二人が旅をはじめて、二年が過ぎた。たった二年。だがあの激動の日々を思えば、混沌との戦いは神話の過去のことのようにも思えた。 二人、大陸中を経巡った。目的などない。あるとすれば、かつてアウデンティースの民であった人々の助けとなるために。もう王ではない男が、狩人でなくなった男を伴って旅をした。助けられた人々は、彼らのことを覚えていられないと言うのに。 「まったく信じられんな」 かつて旅をはじめたころ、ラウルスはそう言ったものだった。アケルの奏でるリュートの音色、彼の歌声、それらすら忘れてしまえるということが信じがたいと。 「まぁ、呪いですし。そんなものじゃないんですか」 「どういう意味だ」 「僕たちがとりあえず死ねなくなったって言うのは、悪魔の祝福じゃないですか」 そしてそれは神の視点に立てば呪いと呼ぶことになる、アケルはそう言う。ラウルスとしては、あの黒き御使いが悪魔であったことはおそらく間違いはなかったのだとわかってはいる。それでもアルハイドを救う手立てをくれた御使いだった。悪、とは思いたくない。まして呪いだとは。 「神々にはそうであるってだけのことです。別にどっちが善でどっちが悪だなんて僕は言ってない!」 「それも中々思い切りのいい言葉だがな」 小声で言えば、アケルに睨まれてラウルスは苦笑する。だが、彼の言葉はラウルスの本音でもあった。民を救う術をくれなかった天の御使いより、悪魔のほうによほど感謝していた。この世で二人だけかもしれない、天の御使いを完全なる善と言わないのは。 「ですからね、とりあえずここは呪いと呼んでおきますけどね、ラウルス。祝福と言うのは、喜ばしいものでしょう? こんなにも素晴らしいって喧伝するのと同じことだと思いませんか?」 「逆説的に呪いと言うのは身を潜めて隠れるもの、と言うことか?」 「たぶんね。僕はそう思うってだけですけど。違うかな、そういうような意味のことを世界が歌っている、とでも思っておいてください。あんまりにも概念が複雑すぎて言葉にしようがないんですよ」 肩をすくめてアケルは言う。世界が変わり、アケルだけがラウルスに残された。変わらずここにいてくれる男。それでも少し、変わった。大らかになったと言うべきか、細かいことを気にしなくなったと言うべきか。おかげで以前よりは喧嘩をしなくなった気がする。 「だからか、忘れられるのは」 「それが悪魔の祝福であるのならば、黒き御使いが言わなかった理由になるな、と言うことですよ」 「……なるほど、自明すぎて言う必要がなかった、と言うことか」 たぶん、とでも言うよう、アケルは再び肩をすくめて見せた。そうしながらでも、リュートを器用に奏でつつ。 アケルの言があっていたのか間違っていたのか、二人にはわからなかった。確実なことはただひとつ。過去の二人の実像は忘れ去られ、新たに出会った人々も別離と共に二人を忘れた。 「それにしても、な……」 ラウルスの呟きに、言いたいことがアケルには理解できた。今の世界に残っている英雄譚。混沌を退けたアウデンティース王、アルハイド王国最後の国王。 だがしかし。王に助け手がいたことを英雄譚は黙して語らない。禁断の山の狩人、予言に語られた導き手、世界を歌うアクィリフェルを、誰も語らない。 「お前がいなきゃ、俺は手も足も出なかった」 二人揃ってはじめて、王国を救うことができたというのに。どちらが欠けてもだめだった。アウデンティースであったラウルスは知っている。 「それなのに、どうして」 愛する人が忘却の彼方にあるというだけではない、嘆きの声だった。英雄と持ち上げられるのは一向に構わない、危難のときには、必要なことでもある。だが、英雄は自分ひとりではなかった。もう一人の英雄を、なぜ民は忘れてしまえる。非難したくはない、だがしかし。そう嘆くのが、ラウルスと言う男でもあった。 「推測でよければ言いますけど。聞きますか?」 「お前な! わかってることがあるならさっさと言えよ! あれから俺がどれだけ悩んだと思ってるんだ!?」 「そんなこと言ったって仕方ないじゃないですか! 僕にだってわからないことばっかりで、だいたいあなたのことだってわかってると思った途端に全然わからなくなるし! あなたが混乱してるならば、僕だって混乱してるんだ!」 喧嘩をしなくなったな、と言うのは単なる勘違いだったらしいとラウルスは思う。思ったら、笑えてしまった。それに険悪な目をアケルは向け、けれどあらぬ方を見やった目許が笑っていた。 「僕の考えですけどね、ラウルス。たぶん、アウデンティース王、と言う存在を抹消するには、影響が大きすぎたんだと思います」 「それは――」 「なにしろ国王陛下ですから。あの存亡のとき、国王はどこにどうしていたか、そんなことまで忘れさせるわけには行かなかったんでしょう。だから、王は混沌と戦って死んだ、と言うことになってるんじゃないかと思います」 「つまりお前に関しては同じ理論で行くと、影響が少ない、と?」 「実際そうじゃないですか。僕は一介の狩人だ。英雄がいないのは困りますけど、一人いれば辻褄は合う。