二人が居間に戻ったとき、テーブルにはアルディアが伏せていた。 「アル!」 驚いて声を上げたメロールだったが、その背後でサイファは呆れ顔をしている。 「私の話を聞かなかったのか、お前は」 サイファはテーブルの上にひとつのカップを見て取っていた。どう見てもそれはウルフが淹れたものだった。 「興味があって」 力なく言って微笑うアルディアに、メロールまでもが呆れる。 「それほど酷いのか」 「飲んでみたら、メル」 片手でカップを指せば、そこに入っているのは一見してただの茶である。メロールは恐る恐る手を出した。背後で漏れたサイファの溜息は彼には聞こえないのだろう。 「う……」 何とも言えない声を上げ、黙ってメロールはカップを下ろす。そのまま視線をさまよわせている彼に、サイファは別のカップを差し出した。 「ありがとうございます」 メロールがそう言ったのは、カップの中身を飲み干し、もう一度注いでもらった水をさらに飲んだあとのこと。 「酷いなぁ、二人とも」 唇を尖らせてウルフが言う。自分ではそれほどまずいとは思っていないのだろう。だからいつまで経っても上手にならないのだとサイファは思っている。 「どこがだ?」 「だってさ、サイファ。俺の茶ってそんなにまずい?」 「あれを茶と呼ぶことに私は非常に抵抗があるが」 「ひでぇ」 言いつつウルフは笑う。どうやら彼はまずいと言われることは、わかっているらしい。それでいてあえて茶を淹れるなどどういう了見かと思う。 けれどウルフの表情を見ていてサイファは思う。あるいは彼は半ばわざとやっているのではなかろうか、と。いまだ緊張しているであろう半エルフのために。それを解くにしてはいささか不器用なやり方ではあるが、彼の好意には違いない。わかってみれば好ましい、そんなことをサイファは思った。 「メル、魔法は教えてもらえたの」 「凄いものだ、こんなことができるとは思ってもいなかった」 「よかったね」 目を輝かせて語るメロールの横でアルディアが微笑む。それを見ていると何となく嬉しくなってくるウルフだった。 「いつ、発つのですか」 そうアルディアが尋ねたのはサイファが改めて茶を淹れなおしてからだった。 「別に今すぐでも私は大丈夫です」 メロールは新しい魔法を試してみたくてたまらないのだろう。そんな彼を若いなとサイファは思う。あのような時期が自分にも、あった。遥か昔のことではあるが。 「魔法で跳べば一瞬だ。今日は休むといい」 「なぜです」 「仮にも王宮だ。身なりを整えて行ったほうがよかろう」 少し笑ってサイファは言う。決して彼らがみすぼらしい格好をしているわけではない。それでも一晩くらいは快適な場所で休ませてやりたかった。 そんなことを思う自分にサイファはおかしくなる。相手は同族、一晩など認識するかどうかもわからないほどの時間。ただ、これから人間の間で生きていくならば、知っておいたほうがいい、時間の観念と言うものもある。 「わかりました」 いささか不満そうに言ったメロールにサイファはうなずき、客間と湯殿の場所を教えておく。 「私とこれは使わない。好きに使うといい」 「それでは申し訳が」 「いや、客用と言うところかな。住人には別にある」 半エルフ特有の婉曲な物言いに、ウルフがわずかに笑みを漏らした。彼らは素肌を連想させるものがとにかく苦手なのだと思うとなぜかしら可愛らしく思えてしまう。 細く編んだ横の髪を手指に巻きつけていじっているメロールの頬が仄かに赤らんでいるのを見てしまったせいかもしれない。あの隠れ里での彼は、とても怖く見えた、ウルフはそう思い出す。けれどいまここにいるのは年齢など良くわからなかったけれど若くて照れた青年だった。 「では遠慮なく。ところで、リィ・サイファ」 「なんだ」 「私はサリム師からあのような形で魔法を習ったことがないのです。あなたはなぜあのような方法を?」 精神の接触のことを言っていた。とすれば、リィは自分が旅に出たあともサリムに対して精神の接触を持たなかったのだとサイファは知る。彼は確実にその方法論を持っていたというのに。サリム以外の弟子にはそうしていた。軽い接触であっても、リィは取っていたのだ。正確な真言葉の発音を教えるために。半エルフであるサリムにはその必要が人間よりは薄い、とは言える。けれどリィが精神の接触を持たなかったのは、ひとえにサイファのため。それを思えば知らず口許に笑みが上った。 「なぜと言われても、早いだろう」 「それはそうですが」 「そもそも私は教師向きとは言えない。学問として教える方法もあるにはあるが……」 「得意ではない?」 「って言うか、あんた、凄い苦手だよね、そういうの」 「うるさい、黙れ。若造」 「だってさぁ……」 「君も、習うのか」 目を見開いてメロールがウルフに問う。ウルフはその質問にこそ驚いたよう仰け反っては手を振った。 「無理無理、俺に魔法なんか習えないって」 「そう……なのか?」 