シャルマークの大穴が塞がってから、人間の時間ではずいぶんが経つ。とはいえ、まだシャルマークには魔族が跋扈していたし、病んだ大地はその生命力を旺盛にするとは言い難かった。 少しずつ、ほんの少しずつ生命が戻ってきてはいる。それをはじめに知ったのは幼子だった。 ある春の日、いまで苦い草しか生えなかったミルテシアの一角に柔らかい芽吹きを見た。溶けることなく侵食し続けてきた氷河がラクルーサの土を潤すのを見た。 大人たちは異形との戦いに疲れそのようなことにはまるで気づかなかったというのに。幼子たちの歓声に大人は知る。そして言うのだ。 「だからどうした」 と。長年の、先祖代々続く戦いに、彼らは疲れきっていた。そして親のまた親から続く確執も。 幼子たちは見た。いままで目にすることなどなかった半エルフたちを。フードで顔を隠すものもいた。さらしているものもいた。 幼子はどうしたか。大地の健康を祝うよう歓声を上げたか。否。声を上げはした。絶叫を。大人たちは駆けつけた。手に手に粗末な武器を持って。 そしてそのとき半エルフたちは影もなかった。 シャルマークの大穴は塞がった。けれど人間が彼ら半エルフに寄せる根源的な恐怖は去らない。それは彼ら自身の中にこそあるのだから。恐怖の別名を、羨望といった。 だから、魔術師リィ・サイファの塔は静かなものだった。半エルフを恐れる人間は、真正面から彼に敵対することをも恐れた。 「変だよね、こんな綺麗なのにさ」 塔の窓から赤毛の男が下を眺めていた。近くの商家の男だろうか。塔の前を魔よけの仕種をしながら足早に遠ざかる。 「若造、いい加減にしろ」 呆れ声はサイファのもの。当然、だから赤毛の男はウルフだった。すでにこの塔に彼が住むようになって数年を経ている。 ウルフはそのような人間たちの仕種を見慣れてしまったはずだった。最初こそ猛然と抗議に出そうだったのだが、これ以上の悶着はごめんだとばかりサイファに引き止められていまに至る。 サイファにしてみれば、そんなウルフこそが驚異だった。彼が何を考えているのか、今もってわからないことがたくさんある。 はじめから彼は自分を恐れなかった。半エルフと知って逃げはしなかった。遥か昔、神人たちの王・至高王がいましますとき、神人の子らである自分たちが崇められたよう、伏し拝んだりもしなかった。 ウルフという人間がわからない。彼こそが同族の間では異端なのだとわかってはいるが、それがサイファには好もしかった。 「だってさー、やっぱり嫌じゃんか」 「別にお前に向けているわけではない」 「あんたに向かってだってのが嫌なの。わかる?」 「わかっている」 魔道書から目を上げてサイファは微笑む。その笑みを目にしたウルフが側に寄ってくることなど折込済みだとばかり、軽く目を閉じた。 軽く唇に触れるもの。どこかおずおずとしたくちづけに心が揺らめく。ぎこちない手つきで髪を撫でるのは変わらない。少しも巧くならないのがおかしいと共に愛おしい。 「世界は変わんないね、サイファ」 どこか寂しげな声に目を開ける。ウルフはこちらを見てなどいなかった。視線がさまよう先は窓の外。それでいて景色さえも見ていない。 「変わると、思っていたのか」 「ちょっとくらいはね」 言って溜息をつく。 ここ数年、半エルフがあちらこちらで散見するようになったとはサイファも耳にしている。おそらくはあの隠れ里に住んでいた同族だろう、と見当をつけている。 それを思えば忸怩たるものがあるのだ。あの時、激昂に駆られて魔法空間を破壊してしまった。あの場にいれば彼らはいまも安全だったかもしれない。 決して苦しめようと意図したことではない。怒りに我を忘れていたとはいえ、サイファは彼らに良かれと思っていたのだ。人間を、世界を知れば物の見方が少しは変わる可能性がある。いかに変わらない半エルフとはいえ。 だが、世界の変革は半エルフに厳しい。これからは人間こそが大陸の覇者となり、半エルフは住む場すら失っていくだろう。 「悲しいよ、俺はね」 サイファの思いを見透かしたようウルフは言う。 「気にかからないでは、ないのだがな」 「なにかできるとは思ってないけどさ、でも情けないよね」 「お前はできることをしている」 事実、サイファは知っていた。ウルフが近くの人間たちにだけではあっても半エルフがいかに自分たち人間と同じような生き物なのかを説いている。 人の子と同じよう、苦しみ悲しみ、命を愛おしむ術を知っている、と。 そのやり方に問題がある、とサイファは内心で溜息をつく。ウルフは自分たちの関係を引き合いに出して語るのだから始末に悪い。 サイファには人間と言う生き物がわからない。人間も同じだろう。姿形に大差がなくて理解の及ばない生き物など、やはり嫌悪の対象だと思うのだ。 