狩人の存在がなくとも、伝説は出来上がりますよ」 「……俺は。私の民が、アルハイドの人間が、お前と言う存在を忘れ去る。お前に助けられたにもかかわらず。――そんな、薄情をして欲しくない、そういうことなんだと思う」 訥々と言ったラウルスに、けれどアケルは大きく笑った。それから微笑んで、男の胸に手を添える。温かく、逞しい戦士の体。掌に彼の鼓動。 「無茶言いますね、あなたも。所詮、僕らは人間です。御使いが忘れろといったことに対して何ができるはずもない。混沌の恐ろしさを、あなたは覚えているでしょうに。だったら同じこと。僕は……いいんです。あなたが覚えていてくれるから」 ほんのりと笑って、アケルはラウルスの憤慨を聞き流す。人々は、薄情なのでも不義理なのでもなんでもない。神々にしろ悪魔にしろ、多大な影響力と凄まじい力を持っている。人間に逆らう術があるはずもない。そもそも忘れ去っていることすら、覚えていられないのだから。 それでも、否、だからこそかもしれない。この二年と言うもの二人は旅をした。あちらこちらを巡り、自分たちが忘却の中にいることをしみじみと噛みしめた。 噛みしめざるを得なかった。この世でたった二人きり。真の意味で、二人には互いのみが残されていた。 あるいはだから。ラウルスは禁断の山に行こうとは、決して言わなかった、いまこの瞬間まで。なぜか。考えるまでもない。あの山は、アケルの故郷。遠くから眺めただけで、破壊の程度がわかるほど崩れてしまった山。すでに山とは言えなくなってしまった山。 それでもあの場所は、アケルの故郷だった。山で生まれ、育ち、そして賢者たちに呼び出されたあの日まで、狩人として暮らしてきたアケルの故里。 変わり果ててしまったかつての王国に悲哀を覚えるラウルスだからこそ、見る影もない禁断の山にアケルを連れて行こうとは思わなかった。 「……ラウルス」 「なんだ」 「聞いても、いいですか」 「だめだって言っても言うんだろうが、お前は」 「そんなことないじゃないですか! せっかく人が真剣に話をしようと思ってるのに、あなたって人はどうしてそうなんですか、もう!」 「あんまり真剣だから、だな。そんなに肩の力を入れてどうする。相手は俺だぞ?」 「その言い分もどうかと思いますけどね!」 憤然と鼻を鳴らし、けれどラウルスの言葉通り、アケルの肩から力が抜けた。言われるまでもない。禁断の山、と耳にしただけで体中に緊張が走った。もう、昔の仲間たちは住んでもいない。父も母もあの決戦の日に、亡くなったのは感じていた。目で見たわけでも誰かに聞いたわけでもない。アケルはただ、世界の歌を聞いただけだ。そしてそれは何より確実なことだった。 「……どうして、急に?」 なぜいまになってラウルスが禁断の山、と言い出したのか、アケルにはわからない。自分を苦しめる意図でないことだけは、確かだったけれど。 「わからん」 だがラウルスは、きっぱりと首を振っただけだった。アケルでなかったのならば、それこそ憤慨したことだろう。なんの意味もない言葉だと。 だがここにいたのは、世界を歌う導き手。アケルの耳に聞こえたもの。言葉になどならなかった。だが、肌が粟立つ。 「では、あなたの勘と言うことにして、進みましょうか」 「どこに?」 「禁断の山に行くって言ったのはあなたじゃないですか! 一体全体、僕らは今のいままでなんの話をしていたんですか、ラウルス!」 「そう怒鳴るな!」 「怒鳴らせてるのは誰なんですか!」 「お前が勝手に怒鳴ってるんだ! 俺が言いたいのはだな、アケル。言いか、聞けよ? 怒鳴る前に、とりあえず聞け」 「だったらさっさと言ってください!」 またも怒鳴るアケルにラウルスは肩をすくめる。そんなに声を荒らげていたら喉を傷めるだろうに。そして歌えなくなって困るのはアケルではなく、聞くことのできない自分だと、思い至って苦笑した。 「あのな、アケル。俺だって気にしていないわけじゃない。勘の類で、不確かなただの勘で、お前をあそこに連れて行っていいものか?」 「気にしないでください」 「気にするに決まってるだろうが!」 あっさりと言われた言葉に、今度はラウルスが大きな声をあげた。それにアケルはにこりと微笑む。つい今しがたまで怒鳴っていたのと、これが同じ男だった。 「優しいラウルス。僕が山を見て嘆くと思ってるから、あなたはそんなことを言ってくれる」 「当たり前だろうが」 「でもね、ラウルス。だったらあなたはどうなんです? この国が変わり果ててしまった姿を見続けている。僕にとって山が故郷なら、あなたにとってこの国が故郷。いまはもう――」 「アルハイド王国すら、なくなっちまったがな」 「その代わり、お子様方が立派に民を治めていらっしゃる」 「……まぁな」 「だから、僕なら平気です。それにね、ラウルス。あなたの勘が僕は怖い。あなたの勘を無視するのが、と言うべきかな。だからラウルス。行きましょう」 す、とアケルの足が伸びた。滑らかなためらいのない足取りに、アケルの苦痛を見た気がしてラウルスはやはり、後悔をした。 |