二人はそのときミルテシアの南部にいた。風光明媚な海辺の村だった。かつては、と言うべきか。いまは無人になってしまっていた。 「まぁ、それもそうか」 村に到着したとき、ラウルスは言った。村人には混沌の侵略がいまだ生々しく記憶にあるのだろう。あの日、混沌は海より襲い掛かってきた。ならば海辺になどとても恐ろしくて住めたものではない、その気持ちがラウルスには痛いほどよくわかる。 けれど海は何事もなかったかのよう、うららかだった。長閑で、寄せては返す波が甘く響くだけ。かえってそのことのほうが恐ろしいほど、美しい景色だった。 「いずれ……」 廃墟になってしまった村を振り返り、アケルは言う。奏でるリュートの音色は鎮魂か、それとも哀歌か。 「ん、なんだ?」 沈みこんで行きそうなアケルに向けたラウルスの声は場違いなほどに明るい。ちらりとそちらを見やったアケルの口許が笑みを刻んだ。 「自分たちのことをどうこう言うつもりはないですけど。いずれ記憶は風化するものじゃないですか」 「悲しいことにな」 「それで、いいんだと思いますよ。覚えているのは、怖いことでもあるから」 「だが……」 「忘れて、遠い記憶になって、そうしたらまたこの場所には新しい村ができる。そう思うんです。いつかもっと多くの人が、あのころに匹敵するくらいの多くの人がこの大地に生まれて育っていく。そう思うとなんだか――」 嬉しいとか心揺さぶられるだとか、そんなものではない感情だった。ならばなんと名づける。そう問われてもわからないアケルだった。 「あぁ、そうだな。少し、わかる気がする」 だがラウルスはうなずいた。単に同意して見せた、と言うのではなく、心から納得して。そうであれかしとまた彼も祈るように。 そして二人はまた旅をはじめた。今までのよう目的地を定めない旅ではない。目標は、禁断の山。ミルテシア南部から、禁断の山があるシャルマークの南西部までは遠い。 だが二人とも怯みはしなかった。この二年と言うもの旅を続けてきたからではない。片や狩人、片やアルハイド王国随一と言われた剣の使い手。体力に不足はない。淡々と歩く足の運びも慣れたものだった。 「まぁ、二年も旅をしてるといい加減、お互いの歩調も飲み込むよな」 「まったくですね」 「……珍しい」 「なにがです?」 小さく笑うようなリュートの音色。歩きながらでもアケルは常にリュートを奏でていた。手遊び、と言うよりは切迫している。けれど本人にも理由がわからないらしい。それをラウルスは面白く思っていたが、ふと疑問が浮かんだ。 「ラウルス、なにがです?」 「ん、あぁ……。素直に同意するのが珍しいな、と。だから! すぐに怒鳴るな!」 「まだ怒鳴ってません!」 言ってから、その言葉がまず怒鳴っていることになるのだ、と気づいてアケルは渋い顔をした。ラウルスはその表情に身構える。このあとどれほどの言葉が返ってくるかを思えば、当然だった。だがしかし。 「そうじゃないです、ラウルス」 「ん? どう言う……」 「なた、さっき何かを疑問に思ったでしょう? それがどうしたのかって聞いてるんです」 「――さすがだな」 浮かんだばかりの、形にもなっていない疑問をアケルは『聞いた』のだと理解する。余人ならば疎ましいと思うだろうことでもラウルスにはありがたい。 「お前のリュートな」 その感謝の念が、ラウルスに口を開かせた。言うべきかどうかもわからない。だが、結局のところ、語り合える相手は互いしかいないのだ。同時に、相談相手も。ならばいつまでも悩むのは時間の無駄だった。 「俺の勘と同じ類かと思ってな。いつも弾いてるだろ」 言われたアケルはまじまじとリュートを見つめた。他人にはわからない言葉遣いでも、アケルには耳がある。 「なるほどね。そうかもしれない。僕はただ弾いてるだけじゃなくて……なんて言ったらいいのかな。弾かされてる、そんな気はするんです」 「誰に?」 問うより先に、ラウルスには答えがわかっていた。だからアケルがあっさりと世界、と答えたときにも驚きはしない。 「でも、理由がわからない。それだけじゃない、目的もわからない。ただ弾かされてるだけ、としか思えない」 「いまはまだ?」 にやりとラウルスが笑った。それにアケルが応えて肩をすくめる。いずれ理由や目的があるのならば明らかになるだろう。 二人は徹底して学んだといっていい。この世には、人間がどうにかできる問題ではないものがあると。混沌しかり、御使いしかり。そしてこの世界そのものしかり。 その象徴とも言い得るものが、ハイドリンにあった。激動以前、アルハイド王家の城があった土地。今は別の城が建つ。 「馬鹿馬鹿しいよな」 大陸の中央部まで辿り着いた二人はその城を見上げていた。純白に輝く、花のような城。生きた巨大な木蘭の花、と言われれば信じそうな城だった。 「ですね。人間であることが馬鹿馬鹿しくなる、そんな気がしませんか?」 