リィの理論書を見つけて以来、サイファは苦しくてならなかった。彼に会いたい、そう切望してもどうしようもないと言うことを思い知らされる。 この世界で最高の魔術師の弟子であった。いまもなお、教えを受けたいと願う。わからないことなどなにもない、そんな顔を半エルフたちにはして見せたけれど、サイファにもわからないことなどいくらでもある。 そんな時、リィがいてくれたならば。混乱も戸惑いも、彼ならばたちどころに解決してくれただろうと思うのだ。 「どうだ、やってみないか」 サイファはそんな思いを誰に知らせるつもりもない。ウルフにも。あるいはウルフにこそ。 決して裏切りではなく、ただウルフを悲しませたくない。彼が思うような形ではないとしても、リィを追い求める気持ちは変わらない。だからサイファはそ知らぬ顔をしてメロールに問いかける。 「複数転移……」 意味などない言葉。想像したことすらなかっただろう。この世界で転移魔法を行使できる者は種族を問わず多くない。まして複数の生命体を同時に一人の術者が、など考えにも及ばないこと。 「理論的には転移魔法とそれほど変わらない。転移魔法を使えるなら、できないことはないはずだ」 励ますよう言ったサイファに刺激されたのか、メロールが顔を上げた。 「それとも……」 彼の顔にあるためらいに、サイファは茶化すよう言葉を繋ぐ。まるでアレクのようだ、と内心で笑いながら。それを感じ取ったのだろう、ウルフがひっそりと笑った。 「サリムに気兼ねがするか?」 「いえ、そういうわけでは」 「まぁ、彼が知ったらいい気はしないとは思うが。元々はリィのオリジナル・スペルだ。それほど怒りはすまい」 軽く言ったサイファにメロールが驚いたよう目をみはる。 「ご存じないのですか」 「なにをだ」 「サリム師は……」 言葉を切ったメロールに嫌な気がした。もしやとは思うが、ないとは言えない。定命の身ではないとはいえ、殺されることがないわけではない。 「あ、いえ。そうではなく。もう、旅に出てしまいました」 少し寂しげなメロールにサイファは胸が痛んだ。師を失うということがどういうことか、サイファほど深い絶望で知るものはいない。 「やっぱさ、寂しいもんなのかな」 ウルフの問いにメロールは首をかしげて苦笑する。当然だ、サイファは思う。わざわざ尋ねるまでもないことを聞いたウルフが少しばかり不快だった。 「それほどでもない。本心は」 だから、メロールが何を言っているのか、わずかのあいだとは言え、理解できなかった。 「ふうん、どうして?」 「なぜ、と言われても。それほど親しい師弟と言うわけでもなかったから」 「そうなの? お師匠様と弟子ってすごい仲いいんだと思ってた」 驚いて見せるウルフのわざとらしさにサイファは顔を背けたくなってくる。 「意外だな」 けれどそうすることでウルフに何かを言われるのが嫌で、サイファはあえて平然としたままメロールに問うた。 「そうでも。サリム師から伺った限りでは、あなたとリィ・ウォーロックほど親しい師弟のほうが珍しいのではないかと思いますが」 「私はリィしか知らないのでな」 あっさりと言ってのけたサイファの心の内がウルフには見えない。だからこそ、動揺していることが知れてしまう。 「若造。なにが言いたい」 「別に? なんにも言ってないじゃんか」 「言いたそうだったが」 「気のせいじゃないかなー」 「……物凄く、信用できない」 溜息まじり呟いたサイファを笑ったのはアルディア。なぜそこで笑われるのかわからないサイファはじろりと彼を睨み、詫びるような視線を無視した。 「サリムが……旅に出たのはいつごろのことなんだ」 それを聞くのがためらわれる。けれど聞かずにはいられない。ほんの少し唇を噛んだあと、サイファは尋ねた。 「至高王が去って……三百年程度あとのことだったと思います」 「……お前、幾つだ」 馬鹿馬鹿しい問いだった。まさかサイファも同族に対してその問いを発する日が来るとは思ってもいなかった。 「千百ぐらいだと」 「それのどこが普通だ」 「え……」 「サリムの元にいたのは」 「百年ほどです」 「ならば」 「覚醒の直後から、サリム師の元に」 計算が合わないわけではない。半エルフの幼年期は二百年ほど続く。そのあとすぐ師についたのならば辻褄が合わないわけではない。 「至高王が去った頃に生まれた半エルフは、それ以前に比べると、成長が早いようです」 そう言ったのはアルディアだった。サイファは溜息をついて彼を見る。 メロールが普通だったと言うならば、アルディアの覚醒はどれほど早かったことか。同族とは言え、世代的には彼らとサイファでは一世代は違う。わからないことがまた増えた、そう思えばたまらない。 「んー、サイファって奥手だったんだ?」 さらり、ウルフが言った。そういうものか、と彼を見ればそういうことにしておきなよ、と視線が返る。なぜかそれでいいような気がしてしまうから、不思議だった。 「なぜです、リィ・サイファ」 「なにがだ」 「サリム師が、旅に出たのがいつかなど」 「特に理由はない。どれほど教えを受けたのか聞きたかっただけだ」 あからさまな嘘と気づいたのはウルフだけだろう。しかし理由まではわかるまいとサイファは思う。あるいは願うのかもしれない。 サリムが去ったのがいつか、それはサイファにとってだけ重要なことだった。もしも彼がリィの死をきっかけに旅に出たのだとすれば、それだけは許せないとサイファは思う。 サリムはリィから愛されてなどいなかった。