見覚えのない景色だった。どこもかしこも、ありとあらゆるものに覚えがない。それなのに、ここは故郷だった。 「信じられねぇなぁ」 辺りを見回し、ラウルスは呟くよう慨嘆する。ここが自分たちが守ったアルハイド王国だとは、何度見回しても思えなかった。 「仕方ないじゃないですか」 隣を歩きつつそっぽを向いたのはアケル。見事な赤毛は、かつて狩人であったころより少しばかり伸びた。 変わってしまったアルハイド王国。なくなってしまった禁断の山。もう狩人ではないのだから派手な髪を染めなくともよくなった、そうアケルが笑ったのはいつだったか。 あの激変の日。なにが起こったのか知るものは多くない。ラウルスにアケル、そしていつごろからか神人と呼ばれるようになった天の御使いのみが真実を知る。 「アケル」 「なんですか」 「別に責めてるんじゃない」 「――知ってますよ、そんなことは」 むつりとしたままアケルはリュートをかき鳴らす。もう必要などないのに、習慣になってしまった――と言うわけでもない。すっかり体に馴染んでしまった、と言うことなのかもしれない。いまはリュートを手放すことなど、考えられなくなっていた。 「そうか?」 からかうような声音にアケルは目を上げる。険のある目をしていた。かつてラウルスは言った、彼の目は北の海の青、と。 いまも北の海は青いのだろうか。以前はなかった山脈に隔てられ、海は遠くなってしまった。 「そう聞こえないんだったら、耳が悪いんじゃないですか」 苛立ちのようリュートが鳴る。けれどラウルスの耳にそれは妙なる音。にやりと笑って誤魔化されない、と目で言った。 「あなたが……」 ふ、と口をついてしまった言葉にアケルは目を見開く。言うつもりなどなかった言葉。言ってはいけないであろう言葉。それなのに、なぜ。答えなど知れている、リュートの音色が彼の耳にはそう聞こえた。 「なんだ、アケル」 「別に」 「言えって。気になるだろうが」 にやりと笑ったラウルスの顔が見えるようだった。アケルはうつむいたまま足を進めていたというのに。 もうどれくらいになるのだろう、こうして二人で旅をするようになって。激変の日はすでに遠い。あの日、王国の人口は激減した。おおよそ半数がかろうじて、生き残った。そして自らの意思で動くことができるものは、その半分にも満たなかった。 あれから。時は流れ、復興の影が見えはじめてきていた。だがまだ復興は遠い、繁栄など夢のまた夢。アルハイド王国は、あの夢の日々はもう消えてしまった。 名実共に。アルハイド王国は混沌と戦った最後の王と共に消え滅びた。大陸はいかに、分裂したか。否。最後の王には二人の王子、一人の王女があった。次代の王位を継ぐべき王子はかつてラクルーサ地方と呼ばれたところを治め王となった。二人目の王子は同じくミルテシア地方の、たった一人の姫はシャルマークの統治者となった。アルハイド王国は消え、三つの王国が立ち上がった。 「アケル」 再度の促しに、アケルは目を上げる。これがあのアルハイド王国だろうか。見回す目に新しいもの。見慣れない景色。聳え立つ山々。 「ここはもう……あなたの守った国じゃないんだなって、思っただけです」 言ってはいけない言葉にラウルスはどうしたか。ただ微笑んだだけだった。無言にアケルが身を硬くするほどの間、黙って。 それから手を伸ばして赤毛に触れた。変わってしまった故郷。変わらないアケル。それで充分だ、とラウルスは思う。 何もかもが変わってしまった。土地も国も人々も、見覚えのないものばかり。たった一つ、目に慣れたもの。アケル。 「アウデンティースが守ったものは――」 最後のアルハイド国王アウデンティース。混沌に倒れた王が守ったもの。人は言う、王の命と引き替えに生かされたと。偉大なる猛き鷲がおわしましたことが幸いと。アウデンティース王によって、救われたのだと。 「国でも土地でもなんでもない」 ゆっくりと歩きながら見渡せば、旅をはじめてから長いのに、まだまだ見慣れないものばかり。地図の上で知っていた土地。実際に行幸した土地。いずれも変わってしまった。大地の起伏は変化し、なかったはずの大河が流れる土地。 「アウデンティースが守ったのは、場所じゃない。わかっているだろう、アケル? 王が守ったのは、人だよ、命だ」 「それでもあなたを、アウデンティースじゃない、あなた自身を覚えている人は誰もいないじゃないですか」 「お前が知ってる。俺も知ってる。それでいい。それに……」 「守れなかった命があるのは、あなたのせいじゃない。僕の責任です」 ラウルスの声に被せるようアケルは言う。いささか急ぎすぎた声だった。それに小さくラウルスは微笑み、首を振る。 「俺だよ、アケル。俺がアウデンティースだったんだ。民の命に責任があったのは、俺だ。