言葉少なに湿地を進んでいた。喋りたくとも、体力を失うのを恐れて二人とも口を開けないでいる。それほど冷たい泥だった。 ぬかるみに何度足を取られたことだろうか。そのたびに互いに支えあい、時には二人して沼地に倒れこむ。 それなのに、アケルのリュートは途切れることなく続いていた。まるで音色が消えるのを恐れるようだ、とラウルスは思う。 実際、そのとおりだった。アケルは肌にぴりぴりとした不安を感じている。肌に、ではないのかもしれない。体中に、覚えがある不快さ。 「ラウルス」 アケルが口を開いたのは、彼が聖地の名残かもしれない、と言った丘を登りはじめたころだった。丘の斜面を小川にもならない水の流れが潤している。幸い泥ではなくなったが、何しろ冷たい。湿地にたたえられた水はこの上から来ているのだろう、足の指の感覚がなくなるほど冷たかった。 「どうした」 淡々と、ラウルスの歩調は変わらなかった。平地を歩いていても、このような足場の悪いところを歩いていても。そのことにアケルは感嘆する。 「なんだか、嫌な予感がしませんか?」 アケルの声にラウルスが顔を顰める。言われたくない、予想していたことを言われたとき、人はこんな顔になる。 「いやに覚えがある感覚なのは、俺の気のせいだと思ってたんだがな」 「生憎と僕もですよ。あなたもだと、当たりかな」 「だろうな」 ラウルスの視線が、丘に据えられた。じっと見つめると言うよりは強い眼差し。アケルのリュートが高らかと鳴り響く。 「この感覚――」 「あぁ、あの日の王宮だ」 「だったら混沌で間違いないですよね」 ぎゅっとアケルが唇を噛んだ。またか。またなのか。一度は撃退したはずの混沌。再びアルハイドの大地を侵そうと言うのか。 「アケル。たぶん、違う」 「なにがですか!」 「お前、今またかと思っただろうが」 ちらりと横を歩くアケルを見やれば、唇を噛んできつい目をしていた。戦う目だ、とラウルスは思う。それを好ましいとも。いまだ腰に佩かれている黒き御使いの剣、親しくなった竜曰く、魔王の佩剣に手を添える。何かが伝わってきはしまいかと。 「思いましたけど! それがなんですか、ラウルス!」 アケルの鋭い声に救われた。剣から伝わってきたものは、想像以上だった。言葉では言いようのないもの。だが確信。 「また、じゃない。討ち漏らし、と言ったほうが正しい」 「な――」 「スキエントを恨むべきか。あの野郎のせいで、こっちの計画は崩壊したんだ。大方は退けたつもりだが、全部となると疑問は残る」 「そんな……でも」 「なぁ、アケル。お前、俺の言葉があってると、もうわかってるんだろう?」 信じたくないと首を振るアケルの儚い抵抗をラウルスは悲しく見つめる。アケルに信じてもらえなかったから、ではない。 嘘も真実も、聞き取ってしまうアケルの耳が、切なかった。こんなものを負わされて、人間であるアケルはいったいどんな気持ちなのだろう。人間であるラウルスには、わからない。ただ、つらいだろうとは思う。 「本当は……」 アケルの眼差しがどこかを見つめた。どこかであり、どこででもあった。アケルの目は、世界を見ていた。同時に、それは聞くと言うことでもあった。見るように聞くアケルは、今なにを聞くのか。 「あなたの言葉と同時に、世界が歌いました」 「そのとおりだって?」 「えぇ」 長い溜息をつき、アケルは口を閉ざす。冷たい水に体力を消耗したのだと言わんばかりに。嘘だと知っていて、ラウルスは受け入れた。 信じたくないだろうな、とラウルスは思う。あれほどの犠牲を払い、あれほどの苦痛を甘受して撃退した混沌。 それなのに、討ち漏らしがあるとは。それは同じことの繰り返しになりかねないと言う恐怖に容易に繋がる。 ゆっくりと足を踏みしめて、丘を登った。それでも足元が危ない。足場のせいではなく、疲労のせい。さすがのラウルスも呼吸が苦しい。それでもリュートは鳴り続けた。 無言で、時折弦を爪弾きながら足を進めるアケルに、何かをしてやれたらと痛切に思う。何もできない自分を、思うのかもしれない。 丘を覆っていた水が、収束しはじめた。頂上近くは小川になりかけている。強くなった流れに、いっそう水が冷たくなった気がした。 「――と言うことは、と」 ラウルスが上を見上げた。丘を覆うほどの水量がここにはある。ならば丘の上は、大きければ湖が、小さくとも池があることになる。 「なにか言いましたか?」 聞こえているくせにそう言うのは、無言でいることにも疲れたせいか。ラウルスは微笑んでいまの推測を伝える。 「えぇ、僕もそう思います。同時に――」 「元凶はそこかな、と?」 「人が言う前に言わないでください」 普段ならばもっと威勢がいいはずの声に力がない。