「どうしたんです、ラウルス」 歌い収めた途端の、アケルの声だった。驚いてラウルスは彼を見やる。いままで眺めていた背中だった。それでも改めて見つめなおした。 「なにか、気がかりができたって感じでしたけど?」 「わかるのか?」 「あなたですからね」 どことなく誇るような口調が好ましい。ラウルスはけれど、苦笑していた。困ったな、とばかりに首を振ればアケルの眼差しがきつくなる。 「喋ってなかっただろう、俺は?」 声を発していたならば相手は世界を歌う導き手。どんな隠れた思いであろうと見抜かれてしまう。それは知っていたが、自分はいま、佇んでいただけだ、とラウルスは思う。 「だから、あなたですからね。気配だろうと物音を立てているんです。余人ならいざ知らず、あなたですから」 照れもせず言い切られてしまった。普段何くれとなく愛を語るような男ではないだけに、かえってラウルスのほうが気恥ずかしさを感じるほど、まっすぐな言葉だった。 「なるほどな。だったら気配を殺したら、どうだ?」 「そんなことができるんですか?」 「おう、やって見せようか?」 にやりと笑い、前を向けとラウルスが示す。そしてそのまま気配を絶った。アケルの背中がぴくりと動く。 「本当だ。何も感じない。――いや、いるのはわかるかな? いるのに、いない。全然聞こえないってわけでもないですけど、ぼんやりしますね」 「それはそれでかなり傷つくぞ」 向き直ったアケルがなぜ、と首をかしげる。妙にあどけない仕種でラウルスの心がざわめいた。 「そりゃそうだろう。こっちは気取られないよう気配を殺してるんだ。それをあっさりいるってわかると言われちゃあなぁ」 「本当に、あなたって人は」 「なんだよ?」 「器用な国王陛下がいたものだなと思っただけです」 「昔の話さ」 にっと笑ってラウルスが言えば応えてアケルも笑う。もういまはただのラウルス。それなのに王位にあったころと同じよう、人々を守ろうとする彼。互いにそれを当然と思っていた。 「それで? どうしたんです、ラウルス」 先ほどと同じ問い。もしも言いたいことがあるのならば聞く、とアケルは言う。言葉の外側で、同じように言いたくないことならば聞かないとも。 「ちょいとばかり、懸念がな」 ラウルスは案ずるには及ばない、と首を振り湖へと目を向けた。穏やかそのものの水面。先ほどと変わらない情景なのに、決定的な差異がある。なにがどうと言葉にできるものではなかったけれど、ラウルスにも感じられた。 「――前に、お前が水に向けて歌ったことがあったな?」 「メディナですね。聖水みたいなものが作れないかってあなたの提案でした」 「それだ。そこで質問だ、アケル。あれは、さっきの話で言うなら聖性と瘴気、どちらだ?」 「そんなの言うまでもな――」 さっとアケルの顔色が変わった。ラウルスはそれを確かめたかった。あるいは、大丈夫だと請合って欲しかった。けれど。 「だったら行くのは――」 「メディナです。カーソン卿が、危ない」 「なにより、メディナの民がな。もう一度混沌の襲来が起こってみろ」 「それはそうですけど。あの水瓶はカーソン卿の屋敷にあるんです! できれば……捨てていてほしいですが」 無理だな、とラウルスは首を振る。二人は早、湖の丘を後にしはじめていた。野営の予定を蹴り飛ばし、完全に陽が暮れるまではと歩きはじめる。普段の歩調から比べれば速い。焦りが足を乱していた。 「カーソンには、捨てられんだろう」 「生真面目で律儀な方だから、ですか?」 リュートが切迫感を帯びて響く。一刻も早く、と焦るアケルの心を感じた。だからこそ、ラウルスはかえって落ち着いた。足をまだ速めようとするアケルを手で制し、歩調を戻す。 「ラウルス!」 「焦るな。ここからメディナまでどれだけあると思ってる。あのときとは違う、自分の足で歩いてるんだぞ、俺たちは」 「でも!」 「焦って何かいいことがあるのか、アケル?」 からかうような、見下すような声。しかしアケルは本心を聞く。ラウルスとて、焦っていないわけではない。むしろ彼のほうがずっと気は急いている。それでも自分が倒れたならばメディナは誰が救うのか。その思いのほうがずっと強いラウルス。敵わない、とアケルは息をする。吸い込んだ息に、世界を感じた気がした。 「俺たちも、一端の旅人だ。異変があれば、噂話はすぐに聞こえてくるってのを学んだだろう、アケル? だから、最近までメディナは何事もなかった。それは言える」 「昨日だったら? 僕らが着くのが一歩遅かったら?」 「それをいま考えるな。俺たちにできることを、できるようにするしかない」 厳しい声。アウデンティースの声だとアケルは思う。かつてのよう無闇に嫌ったりはしない。それでも背筋の伸びる声。王たるもののあるべき姿と声だとアケルは思う。 