スキエントがおかしいのは知っていたのにな、下手を打ったのは、俺だ」 「それを聞くことができた僕の責任です。わかってたのに、絶対に聞き取れたはずなのに!」 あれから数年。いまだにアケルはファロウの死を悔やんでいた。決して親しかったわけではない。むしろ、単なる顔見知り。ラウルスに至ってははっきりと嫌っていたカーソンの騎士。 それでも手を打つのが遅れたばかりに、死なせてしまった。ファロウはその手始め。彼だけではない、多くの人々が、混沌と世界の戦いに飲まれて死んだ。 人々は言う。混沌によって、大地が揺るぎ死んだのだと。違うと、アケルは知っている。激変の日。混沌の核を撃ったのは、ラウルスだった。退けられた混沌。そして退却に痛打を与えようとしたのはこの世界。二度と再び混沌を近づけまいと世界は自衛し猛追した。 だから最後はこの世界そのものと混沌の戦いだった。アケルは、世界を歌う導き手は、それをこの耳で聞いた。 世界にとって、人間とはなんだろうかと思う。世界の身震いに、人の命は容易く消えた。それでも世界は、守ろうとしたのではないかと思うこともある。アケルの声に、歌に力を貸し、命を守る術をくれたのもまたこの世界だったのだから。 「僕にもう少し力があったら。そう思わない日はありません」 「そんなものはな、アケル」 「なんですか」 にやにやとしたラウルスの声にアケルは苛立ち紛れ、リュートの弦を弾く。リュートの音色にまでからかわれた。 「お前じゃなくても思うことだ」 「それは、あなただって……」 「そうじゃない。なぁ、アケル。俺やお前じゃなくてもな、自分にもう少しできることがあったらなんて、みんな思うものじゃないのか」 アケルは口をつぐむ。それはあなたがアルハイド王だからだ、とは言わなかった。徹底した自己犠牲、王たる責任を当然として在った最後の国王。 「人間はな、アケル。ほんの些細なことでも、そんな風に思うものだと、俺は思うよ」 「人が好すぎるんですよ、あなたは」 「そりゃはじめて言われたな」 「国王陛下にそんなこと言う馬鹿がどこにいるんですか!」 「だからはじめてだと言ってるんだ!」 「当然のことを言って偉そうにしないでください!」 「実際、偉かったんだがな」 ふん、と鼻を鳴らすのにアケルは笑う。予言の導き手と言われて、よかったことなどひとつもない。けれどもしかしたらこれだけは、と思うことがある。世界を歌う声を手にいれたこと。それに伴って聞く耳を持ったこと。世界の声よりはっきりと、ラウルスの声を聞くことができること。だからアケルは笑う。 「自分でいま言ったじゃないですか、偉かったって。いまはただの人でしょう?」 「ただの、じゃないぞ」 にんまりとしたラウルスに、アケルはリュートを爪弾いた。馴染みのない景色の中、馴染んだものがある。ラウルスとリュート。 「なんです、言いたいことがあるならはっきりどうぞ?」 「聞きたいって言えよ、馬鹿」 「いいえ? 僕は全然、聞きたくなんかないんですけどね」 「言いたいなら聞いてやるって? まったく傲慢なやつもいたもんだ」 からりと笑い、ラウルスは少し足を速めた。前方に、綺麗な小川が流れていた。こんなものは昔はなかったな、と思いつつ、美しいものならばいくら増えてもかまわない、と思う。そう思えるように、最近ようやくなった。 「俺は、お前の戦士だぜ」 もったいぶって言った言葉にアケルは吹き出す。王位にあった頃から、二人きりでいるときには無頼めいた男だった。だが、しかし。 「いまのは決定的に似合わない言葉でしたね、ラウルス」 「お前な!」 「格好つけて言うなら、もう少し言葉を選ぶべきですよ。ん……違うか、言葉じゃないな声音かな。あなたには演技力って物が欠けてるんです、知ってました?」 「いいや。機知に富み、腹芸もこなせる茶目っ気のある国王、と思ってたがな」 「機知に富むって言葉の意味、知ってます? あなたにそんな器用な真似ができてたなら、僕はあんなに怒らなかったと思うんですけどね」 「しつこいやつだな、いつの話をしてるんだいつの!」 「もちろん、あなたが僕に身分を偽っていたころの話ですよ、我が王」 にっこりと笑われてラウルスは声を失くした。根に持っているわけではないのだろうが、そう憶測するばかり。ラウルスに世界を聞く耳はないのだ。 「それにしても、だいぶ変わったな」 「話を変えすぎです、ラウルス」 「うるせーよ。で、次の当てはあるのか? ないんだったら、行きたいところがある」 「どこです?」 言われる前に、見当がついた。だからアケルは腹に力を入れる。入れてから、そう気づいた、緊張しているのだと。 「禁断の山」 ゆっくりと前を見たまま、ラウルスは言った。アケルの耳をもってしても、表情の聞こえない声音で。 |