愕然とした。あの日、禁断の山が割れ、崩れ、雪崩れて大地に飲み込まれていくのをアケルは見るように聞いていた。 だかしかし、これほどとは。否、これほどだと、知ってはいた。見ては、いたのだ。だが、実際に己の目で見れば、衝撃は更に強い。 「……すまん」 立ち尽くしたアケルを、ラウルスはそっと背後から抱きしめた。その腕にすら、アケルは気づいていない。 「なにか――言いましたか?」 ぼんやりとしたアケルの声にラウルスこそが衝撃を受ける。まるで何も見ていないかのような声をしていた。 わかっていると思っていた。故郷の喪失。自分に引き寄せて考えてみれば、わかると思っていた。けれど。ラウルスにとって、この大地こそが故郷。アケルにとっては。 「やっぱり、お前を連れてくるべきじゃなかった」 目の前に、禁断の山はもうなかった。崩れて、かろうじて丘が残っている、とアケルに聞いてはいた。それにしてもとラウルスは思う。 この臭いの凄まじさ。大地が底から腐り果てたかの悪臭。どろりと濁り、ぬかるんだ大地。いったいどこから、と疑問に思うが水場があるのだろう。ずぶずぶとした湿地となっていた。そして遠く、小さな丘が見える。 あれが。禁断の山の最後の名残。ラウルスの目は、たった二年前の情景を見ていた。狩人の風変わりな村。樹上にかけてあった小屋の数々。素朴で親しみやすかった木の食器に、樹皮で編んだ美しい衝立。そして何よりアケルの父がいた、母がいた。 「あれはもう……」 たった二年。アケルにはどれほどの時間だっただろうか。父母が混沌に飲まれて死んだと、納得できる時間だったのだろうか。悼む時間はあったのだろうか。 「ラウルス」 ふ、とアケルの体にまわした腕にぬくもり。彼の手が添えられていた。いつものアケルの手より、わずかに冷たかった。 「僕は、あの日に知ってるんです」 腕に感じた痛み。無意識に爪を立てたアケルの手。ラウルスはなにも言わず強く抱いた。それになにを思うのか、アケルは鋭く息を吸う。 「父も母も、あの日、崩れていく山に飲み込まれて死んだって、知ってたんです。言いましたよね?」 「……あぁ」 「だからね、ラウルス」 「……なんだよ」 「あなたが、そんなに悲しそうな顔をすること、ないんです。僕なら、平気ですから」 「前向いたままじゃねぇか。見えないだろうが」 言いつつ、アケルの言葉こそ、あっているのだとラウルスは知っていた。赤毛に顔を埋めれば、心に負った傷が血を流す。 「わかってるでしょ。見えなくても、聞こえてます。あなたの心なら」 ゆっくりと息を吸い、吐く。それからようやくアケルは振り返る。耳で聞いたものが今ここにあると確かめるように、ラウルスを見た。 「ほら、やっぱり」 ラウルスの頬を指でたどり、少しばかり困ったような、それなのになんとも言えず綺麗な笑み。驚いて瞬けば、視界が歪んだ。 「あなたが泣くこと、ないんです。僕なら、本当に大丈夫ですから」 「泣いてねぇよ」 「でも、嬉しいです」 「なにがだよ」 ふっと顔をそむければ、腕の中でアケルが笑った。その音色に、どれほど心慰められていることか。アケルは知っているのだろうか。理解している、そんな気がした。 「僕の代りにあなたが泣いてくれて」 最後に零れた涙をアケルが指先で拭う。そのまま唇によせ、涙を吸った。 「おい待て! お前な!」 「なんです?」 「どうしてそういう恥ずかしいことをする!」 赤くなって言い募るラウルスにアケルは今度こそ明るい笑い声を立てた。濁った湿地を、華やかな声が渡っていく。 「恥ずかしいことをしたのは僕であってあなたではないと思いますけど? なんでそんなに赤くなるかな」 くっと笑って言えば、ラウルスの頬が更に赤みを増す。とても猛き鷲と称えられたアウデンティース王その人とは思えない純情ぶりだった。 だが、アケルのラウルスはこういう男でもあった。人格が乖離しているのではないかと疑いたくなるほど、アウデンティースとラウルスの間には隔たりがある。そして同一人物でもある。不思議な男だった。 「まったく、いい加減にしろ!」 言って憤然とラウルスは腕を離した。頬を染めつついまだ律儀に抱きしめたままだったのだから、可愛いものだとアケルは思う。 「それで、ラウルス」 「なんだよ!」 「後悔は済みました?」 アケルは何事もなかったかのような声でそう言った。連れてきたことを悔いる必要はないと伝えるように。 「だいたいね、ラウルス。僕を置いていってどうするつもりだったんです? 僕らは一心同体。どちらが欠けても仕事は完遂できない。知ってるでしょう?」 「まぁな」 「だったら、この話はここまでです。さぁ、行きましょうか」 「で。どこに?」 ぬるぬるとした湿地を渡るのか、と思えば気は進まないラウルスだった。本当は、言葉とは裏腹に、進まねばならない焦燥を覚えてはいる。