今日のサイファは気分が乗らないらしい。ウルフは一人、近くの村へと向かう道を歩いていた。
 言ってみれば「お使い」である。シャルマークに魔族がはびこるようになって以来、大陸の植生は変わった。
 ミルテシアに生える草がラクルーサでは生えず、その逆もまた然り。そしてそれらは見る目を持つ者には薬草ともなる。薬草を最も多く産出するのがシャルマークと言うのは何者かの皮肉だとしか思えない。
 サイファは魔術師である。本来ならば薬草の類をそれほど必要とはしない。多用するのは神殿の神官たちだろう。けれどサイファは薬草を求めた。
「あれでけっこう優しいんだよね」
 ウルフは一人ごちながら笑みを浮かべる。薬草は、シリルのためであった。彼は故国で司祭となっている。老齢の司教に代わってその座につくのも遠くはないという話だ。
「大変だよなぁ」
 自らの血の責務を放り出してしまったウルフはまったくそうとは思ってもいないような口調で彼の友を案じるのだ。
 サイファの塔の近くの村は、本当に小さなものだった。道など通りと言えるものがかろうじて一本、宿屋などあるはずもなく、数件の家族がちんまりと暮らす場所だ。それでいて、村の若い者の目つきは鋭い。手の届く範囲に必ず武器がある。ここは、入り口とは言え、シャルマークの内だった。
「こんにちは」
 村長の家の扉をそっと押し開け、ウルフは首だけを差し込んで中を覗いた。薄暗い家の中に目が慣れない。何度か瞬きをした。
「おぉ、あんたさんか」
 老人が顔をほころばせて寄ってきた、と見えたのは彼が光の中に出てきたせいだ。
「薬草、もらいに来たんだけど。あるかな?」
「あるとも、あるとも。お入りよ。茶でも淹れて進ぜよう」
「ありがと。ご馳走になるよ」
「今日はどうしたね、魔術師さんは」
 村長が覚束ない手で茶を淹れかけるのをウルフは横から手を出して手助けする。にんまりと笑ったのは、はじめから若者にさせるつもりだったからか。
「ちょっと読みたい本があるからって篭ってるよ」
 嘘ではないが、真実でもない。実際サイファはウルフにそう言ったのだ。けれどウルフはそれが半分くらいは嘘だと知っている。
「それで坊やはお使いかね、大変だね。お弟子さんは」
「俺、弟子じゃないよ」
「わかってる、わかってるとも」
 どうだかな、とあからさまに疑う目つきでウルフは老人を見る。もっとも、もう慣れてしまっている。この村に来るようになって以来、何度否定しても老人にとってウルフはサイファの弟子なのだ。
「坊やって年でもないんだけどなぁ」
 ぼやくウルフに老人は呵々と笑った。
「なんの、この爺にくらべたら坊やなんぞ赤子のようなものよ」
 それももっともだとうなずいてしまったウルフにもう一度老人は笑う。
 中々貴重な人だった。人間でありながらそれほどサイファを、半エルフを恐れない。本心ではかなり動揺しているのを知ってはいるが、それでも逃げ出さないだけましなのだ、この世界では。
「はい、どうぞ」
 これではどちらが客だかわからない、ウルフは苦笑いをしながら老人へ茶を勧めた。
「おぉ、ありがとさんよ」
 にこにこと、こればかりは人の良さそうな顔をして彼は茶すすり、そして止まった。
「どうかしたの?」
「坊や、食べるものなんかはお師匠様に作って差し上げるのかね」
「えー。俺、苦手だから」
「あんたさんのお師匠様は賢明だね」
 渋い顔をしてうなずいた所を見るとよほどまずい茶だったらしい。ウルフは顔が赤らむのを抑え切れない。
「ごめんね、おじいちゃん」
「なんの、いいことさね。さて、と」
 いいと言いつつも彼は以後、決して茶に口をつけようとはしない。若干落ち込むウルフだった。
「なんの薬草がいるって聞いてるのかね」
「んとね、ちょっと待って」
 ごそごそと服のあちこちを探っているウルフを興味深げに老人が見守っている。そして出てきたのは一片の紙だった。
「はい、これ」
 朗らかに笑って差し出したウルフに老人は溜息をつく。そしてぽん、とウルフの頭に手を置いた。
「坊やのお師匠様は偉いのぉ」
「ちょっと、それってどういうこと?」
「ちゃんと書いて渡してくれたんだねぇ。これだったら間違えっこないものなぁ」
 うんうんとうなずいている老人に、ウルフは一言もなかった。
 出かける前の会話が蘇る。サイファは言ったのだ。何をもらってきたらいいのかと問うウルフに向かい、
「言ってわかるくらいだったら苦労はない」
 溜息までついて見せ、それからわずかばかり口許で笑う。そして薬草の種類と量を記した紙を持たせてくれたのだった。
「ほんとさ、おじいちゃんって実はサイファと仲良しなんじゃないの」
 少しばかり唇を尖らせて言うウルフに老人は目をむいて怒る。
「お師匠様を呼び捨てるなんて、本当に駄目なお弟子もいたもんだ。ほれ、これがお使いの薬草だ」
 こんもりと、何がなにやらわからない乾いた草が籐で編んだ籠に盛られていた。きちんと分類はしてあるようなのだが、そもそもウルフにはこれが何に使うものなのかさえわからない。