その彼がリィの死を理由にするなど決して耐えられることではない。もしもそれを理由にしたのなら、旅の終着点で彼に敵対しないとも限らない。限らない、ではない。サイファは内心で苦笑する。確実に敵対する。 リィの死を理由にしていいのは自分だけだった。そして自分はそうはできなかった。あの頃は幼かったから。そのような言葉など、言い訳に過ぎない。リィは死に、自分は残ってしまった。 いまでも思い出すのさえ苦痛だ。けれど忘れることなどできない。なぜリィがサリムと関係を持ったのか、いまのサイファにはわかっている。あのときに理解できていれば、そう忸怩たる思いがする。それだけは、ウルフに知られたくなかった。 「さぁ、どうする」 話を魔法に切り替えてサイファは問うては微笑んだ。いままでのはただの雑談だ、とでも言いたげに。 「教えてください」 きっぱりと言ったメロールが好もしい。そう思えることが、嬉しかった。自分が好意を持った相手に、リィの魔法を伝える。彼の魔法が世界に生きていく。彼がいなくとも、彼の残した魔法は、彼が成し遂げたかったことは、広まっていく。 「アルディア」 「はい」 「接触の許可を求める。もっとも、ごく軽いものだ。奥深くまで入らないことは保証する。時間をかけてもいいがその間、退屈だろう」 半ばはからかうような口調で言い、サイファはほんのわずかだけ視線をウルフに向けた。 アルディアは確実に理解した。これが同族のありがたさだとサイファは思う。魔法の習得と言うものに、どれほど時間がかかるか、本能的に知っている。そして人間の命の短さも。 その命短いリィが教えてくれたこと。精神の接触は真言葉の習得に最も適した方法だった。けれどサイファはあれからずいぶん経験を重ねた。他者に魔法を教えたことはなかったが、それでも方法論はわかっている。リィと築き上げたような深い接触を持たなくとも真言葉を伝達することは、いまのサイファには容易い。 サイファは仮に誰かに魔法を教える機会があったとしても、あのような接触をリィ以外の誰かと持ちたいとは望まなかった。だから万が一の機会に備えてサイファはリィの理論を推し進め、彼が自分に教えてくれたよりも遥かに効率の良い方法を編み出していた。 そして気づいた。リィ自身もサイファに対したと同じ接触を他の誰とも持っていなかったことに。サイファが編んだものは、すでに彼が作り上げたもの。それに気づいて以来、さらに理論は進んだ。おかげでリィよりよほど巧みに軽い接触を持つことができる。接触を持ちたいと思う相手もいないというのに。 魔法の習得と言うこと以外でならば、いる。けれど相手は人間で、しかも戦士だ。半エルフの魔術師の強靭な精神にさらされれば彼は容易に廃人と化す。だからこそ感情と真意の伝達をいい加減で半端な人間の言葉に頼らざるを得ないのだ。 せめて自分本来の言葉で、人間が言うところの神聖言語で会話ができたならば、どれほどはっきりと心の内を伝えることができるだろう。人間相手ではそれもかなわなかった。 「俺はかまいません、メルがいいならば」 サイファの意図を見抜いた証にアルディアは意味をこめてうなずいた。 「リィ・サイファ」 「なんだ」 「なぜ私ではなく彼に聞くのですか」 「お前が魔法の習得と言うことに関して嫌がるとは思えない」 「あっていますが」 「……彼と接触を持ったことは?」 尋ねた瞬間、メロールはこれが彼かと思うほど、赤くなった。言葉などなくとも、それ以上の答えはなかった。 「えー、あー。はい、水」 まずいやり方でウルフが水を差し出せば、それでもメロールは受け取ってあおる。まだ頬は赤かった。 「サイファ、なに聞いたの」 「あとで」 「どうして」 「……恥ずかしいことを言わせるな!」 「聞いたのはあんたでしょ」 「うるさい、黙れ」 サイファはあらぬ方を向いて頬を撫でた。いつの間にか自分まで赤くなってしまっている。実際、あからさまに尋ねすぎたとは思ってはいたが、ここまで激しい反応を見せるとは思わなかった。 「すまない」 見当違いの方向を見ながらサイファが謝れば、サイファとは別の方を向いたままメロールがかまわないと返答する。どこかおかしな情景だった。 「だから、アルディアに許可を求めたと言うのがわかってもらえるだろうか」 「よくわかりました」 まだ恨めしげな声にサイファは笑う。そしてじとりとねめつけられてはいささか慌てる。 「やっぱ、サイファって可愛いな」 聞こえてきた声に、知らぬふりをしようかと思った。けれどサイファが意識するより先に手は出ていた。手が熱い、と思ったときにはウルフの頬を思い切りよく張り飛ばしている。 「そう言うところも……」 「それ以上言ったら」 「腹に風穴は勘弁して」 「だったら、黙っていろ、若造」 言葉を区切り、しっかりはっきりと発音しては恫喝する。もっとも相手がウルフでは効果が薄いことは先刻承知。驚いて顔を見合わせる半エルフたちにはどう見えることだろうか。これはただ二人の間だけで通用する、今となっては遊びのようなものだった。 「まったく。馬鹿の相手をしていてはきりがない。行くぞ、メロール」 「はい、どこへ」 「呪文室」 言うだけ言ってサイファは席を立つ。後ろにメロールが従うのは見なくともわかっている。部屋を出る前、不意にサイファは振り返る。 「アルディア。茶は自分で淹れろ。それにやらせると大変なことになる」 言葉にならない抗議が聞こえてきたけれど、サイファはどこ吹く風と聞き流して居間を後にした。 |