アケルには、聞き取ってもらえることだろう。 「とりあえず、あなたの行きたいところまで。まずはあの丘を目指しましょうか」 案の定だった。ラウルスの勘が、この先に行けと告げているのならば行くまで。アケルの思い切りのよさにラウルスは微笑む。 「ま、それもそうだ。行くか」 いずれ、ぐずぐずとしていてもいいことは何もない。とはいえ、速めたい足であっても、湿地は容易に進ませてはくれなかった。 「これ、臭いの原因。わかるか?」 むっとする臭いに顔を顰め、ラウルスはくぐもった声で言う。とっくに鼻と口を布で覆っていた。同じ姿のアケルが眉を顰めて首を振る。 「少し――」 「あいよ。待ってる。わかったら言ってくれ」 原因かどうかはわからない、けれどアケルはいま何かを聞いている。今、と限れるものなのかラウルスにはわからなかったが、アケルの態度ならば見ればわかる。 「えぇ。ありがとう」 言わずに悟ってくれたこと、待つと言ってくれたこと。たかが二年ではあるけれど、時間では計れない旅の長さをアケルは思う。 「ラウルス、気にしないで喋っててください。返事くらいならしますから」 そしてまた、混沌を討ったときとは比べ物にならないほど、アケルの耳は鋭くなっていた。鋭い、と言うのとは違うかもしれない。耳の使い方に通じた、と言うべきだろうか。以前ならば傍らでよけいな音がすれば苛立ったものだが、いまは誰がなにを喋っていようとも気にならない。 「そう言われてはいそうですか、と喋れるかよ!」 からからとラウルスが笑う。言いたいことは理解しているが、アケルの言葉の足らなさを彼は笑った。今にはじまったことでもなかったし、おそらく直らないだろう。もっとも、ラウルスはそれを歓迎していたのだが。 「あぁ、そうだ。聞きたいことがあった。言いたくなかったら無視しろ。ただの興味にすぎん」 一応はと言いおけば、返事の代わりにリュートの音色。からかうような音にラウルスが苦笑する。 「あれな――」 苦く笑ったまま、彼は前方の丘を指差す。このぶんでは、湿地を踏破するのに三日や四日はかかりそうだ。 「お前には、つらい質問かもしれないが。禁断の山の、どのあたりだったのかと思ってな」 アルハイドの大地にかつて山はほとんどなかった。かろうじて山と言い得るのは、禁断の山と、そしてファーサイト賢者団の本拠のみ。いずれも新しく生まれた山脈に比べれば、可愛らしいものだった。 「聖域まで、山を登ったのを覚えてますか?」 人間が、神の手によってこの世に生み出されたその地。以前はそこを聖域と呼んだ。たかが二年で、人間は禁断の山の存在すら、忘れてしまったようだったが。 「あぁ、覚えている」 鬱蒼と茂った樹木、厚く積もった落ち葉。踏みしめるたび、匂いがした。生きている匂いだ、とアウデンティースであったラウルスは思ったものだった。 「僕にもはっきりとはわかりませんけど。でもあれ、聖域の名残じゃないかな」 「なに!?」 「だから、大きな声を出さないでください! 喋るくらいは邪魔になりませんけど、僕はいま、音を聞いてるんです! あなたの声が混ざると、かすかな音が聞き取れなくなる! 僕だって、聞いていたい音って物があるんです!」 「……お前なぁ。そんだけ怒鳴ってたら自分の声のほうがうるさくないか? 大体、怒鳴りながら惚気るな。聞いてる俺のほうが恥ずかしい」 「惚気てなんて……!」 言ってから、しばしアケルは息を止めた。ようやく自分がなにを言ったのか理解したのだろう。にやにやとしつつ見守るラウルスの前、アケルがほんのりと目許を染めた。 「これからは常にお前を集中させておくかな?」 「なに言ってるんですか!」 「普段なら言わないようなことを言うからさ」 憤然とラウルスを振り向いたアケルは、けれど言葉に詰まる。幸福そうな顔をして、彼は微笑んでいた。 「別に……僕は……」 「愛してるよ、アケル」 「はいはい、知ってますよ」 「ほらな?」 先ほどまでのアケルならばどう答えたのか。そう問うようなラウルスの声音にアケルはそっぽを向く。手持ち無沙汰に爪弾いたリュートが、甘い音色を立てた。 「なるほどね」 言葉より表情より雄弁なアケルのリュート。口許の緩んだラウルスにアケルは一瞥をくれ、一人さっさと湿地を進んだ。進みたかった、と言うべきか。足をとられたとき、ラウルスの手が出てきたのをアケルは小さく笑って受け入れた。 「愛してるよ、俺のアケル」 「だから知ってるって言ってるでしょう! しつこい!」 「たまにはお前も言えよ! いっつも俺ばっかり言わされてるだろうが!」 「僕が言えと要求してるわけじゃありませんから」 にやりと笑って、しかしアケルはとられたままの手を繋ぎなおした。指を絡めていては、リュートが弾けない。そう言おうとしたラウルスだけれど。 |