けれどサイファはウルフが欲しかった。ウルフもサイファを求めた。細かいことなど、だからどうでも良かった。 「そうじゃなくてさ」 軽い頭痛を払っていたサイファの耳にウルフの困ったような声が飛び込んでくる。 「なにがだ」 「人間ってさ、醜悪だよね」 「そういうことを言うものではない」 「同族だから?」 「そうだ」 「でもさ、サイファ。俺ね、世界がもうちょっと良くなると思ってた。ぜんぜん変わんないどころかさ、半エルフが住みにくくなってさ、人間ばっかが元気でさ。俺、何やったんだろうな」 いっそシャルマークの大穴など塞がなければよかったとでも言い出しそうだった。サイファはそっとウルフを側に呼び寄せる。 唇を尖らせた不満顔に苦笑しながら跳ね上がった赤毛をかき回す。抗議の声は上がらない。そっぽを向いてしまっただけだった。 「いずれ、すべての半エルフは旅に出るだろう」 「あんたも?」 「私も」 「俺は?」 突然、迷子の子供のような声を出す。サイファは笑いをこらえ、けれどこらえきれないものが口許から漏れてはあふれる。 「サイファ!」 拗ねた呼び声にサイファは口許を引き締め、それから軽く彼の頬に唇を寄せた。 「そんなんじゃ誤魔化されないからね」 「そういうつもりではなかったが?」 「じゃ。なんのつもり?」 言ったウルフが笑い出す。サイファが決して睦言めいたことを言わないのを知っていて、わざとらしく問う。 サイファは黙って彼の頭を平手で叩いた。強くはないそれに大仰な声を上げ、ウルフが顔を顰めて見せる。 「一緒に、来るんだろう? お前は」 まだ喚き散らしていたウルフの表情が固まった。それから徐々に解けていく。ゆっくりと、笑みに。 「うん、行くよ」 サイファは答えない。 共に旅に出ようと言ったのはまだシャルマークを旅している頃だった。紆余曲折があった後、今でもなお彼はそう言う。 しかし道が見つからなかった。彼と共に過ごすようになって早数年。ウルフは少年から大人の男に変わりつつある。それがサイファには恐ろしい。 もしも道が見つからないうちに彼の寿命が尽きてしまったら。そう思うだけで怖くてたまらない。 「きっと見つかるって」 「簡単に言うな」 「だってさ。あんた、俺と一緒にいたいでしょ」 「いまさら何を言うか」 「だからあるの」 「どうしてそうなる」 「俺はあんたと一緒にいたいし、あんたもそうでしょ。だったらどっかにあるって」 希望的観測を楽天的思考で覆い、その上から蜜で塗り固めたような甘い予測だった。 それでもサイファはウルフの言葉を信じる自分がいることを知っている。それは心地よいものだった。 「それにさ、あんた言ったじゃん」 「なにをだ」 「その時が来ていないのかもしれないって」 サイファは黙り込む。半エルフの旅は各々が決めるもの。決まった道などないのかもしれない。誰一人還ってこないのだから道を知る者などいないのだ。 ある日、半エルフは旅立つ。ある者は人の世に絶望し、ある者はこの地に飽きたからとでも言うよう。ふっと旅立って、戻らない。 「早く、行きたいものだ……」 呟きを、口にしたつもりはなかった。ウルフの手が髪に触れてそれと知る。 そのようなことを言えば、現状に自分が多少なりとも苦しんでいることを彼が知ってしまう。ウルフを悲しませたくはなかった。 人間の世をサイファは彼よりも遥かに遥かに長い時間、見つめてきた。人間の本性など、ウルフが知るよりさらに数段、変わりようもないものかもしれない。サイファはそう思う。 「でも、けっこう楽しいよね。いまも?」 慰めだろうか、甘えだろうか。ウルフの口調は判然としない。サイファは苦笑して彼を見つめる。 出会った頃は自分よりも小さな少年だった。いつの間にか背も伸びて、自分が見下ろされている。悪くはない気分だ。 人間にしてはかなりの長身であるウルフはそれでも大柄、と言う印象を与えない。かといって細いわけでもないのだが、均整が取れた体、と言うよりはわずかに細身のせいだろう。 「楽しいな」 言えば小さく聞こえる歓びの声。だからついサイファは言い添える。 「アレクもいるし、シリルもいる。この世はこれで中々楽しい」 「サイファってばー」 「なんだ?」 「俺は? 俺は?」 「子供か、お前は!」 擦り寄っては覗き込んでくる無邪気を取り繕った顔を一瞥して、サイファは軽く頬を張り飛ばした。 「痛いでしょ」 「だったら愚かな真似をするな」 じろりと睨みつけたサイファの視線を気にした風もなく、ウルフはにんまりと笑う。一瞬にしてサイファは身構える。 「でもさ、そういうとこも可愛いよ、サイファ」 今度こそウルフの頬に赤い手形がついたのは言うまでもない。 |