「俺は剣が得意なの。魔法は無理だなぁ。あんたもそうだよね?」 そうウルフがアルディアに視線を向ける。 「剣ではなく、弓だけれど」 うなずいた彼は不思議そうな顔をしていた。一度きりしか会っていない、そう言った本人が適正まで見抜いているとはアルディアには信じられないのだろう。 ウルフは戦士だった。直接相手に物理攻撃をする、そして背後にした魔法の使い手を守る。だから彼がわずかの間に相手の得意を見抜いても不自然ではない。どころか、そうしなければ戦士としては失格だろう。 「人間とは、面白いものだな」 メロールが言ったのは、アルディアに向けてだった。けれど笑い声は二人ではない二人から上がる。 「あれってあんたの口癖じゃなくて、半エルフの口癖なの?」 「知るか」 二人のやり取りに、半エルフたちはサイファの口癖を知ってしまったことだろう。 緊張を隠せないメロールが立っていた。サイファはゆったりと彼の前に立つ。 「いいか」 「はい」 翌朝のことである。一晩休んだ彼らにサイファは新しいローブと衣服を用意し、塔の前に集まった。 「アルディア。メロールの体に触れていろ。軽くでかまわん」 言えばうなずいて彼はメロールの背後に立った。疾うにウルフは同じよう、サイファの後ろに立っている。 「どのように……」 アルディアはそっとメロールの腰の辺りに触れていた。それでいいのかとサイファに問うている。魔法の準備動作を妨げない辺りにきちんと触れていた。それがサイファには羨ましくも微笑ましい。 片腕のないメロールは、魔法の拡大を司る動作ができにくい。魔術師としては不利なことのはずだった。けれど彼はそれをものともせず、当たり前のよう魔法を行使する。あるいはいずれ世界に名を知られる魔術師になるかもしれない。不意にサイファはそんなことを思う。 「それでいい」 言った途端、ウルフがまるでアルディアに倣うよう、腰に触れてくる。だが、どうにも触り方が普通ではないのが癪に触る。それを感じたのだろう、ウルフはかすかにサイファの耳許で笑い、そのまま肩先に自分の顎を乗せた。 アルディアが戸惑っている。自分もそうすべきなのか、と迷っている。サイファは誤解を招かないよう黙って無表情のまま、ウルフの腹に肘を叩き込んだ。 「痛っ」 ウルフの悲鳴にかまうことなくサイファは半エルフたちに微笑んだ。多少、強張ってはいたが。彼らは顔を見合わせて目を瞬く。それから声を上げて笑った。 「メロール、追尾はできるか」 いささか不機嫌なサイファの声にメロールが笑いを収めて首をかしげる。 「おそらく大丈夫だと思います」 「それでは不安だな……」 少し考えサイファはメロールの髪を指差した。 「自分の物なら追尾も楽だろう」 その言葉に薄くメロールの頬に血が上る。それを不思議なもののようウルフは見ていた。黙ったままメロールは髪を一筋切っては渡し、サイファはそれを懐に忍ばせる。それから首をかしげてメロールを見れば、感じ取れると彼もうなずく。 「では、行くか」 隠し切れない興奮に、目を輝かせているメロール。そんな彼を見守るよう背後に立つアルディア。サイファは彼らの姿を確認したあと呪文の詠唱に入った。 そのまえにほんの一瞬、ウルフの腹にサイファが触れた。すっと痛みが引いていくのをウルフは感じる。思わず微笑んだウルフを半エルフたちが不思議そうに見たのもわずかのこと。すぐにメロールは集中に戻った。 ウルフには理解することもできない声が二つ、響く。ひとつは聞き慣れたサイファのもの、もうひとつはメロールのそれ。 高く低く聞こえる詠唱にまずサイファとウルフの姿が薄れて消える。そして直後、あとを追うよう半エルフたちもかき消えた。 ぐらり、アルディアは平衡を崩した。咄嗟にメロールの体にすがりつく。 「ごめん」 「大丈夫か」 「少し気持ち悪かった」 言ってうなずけばほっとした気配がする。ふと心づいては人間を見た。半ば魔法的存在である自分がこうなるのならば、彼はどうなのだろう。そんな興味を持って。 ウルフもまたよろけていた。けれど彼は慣れているのだろう。アルディアよりは若干、平衡を取り戻すのが早いようだった。 けれどそれは誤解だった。確かに慣れてはいる。しかしウルフの揺らいだ体を支えたのは、殴りつけたときと変わらぬ無表情のサイファの腕だった。 「ありがと」 小声で言っているのが半エルフたちの耳に届く。どこか顔をそむけたくなってしまう。気恥ずかしかった。 「ここはどこです」 結局、そむけた目に映ったのは狭くはないが質素な室内だった。どこか外に出現すると思い込んでいたメロールはなにが起こっているのか理解できなかった。 「ラクルーサの王都アントラルの中心部にある神殿だ」 「神殿?」 「いきなり魔法で王宮に飛び込むわけにも行くまい?」 言ったサイファに、そういうものかと首をひねる二人の半エルフ。改めてサイファは笑い、勝手知った室内で茶の用意をしはじめた。 |