「と言うより、こいつらがもっと早くに助けてくれてりゃ、あれほど死なせないで済んだと思うとな。腹が立つと言うべきか、馬鹿馬鹿しいと言うべきか」 生きた花の城は、神人と呼ばれるようになった御使いの居城。王城があった場所に本城が建ち、繊細優美で、ラウルス曰く風が吹いたら壊れそうなほど脆い、実情としてはこの上なく頑丈な細い橋によって三つの小城と繋がっていた。ひとつはシャルマークに、ひとつはラクルーサに、当然もうひとつはミルテシアに。大陸中央部に建ち、すべての王国を睥睨する、御使いの城。 「俺はやっぱりあいつらが嫌いだね」 「好き嫌いで語れるような相手ですか?」 「おう、語ってやるさ。助けられるのに無視した、まずそこが気に食わん」 「あちらにはあちらの事情というものもあったかもしれませんよ」 「まぁ、それは考慮する。だがな――」 「要するに、です。ラウルス。虫が好かないってだけでしょ」 あっさりと切って捨て、けれどアケルは笑っていた。言葉の上では反論しているように聞こえるけれど、アケルだとて天の御使いを信用しがたく思っているのは同じだった。 「いっそ黒き御使いのほうがまだ信じられるな」 「悪魔ですけどね」 「だからなんだ? 善悪なんざ、人間が勝手に決めたもんだって言ったのは、お前だぞ、アケル」 「そんなこと、言いましたっけ?」 「いい加減なやつだな、言った言った」 他愛ない言葉を交わしつつ、二人は木蘭の花の横を抜けていく。城を過ぎれば、シャルマークだった。 この城を見るのは、二人ともはじめてではない。そして毎度、同じ不快を味わう。何も変わらない、それなのに二人が側を通るとき、城は息を潜める。まるで呪われたものを避けるように。その感想は間違ってはいないのだとアケルは耳で知っていた。 「それにしても馬鹿馬鹿しいな」 「今度はなんです?」 「城だよ、城」 通り過ぎた城を振り返り、ラウルスが鼻を鳴らした。心底好きになれないといわんばかりの態度がアケルにとっては好ましい。 彼が王であったときには、とてもこんな態度は取れなかったのだろうから。伸び伸びと、好きなことを好きなようにしているラウルスを見ているのが快かった。 「あの日、覚えてるよな?」 「忘れられるようなものじゃないですしね」 「俺たちが混沌を退けた。世界が身じろいで、山ができた。そのあと、天の御使いが降臨あそばした」 皮肉げに言うラウルスに、アケルはリュートをかき鳴らす。生身の声より生々しい、アケルの返事だった。 「俺たちは、ハイドリンの城で、それを見てたよな?」 「まぁ、そこにいましたしね」 「で。あれだ。御使いと少しばかり喋ったあと、ハイドリンを立ち去った」 「ラウルス、なにが言いたいんですか?」 苛立った風を装ったアケルの声にラウルスは乗らない。にやりと笑って背後に遠くなりつつある城を指差す。 「城を出て、振り返ったらあの城があった。俺の城が小石のひとつに至るまでなくなって、まっさらでお綺麗なあの城があった」 「振り返ったら、と言うほど早くもなかった気がしますけど」 「だったらいつだ、アケル? 俺は一応、国王だった。大規模な建築現場ってのも、知ってる。そんな気配はまるでなかった」 「そりゃそうでしょうよ。相手をなんだと思ってるんです? 御使いがつるはし片手に工事したとでも思ってるんですか、あなたは」 「そこまでは思ってない」 にやにやと笑うラウルスに、アケルはからかわれていたのだと知る。小さく溜息をつき、リュートを爪弾く。少しばかり不満そうな音色だった。 「つまりな、アケル。天の御使いってのは、そういうもんなんだと俺は思う」 「そういう、の内訳を聞かせて欲しいですね!」 「なんだ、わからなかったのか、お前が?」 あからさまに驚いて見せ、ラウルスはアケルがなにを言うより先に大きく笑った。これでは文句を言う気勢が削がれてしまうというもの。肩先をラウルスにぶつけて腹立ちをなだめれば、かえって恥ずかしくなった。 「まぁ、あれだ。天の御使いには、あの城に大勢が住んでいたなんてどうでもいいってことだ。あそこには、色々な思い出もあった、多くの人間のな。混沌との戦いの過程で、城で亡くなった者もいる」 「かなり大勢ね。城の崩壊に、飲み込まれていくのを僕はどうにもできなかった」 「お前はそれを覚えている。俺もだ。だったら御使いは? あそこに、戦死したと言ってもいい者たちの亡骸があったはず。見つけて葬ってやることができたかどうかは別にして、でも御使いはどうしたんだ?」 「葬ってくれた……わけはないですね」 「俺は御使いのそういうやり方が気に食わん。天の御使いが人間を導く、それはそれでいい。ならば、上に立つものとしての責任も果たしてもらおうじゃないか」 ラウルスは、ハイドリンを振り返りはしなかった。だが彼の心の眼差しが御使いの城を睨み据えているのを、アケルは心に聞いていた。 |