ラウルスに比べれば細い体だ。冷え切ってしまえばどれほどつらいことか。 「乾いた地面があるといいんだけどな」 「なんでです?」 「このぶんだと野営だろうが」 もしも混沌の塊がここにあるのならば、すぐにも討たねばならない。そしてすぐさま討ち終わるのかはわからない。空を見上げれば陽は西に傾きはじめている。いずれにせよ、野営仕度は必須だった。 「どうせだったら火が欲しいよ、俺は。いい加減に寒い」 首を振ってラウルスは呟く。もう少しアケルを元気付けてやりたいとは思うけれど、如何せん、疲労がたまっていて気が回らない。 「僕もですよ」 こくり、とアケルがうなずいた。唇など紫になってしまっているのに、指先だけは止めずにリュートを弾いている。 やめろ、とは言えなかった。間違いなく混沌の名残がある。ならば、アケルのリュートは必要だった。ラウルスには想像するしかない。いまアケルが弾いているのは、混沌を釘付けにして逃がさない、そんな音色なのだろうと。 「なにか、もう少し景気のいいものでも弾いてあげたいんですけどね」 「お前な」 「なんです」 「それは俺の台詞だ。力になってやりたいと思っちゃいるんだが……」 悔しそうに首を振るラウルスに、アケルは青い顔のまま微笑んだ。 「あなたがいてくれる。それで充分、力になってくれてます。忘れたんですか、ラウルス? 僕らが喧嘩していたころだって、あなたがそこにいてくれるだけで、音色は安定したのに」 「喧嘩してない今ならもっとって?」 「まぁ、そういうことですね。実際、僕はこの指と耳を前よりうまく使えるようになってます」 「だから?」 不思議そうなラウルスに、アケルは騙されなかった。他の誰が聞いたとしても、ラウルスの声は真実疑問を覚えているように聞こえただろう。けれどここにいるのは世界の歌い手。鼻を鳴らして、それなのに小さく笑う。 「とぼけても無駄ですよ。前だって、あなたがいてくれるだけで助かってたんです。今は、あなたの存在そのものが、音色になる。僕の耳に聞こえる。音になる。あなたの存在が、僕の歌になる」 「つまり、二人は一心同体。俺がいなくちゃ充分な能力を発揮できない、と惚気ているわけだな?」 「ラウルス――」 リュートの音色が緊迫を帯びた。にやりと笑ってラウルスは何事もなかったかのようかわしてしまったけれど。 本当は、彼の言葉がありがたかった。アケルがそのように思ってくれていると知るのが、ラウルスの力になる。 冷え切った体に、熱が入った。体の芯、否、魂の芯に熱が熾って燃え盛る。指先まで漲った力に、今ならばアケルを抱えて運べそうなほどだと思ってラウルスは笑った。 「なにがおかしいんですか!」 「なぁ、アケル」 「なんですか!」 先ほどまで怒鳴る気力もなくしていたアケルだった。一心同体と言うのは、あながち間違いでもないか、とラウルスは思う。 「お前、疲れてるよな?」 「見てわからないんですか、見て!」 「わかるから言ってんだろうが、怒鳴るな!」 「怒鳴らせているのは――」 不意にアケルが口をつぐんだ。リュートの弦に置いていた指を目の前に持ってきてはしげしげと見ている。顔の前で握ったり開いたりと訝しげに。 「ラウルス」 「なんだよ?」 「あなた、僕になにをしたんです?」 その口調に、危うくラウルスは吹き出すところだった。こらえ切れなかった呼吸の一部が唇からもれ出てはアケルにいやな顔をされる。 「それじゃあ俺が不埒な振る舞いでもしたみたいじゃねぇか。お前は未婚の乙女か。俺はなんだ? 夜這い仕掛けた男か?」 「……夜這いに来たような気がしますけど」 ぼそりと言ったアケルにラウルスは今度こそ笑った。くつくつと喉の奥で笑うものだから苦しくてならない。腹を抱えて笑いたかったが、生憎ここではためらわれた。 「お前な、アケル。反応するところが違うだろうが。憎まれ口を叩くなら乙女かって言われたほうにしろよな」 「憎まれ口なんかじゃないです! ただの事実です! だいたい僕が乙女に見えるようじゃ目が悪いとしか言いようがない!」 「乙女には見えないがな、物凄く可愛らしく見えてはいるぞ?」 「……やっぱり」 溜息をついたアケルだったが、同意したのだとはラウルスも思ってはいない。すぐさま厳しい視線が飛んできた。 「あなたは目が悪いんじゃない。頭がおかしいんだ!」 「それを最愛の恋人に言うお前もどうかと思うがな」 「自分で言わないでください!」 「嘆かわしいことにお前が口にしてくれないもんだから自分で言うしかない」 妙な台詞を奇妙に威厳のある態度で言われてしまってアケルは肩を落としたくなる。事実で攻撃するのはやめて欲しい、とつくづく思った。 |