登りきった丘の頂上の景色に、アケルは目の前が真っ暗になった。本当に、目が見えなくなったのかと思うほど暗い。
 けれど知ってはいた。光がないのではない。事実、ラウルスには当たり前の景色に見えていた。湖には満々と水がたたえられ、風が細波を作り、消していく。ほんのりと可愛らしい木立、水辺は美しい砂地。目で見ている限りは、何事もない場所だった。
「……ラウルス」
 息を飲んだまま吐くことを忘れたよう、アケルは彼を呼ぶ。呼んでいる意識など、ないに違いはなかった。ラウルスは彼の傍らに立ち、その目を覗き込む。
 何も見ていない目、否、聞いている目。ふらふらとアケルの足が水辺へと向かう。ラウルスは止めもせず、黙って後ろについていった。
「おい」
 だがさすがにアケルが湖に足を踏み入れようとするに至って、ラウルスは彼の肩を掴んで引き止める。振り払いこそしなかった、アケルは。しかしまだ進もうとしていた。
「アケル!」
 ここにきて、ラウルスも焦燥に駆られた。なにが起こっているのか、見当はついている。混沌だ。間違いなく、混沌の欠片がここにある。それはラウルス自身、肌身で感じていることだった。
 それなのに、アケルが囚われようとしているというのに、引き剥がす術が見つからない。声をかけてもだめだと言うのならば、どうするべきか。
「アケル、歌え!」
 咄嗟に放った一言。ラウルスでさえ、自分がなにを言ったのかわからなかった。その上、指はアケルが携えるリュートの弦を弾いている。
 濁った音がした。アケルが奏でるのと同じ楽器、けれど決定的に違う音色。それでもよくぞ音が出たものだ、とラウルスは安堵する。アケルのリュートは、彼以外が弾くことのできない楽器。
「……すごい音だな」
 ぎょっとしたよう、アケルの目に光が戻る。それでもまだ首を振っているところを見れば、正気に完全に返った、とは言いがたいらしい。
「悪かったな」
「……別に、でも、なんだろう……これ……」
「アケル。歌え。歌ってくれ。お前の歌が聞きたい。あれがいい、夜明けの歌だ。あれを聞かせてくれ、いまここで。すぐに!」
 悲鳴じみたラウルスの訴えだった。それが功を奏したのかどうか。アケルの指がリュートの弦を弾く。先ほどのラウルスと同じ弦、同じ仕種。それでもまったく違う音がした。
 突如として、呼吸が楽になった。ラウルスにはそう感じられた。アケルのリュートが音色を作る。アケルの声が歌詞のない歌を歌う。
 以前、アケルは言った。世界は夜明けを喜んで歌うのだと。素晴らしい歓喜の歌だと。新しい一日が始まり、そして生き返っていく世界。その世界が歌う歌。
 あるいは、その選択がよかったのかもしれない。音色が力強さを増し、歌声が華やぎを帯びていく。そのたびにアケルの目に力が戻る。
 ゆっくりと息をして、歌い収めたとき。アケルは正気に戻って悔しそうに唇を噛んでいた。
「みっともない」
「なにがだ」
「いまさら混沌に魅了されそうになるなんて!」
「まぁ……不意打ちだったしな。仕方ない」
 肩をすくめるラウルスに、アケルは腕を伸ばした。何気ない動作で、ラウルスはためらいの見えるアケルを抱き寄せる。悔しくて、すがりたい。けれど誇りが許さない、そんなアケルに内心で微笑みつつ。
「いくら不意打ちだって――」
「なぁ、アケル。ここは、禁断の山だった。お前の故郷だった。見たくないもの、信じたくないものをお前は見てきたんだ」
 わかるか、と言わんばかりに耳許で囁かれ、アケルはうなずかざるを得ない。ラウルスの言うことは、確かにそのとおりなのだから。
 変わってしまった山。いなくなってしまった仲間たち。アルハイド大陸中を旅してきた二人ではある。だからこそ断言する。禁断の山は、最も変化が激しかった地域のひとつだと。
「お前には、衝撃が強すぎた。そういうことだ。そこにつけこむのが混沌、だろう?」
「そんな意識があちらにあるのかどうか、わかりませんけどね」
「わからなくっても、事実上そういうことは多々あったんだ。それで納得しとけ」
「……本当に、あなたって人は」
 くつりと胸の中でアケルが笑う。情けなさそうな声だったけれど、悪い気分ではないらしい。
「なんだ?」
「本当に、いい加減で大雑把で、どうして僕はこんな人について行こうって決めたんだろう」
「そりゃ、惚れてるから?」
「自分で――」
 言うな、と言おうとしたのだろう。ラウルスはにやりと笑う。言いさしてやめてしまったのは、あまりにも繰り返し続けてきた言葉のせい。
「さて、アケル。仕事をしよう」
 ぴしりとした声の変わり方。アケルはうなずいて体を離す。見上げたラウルスの目は、ラウルスと言うよりはアウデンティースめいていた。
 いまだに区別してしまう自分をそっと笑い、アケルはリュートを構える。この変わり方が、実は好きなのではないかと思いつつ。
「仕事熱心な男と言うのは、評価に値しますからね」
 嘯いて見せたアケルにラウルスは微笑んだだけだった。からかっていいときと悪いときを彼は知っている。