「だから弟子じゃないって」
 言っても無駄なことを言い募り、ウルフはそれでも礼を述べては籠を受け取る。
「あ、いい匂い」
 受け取った途端、鼻先に淡い花の香りが漂った。草しかないのに、と首をひねるウルフに老人は笑う。
「この匂いはな、ほれ、それだ。その黄色いの」
 萎びた指が、同じように萎びた草を指す。くたびれて、どこから見てもただの枯れ草だった。
「病人の気分を明るくするのに使うんだ」
「ふうん」
「ほれ、長患いをすると気持ちがふさぐじゃろ」
「俺、長患いなんかしたことないからわかんないよ」
 困った顔をするウルフに老人は目を見開き、肩を落とす。彼の年齢になれば長く寝つくことなどもあるのかもしれないとぼんやりウルフは思う。いまだ若い健康にあふれたウルフは三日と寝ていた例がなかった。
「若いってのはいいのぉ」
 じっとりとした視線にウルフは虚ろな笑いを漏らすしかない。
「えっと、その。もう一杯お茶淹れようか?」
「ええわい、わしがやるわ」
「ごめんね」
 情けなさそうな顔のウルフに老人は笑う。どうやらがっくりして見せたのは演技らしい。矍鑠とした動きだった。
 ウルフはこの老人が好きだった。サイファと共に村に来るたびにこうしてからかわれる。それが決して嫌味ではなくて、まるで彼の孫のような気持ちになるのだ。家族と言えるものを持たないといってもいいウルフにとってそれは中々気持ちが安らぐことだった。
 そのとき控えめに叩かれる扉に気づいた。木の扉が、風に揺れているのかと思ったが、それにしては外がざわめいている。
「おっと、お客かね」
 振り返った老人を手で制し、ウルフはじっと扉を見つめた。
「いいよ、俺が出てあげる」
「悪いのぉ、坊や」
 なにかを感じ取ったのだろう、老人が口許を歪めた。ウルフは呆れて笑いたくなってしまう。この老人もまた、シャルマークに暮らすものだった。
 足音を殺し、そっと扉に近づく。気配を窺う。不思議と敵意はない。ウルフは勢いよく扉を開けた。
「うわ、びっくりした」
 一瞬の動揺が去った後、口にしたのはそんな言葉だった。向こうの方が驚いているだろうことは想像に難くない。そこには半エルフが二人、立っていた。一方は長い黒髪を緩く背中でひとまとめにしている。その肩には斜めに弓をかけたままだった。敵対の意思はないという明らかな表明にウルフは息をつく。
「おじいちゃんのお客?」
「いや……」
 一方が口を開く。そしてウルフの顔をじっと見つめた。そのときになってようやくウルフも気づいたのだから、それほどまでに驚いていたということなのだろう。半エルフが大陸に姿を見せるようになったとは言え、それほど見る機会があるわけでもない。
「あれ、もしかして会ったこと、ある?」
 ぼんやりとウルフは尋ねる。半エルフがどこか呆れ顔をした気がしてならない。
「坊や、お客かね」
「んー、なんかよくわかんない」
「なんじゃそりゃ。なんだね、あんたがたは」
 問われて半エルフたちこそ驚いただろう。半ば恐慌に襲われるくらいは予想していただろうに、この老人は平然と自分たちを見ている、そう顔に書いてあった。
「リィ・サイファ殿の居場所を探しているのだが……」
 言ってちらりとウルフを見る。どうやら目的は果たした、と言っているらしい。いまだ言葉を発していない半エルフの片袖が風になびいた。隻腕、らしい。
「あー! 思い出した!」
 突然の大声に、老人が飛び上がらんばかりになってウルフを睨んだ。
「なんじゃ、年寄りを驚かせおって」
「あ。ごめんね、おじいちゃん」
「君の、血縁の者か?」
「ううん、違うよ。よく遊んでもらうけどね」
 半エルフの問いに笑って答え、サイファと似ているとウルフは思う。血縁と言うものを彼らは意識しにくいらしい。恋愛にさえ疎いのだから、子供の子孫のと言われてもぴんと来ないのは仕方ないことだろう。
「それで、なんだね。今わしを殺しかけた大声は」
「うん、ごめんね。俺、この人たち知ってるんだ」
「ほう、坊やには珍しい知り合いが多いのぉ。どんな知り合いだね」
「んー、うっかり殺し合いしかけた仲ってとこかな」
 今度こそ老人は咳き込んで苦しげに背をかがめた。慌てて老人の背中を叩くウルフに半エルフたちの緊張が伝わる。
「物騒な坊やだ、まったく!」
 ようやく咳の収まった老人にウルフは肩をすくめ、何を今更と言わんばかり。
「サイファに用事なの?」
 ようやく半エルフに問うことができたのは、それからしばらく経ってのことだった。
「お目にかかりたいと、思っている」
 その言葉に敵対の意思はない、とウルフは見た。そもそも扉の前でも敵意を発してはいなかったのだ。外が騒がしかったのは、ただ珍しい半エルフの二人連れに村人が驚いただけだろう。
「んじゃ、一緒に行こうよ」
 無邪気に笑うウルフにほっと息をついたのは、隻腕の半エルフだった。




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