「――わかりました」 いつもの歩調を保つのが、こんなにもつらい。早く早くと思うばかりで、少しも進んでいないような気すらする。 「こんなとき、サティーたちに会いたくなりますよ」 「ん? どうしてだ」 「あぁ、話しませんでしたっけ?」 激動の日、どうして自分がちょうど王の元へと間に合うよう到着できたのか、あの場でなにがあったのかをアケルは語る。 「驚いたもんだな」 呆れたよう首を振り、ラウルスはそれでも楽しげだった。まるで自分も体験してみたかったと言いたげな口調で、アケルこそ呆れる。 「とんでもなく緊迫した状況だったはずなんですけど?」 「終わってみれば済んだことさ」 肩をすくめて言う。本心だとわかっているアケルでさえ呆然とするほどあっさりと。 終わったこと、と言えるようなことではなかった。アウデンティース王はそれこそすべてを失った。王冠も、子供たちも、王としての命も。 「結局のところ俺はな、アケル。王位にあれば王としてあるべきことをする、それが当然だと思ってた」 「そうしていたと思いますけど?」 「だから、それを義務――悪い意味での義務と思ったことはない。好きか嫌いかと聞かれれば好きだったと思う。だが――お前に会った」 にやりとするラウルスに、アケルは答えない。答える言葉を持たないと言ったほうが正しい。ぽつりぽつりとリュートを爪弾くから、照れているのだとラウルスは思う。 「お前と王冠と、どちらを選ぶと聞かれれば、できればどちらも、と答えた」 「それは――」 「ちなみに、いまのはアウデンティースの答えだ。わかるか、アケル?」 「否が応でも聞こえますからね」 むっとしつつアケルの眼差しは大地に落ちていた。身の置き所がないように視線がさまよう。決してラウルスは見ずに。 「ラウルスならば答えは違う」 ラウルスは言って息を大きく吸い込んだ。幸い、あの沼地とは逆から丘を下ったので臭気はさほどでもなかった。空気が芳しい、と言うのをしみじみと感じる。 「ラウルスならば、お前をとる。王冠より、息子たちより娘より、お前をとる」 「……戯言にしか聞こえないんですけど」 「お前な! 人がせっかく言ってるのに、何だよそれは!」 「ただの感想です! 嘘をついてるなんて一言も言ってない! どこからどこまでも冗談にしか聞こえない本気というものがこの世にはあるんだなって呆れてただけです!」 「……念のために聞く。褒めてるのか、それ」 「知りません!」 憤然とアケルが足を速める。けれどもう先ほどのよう焦りはしなかった。着実な足が大地を刻む。淡々と進んでいく。そしてアケルは小さく笑った。 「なんだよ?」 隣を歩きながらも明敏にそれを感じたラウルスだった。感じたラウルスを、アケルもまたすぐさま感じ取る。時折どちらが自分の感覚かわからなくなるほどに。不快ではなかった。むしろ安堵。ふと見上げれば、不満そうでもなくラウルスは微笑んでいた。 「あなたらしいなと、思って」 「なにがだ?」 「王冠は要らない。その言葉自体に不思議はないです。あろうがなかろうが、自分にできることをする人だから」 それはラウルスにとって、この上もない言葉に聞こえた。自分の魂の根幹を理解されている。言葉にすればそんな思いにも似た。だが違う。そんな生易しいものではない。それなのに、息もできないほどの歓喜。 「王子方も、そろそろ一人前の年齢でしょう。今更お父上が心配するようなことじゃない。姫様は、意外だったかな、それで言うなら」 「なんでだ?」 「僕らの集落でもね、父親って言うのは娘を溺愛するものだったんです。結婚するなんて言い出したときには大騒ぎって相場が決まってましたよ」 なんでもないことのようアケルは言った。いまは背後になったかつての禁断の山。アケルの故郷にかつてあった情景。懐かしいというにはいまだ鋭い痛みのある景色。 「だから姫様は、もう少し気になってるのかなって」 「気にしてやらなきゃならないような娘か、あれが? とっととメレザンドと一緒になればいいんだ」 「妬いているようにしか聞こえませんよ、陛下」 にやりと笑ってアケルは言う。以前はとてつもない蔑称として発音していた言葉も、いまのアケルにはからかいになるらしい。 「そこまで言うのにね、あなたは民の事は一言も言わなかった。王冠も子供もって言うのにね」 「それは、まぁ……」 「あなたはもう王じゃない。それでもあなたには王の自覚がある。他の人なら嫌味でしょうけどね、そんなの。僕には、ただひたすらにあなたらしいなって」 「国王だからできるなら、子供らに任せるけどな」 「ですね。あなたには、王冠も玉座も要らない。何もなくても、あなたは王だ」 民を守る、その一点において。アケルの目には燦然と輝く王冠が見えていた。煌く玉座が見えていた。たとえ彼がまとうのが、草臥れた旅の装束であったとしても。 |