「解説してくれ、アケル」
 湖を顎で指し、ラウルスは言った。もうそれで解説など済んでしまったようなもの。アケルはこくりとうなずいてラウルスを肯定する。
「ご想像どおり、と言うか、感じてるでしょう? 混沌の欠片ですね。討ち漏らした欠片が、いまどうしてここにあるのかは、僕にもわかりませんが」
「それこそ想像だがな。ここは、聖地だった。そうだな? 混沌は、悪魔のもの、聖なるものは、神々のもの。そうだろ」
「えぇ、そうでしょうが……」
「良くも悪くも、自分とは正反対に位置するものに、惹かれるってことじゃないのか?」
 ラウルスの言葉にアケルは耳を傾ける。正確には、その言葉を世界がどう判断するか、を。そして溜息をついた。
「それであってるみたいです。ただ、それだけとも思いがたいですけど」
「お前が言ったんだろうが。混沌に意思はあるのかってな。所詮、人間の俺たちに理解できることには限度がある。とりあえず仕事だ仕事」
 討ち漏らした混沌の欠片ならば再び討つまで。二人にはそれができる。二人にしか、それはできない。もう自分たちのことを覚えてもいない人々のためにそれをするのか、とは双方とも一度も問わなかった。彼らにとって混沌との戦いは当然のこと。
「そうですね、狩人としても討ち漏らしは恥だ」
 鼻を鳴らし、アケルは湖を見据える。ラウルスにはそう見えているが実際は聞いている。静かな呼吸すら、音楽のよう。
「あなたの言葉どおりですね。あの湖の下に、聖地の中心が沈んでいると思います。そこに惹かれて集まってきた混沌らしいですから――」
「とりあえず、集まってる分だけでも何とかしておこう。恒久的手段は後で考える」
「同感です」
 言ってアケルは前置きなしに歌いはじめた。ラウルスが一瞬とはいえ、音に惹き込まれるほど高らかな歌声。
 これでは混沌など一網打尽だ、とラウルスは内心で小さく微笑む。アケルの歌声で、景色が変化した。ラウルスには少なくともそう見えた。
 おそらく、と想像する。アケルが自分を見失ったときに見ていたのが、この情景だろうと。混沌は闇ではない。光を通さないものでもない。そしてたいていの場合は目に映るものでもない。それなのにラウルスの目の前が闇に閉ざされる。息を吸い、音を聞く。アケルの音に体を委ねれば、目の前に見えるもの。
「来たな」
 アケルの音に混じる金属音。御使いの剣が鞘走る。混沌の中にあってそれは輝く、漆黒に。柄の銀まで、闇色に輝きを増した。
 ラウルスの目に見えたもの、混沌の欠片の核。アケルの歌がおびき寄せ、捏ね上げ作り上げた混沌の核。
「アケル――!」
 ラウルスの剣が一閃した。アケルの耳はそれを聞く。目を焼かんばかりの漆黒が、核の中心に吸い込まれるよう突き進んでいくのを。
 音楽に混じった音色。混沌の悲鳴、あるいは歓喜。魔王の剣に貫かれた混沌が放った音をアケルは聞いた。ぞくりと身震いをしたとき、温かいものが体を支えた。
「大丈夫か?」
 覗き込んでくる猛禽の色をした目にアケルはそっと笑って見せる。自分でも、頼りない顔だと思いつつ。
「耳が、鋭くなったのも善し悪しだな、と思って」
「だな。言いたくないが、心配だ」
 ここ一箇所で済むものとは思えない。ならばこの先は。ラウルスの懸念にアケルは首を振る。
「大丈夫です。いま、僕は欠片の音を聞いた。もう覚えましたからね、次は影響されません」
 だいたい、とアケルは思うのだ。あの激動の日。自分は混沌本体の弾ける音を聞いているはずだ。幸か不幸か、耳に残ってはいなかったが。
「ラウルス、見て。正解でしたよ、やっぱり」
 アケルがラウルスの腕の中から目を上げた。いつの間にか二人は湖に足を浸すぎりぎりのところにまで進んでいた。
 その足元から、冷気が上がってはこなかった。先ほどまでは側に寄るのもためらわれるほど深々と冷えていたというのに。
「なんだ……これは……」
 自然現象ではありえない。ラウルスは水に指先を浸してみて、二度驚く。冷たくないどころの騒ぎではなかった。仄かなぬくもりすらある。
「下は聖地ですからね」
「それで説明になると思ってるのか、お前は!」
「思ってませんよ! とりあえずここは聖性と瘴気、と言っておきますけど、善悪じゃない。僕は人間なんでそうとしか言いようがないですけど」
「聖性を帯びると水が温かくなる、と言うことか?」
「非常に極端な現象ですけど、たぶんそういうことです。混沌による瘴気を洗い流そうとする世界の作用、とも言えますけどね。下の沼地は、混沌の侵略を受けたんじゃないんです、その瘴気に侵されてるだけだ。だから、ゆっくりと大地自身に傷を癒してもらうよりない」
 溜息をつき、アケルは再び湖に向けて歌った。励ますような頼るような甘い歌声。ラウルスは傍らに立ち耳を傾けながら、けれど顔は厳しさを増していた。




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