか。それとも、かつて知っていたアクィリフェルからなのか。尋ねても答えが返ってくるはずもない。
 ファロウは、心からカーソンに愛されていたのだとラウルスもしみじみ思う。ここは領主の、メディナ侯爵家の墓地。侯爵家の墓所は更なる奥にこそあるけれど、この墓地に埋葬されたと言うことだけ考えても、カーソンがどれほど慈しんでいたのかわかると言うもの。
「……思い出すな」
 あの日、倒れたファロウの傍らに跪いていたカーソンの背中を。突如として小さくなってしまった背中だった。
「えぇ……」
 ファロウがいなければ、混沌に囚われたのが誰なのかを発見するのは更に遅れたはず。そしてファロウがいなければ、囚われたスキエントが御使いの剣を奪ったことも知らなかったはず。
「あなたのおかげです」
 アケルは墓石の前で頭を垂れる。アケル自身、好感を抱いていたわけではないだろう。接触が少なすぎて、感想を抱くほどの知り合いでもない。それでもなお。
「――何者か」
 はっとして二人ともが振り返った。ラウルスは思う。物思いに沈んで人の近づく気配を掴みそこなうとは恥辱と。アケルは思う。あまりにも人の気配が薄すぎると。
「ご無礼をいたしました」
 すらりと立ち上がり、アケルは何事もないよう頭を下げた。そこに立つ、メディナ領主カーソンに。言葉もないラウルスだから。
「以前、騎士様に助けていただいた者です」
 カーソンは訝しげな顔をしていたが、アケルの言葉を聞くなり破顔した。それは嬉しそうに、愛し子の善行を聞くように。
 ラウルスは胸が詰まって息もできない心地だった。あのカーソンが。アルハイド王国屈指の騎士でもあったカーソンが。アルハイド王国軍全軍の指揮を執った将軍が。
 なんと小さくなってしまったことか。たった二年。けれどファロウを失った二年。アウデンティース王を亡くした二年。
「そうか……ファロウめが、人助けをしたか……」
 目を瞬く、老いたカーソンにアケルはうつむいて見せた。涙腺の緩みから丁重に目をそらしたように見せ、けれど胸の奥がきしんでいた。
 やはり、と思う。案の定だとも思う。カーソンの目は、二人を初対面の平民と見ていた。
「あの日以前のことですが。酒場でならず者に絡まれていた私を助けてくださいました」
「さもありなん。大異変よりこの方、酒場は火が消えたようだと聞く」
 ラウルスはそっといまのカーソンの言葉を覚えておこう、と思う。人々の間であの日は大異変と呼ばれているらしいと。確かに異変だった、それもとてつもない。皮肉に歪んだ顔をうつむけることで隠した。
「お前は……?」
 カーソンの目がようやくアケルを訝しいと思うにたると思い出したようすがめられる。それに向かってアケルは優雅に一礼して見せた。
「私はアケル。旅の吟遊詩人にございます」
 あながち間違いでもない。問題は、聴衆がほとんどの場合人間ではなく、この世界そのものだと言うことだな、とラウルスは思う。
「吟遊詩人、とは。な……」
 カーソンの目がそしてラウルスに向けられた。まるきり未知の人を見る目で。吟遊詩人の連れにしては体格がよすぎると首をかしげつつ。
「ラウルスと言う。愛しい男を一人で旅に出したくなくてついて歩いているんですよ」
 苦笑して言えば、カーソンがにやりと笑う。ちらりと見やったアケルは可愛らしく頬まで染めて見せているのだから実に器用だ、とラウルスは思う。
「よしてください、ラウルス。恥ずかしいじゃないですか、そんな」
 ほんのりと染まった頬が艶めかしくて、アケルと言う男がどういう人間か知っているラウルスでさえ騙されそうになる。
「これはこれは愛らしい吟遊詩人殿だ。これでは確かに……不安だな?」
 冗談のように言うカーソンの言葉にラウルスは肩をすくめて見せただけだった。平民が領主に、となれば確かに不遜な態度。だが二人は厳密に言えば平民ではない。吟遊詩人とその連れと言うことは、身分の外にある流れ者、と言うことだった。ならば多少の不遜は許される。
「それにしても、いまどき食べていけるのかね?」
「御領主。この男は可愛い上に奇特でしてね。こんな時代だからこそ、人には歌が必要だと言って聞かない」
「明るい歌のひとつで、ほんの一時であっても心慰められることもあるはずだと、思うのです」
 言い方が変わってはいるけれど褒めてくれてありがとう、とでも言うようなアケルの眼差し。ラウルスは背筋が寒くなった。アケルの目の奥に、彼の本心が透けていた。
「うむ、それは確かにそうかも知れんな。どうだ、もしよかったら屋敷に来んか」
 アケルの顔こそ見物だった。なんとありがたいことを聞いたのだろう、と言わんばかりに輝き、そして同時に本当だろうかとためらう。
「御領主の前で歌うのは、久しぶりなんじゃないのか、お前」
「そうですけど。でも、腕は鈍ってはいませんからね」
 自信を覗かせたアケルにカーソンも興味があるのだろう。再度屋敷に来るように、と要請するだった。




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