あからさまなほどに嬉しそうなウルフの表情。その感情の沸騰にも感じられる彼の顔からサイファは目をそらす。そらした先ではリィがにやりと笑っていた。 「あなたは、どんな暮らしをしていたの、リィ」 だからかもしれない。ふとそんなことを問う気になったのは。サイファの表情にリィはそれを見てとる。逆にサイファ自身、自分の問いに驚いているようだった。 「話してよかったら、だけれど。聞いてもいい、リィ?」 重ねて言えば今度はウルフが笑った。うっかり殴ろうと差し上げた手には茶器。忌々しげに舌打ちをしたサイファを更にウルフは笑う。 「あんたさ、俺がどう言う暮らししてたのかは絶対に聞きたがらないくせにさー」 「――お前のは生々しいんだ。お前がどんな顔をしていたか、多少は知っているのだからな」 「あぁ、そっか。それで聞きたくないのか、なるほどねー」 あっけらかんと言った声にかつての「カルム王子」の面影は微塵もない。そう感じさせているのだ、とサイファもまた気づいているだろう。だからこそ、目許が明るい。 「どんなって言われてもなぁ」 首をかしげたリィにウルフは内心でそっと笑う。サイファがこちらとばかり話しているのが嫌だったのだろう。妙な稚気がウルフは嫌いではない、そう思う。 「あなたも、これと同じだったんでしょう?」 これ、と評されたウルフがなんでもないような顔で笑っている。それから茶を飲んでは旨いな、と呟く。まるで何も気にしていないらしい。これほど馬鹿にされて罵られて、それでもウルフはそこにサイファの真の心を見てとっているのだろう。それが二人の過ごしてきた時間か、とリィは思う。あるいは、自分の死後の時間かと。 「そもそもさ、お師匠様はどうして即位しなかったわけ? 俺は末っ子で所詮玉座からは元々遠かったんだ。別に国王の気まぐれでどうにでもなるような地位だったわけだしね」 その気まぐれで王太子にまでされたウルフだ。思い出したのだろう、サイファが顔を顰めるのにウルフは情けなさそうな顔をする。ここにいるのは「ウルフ」だと知らせるように。ちらりとサイファが笑った。 「そりゃ簡単だ」 ふ、とリィが肩をすくめた。思い出すこともなくなっていた様々なこと。自分はリィ・ウォーロックであって、他の何者でもない、嘯き続けたら、真実になっていた。 「俺はな、他人のことなんざァどうでもよかったんだ。ただ魔法を修めたかった。学問をしたかった。こんなのがな、王冠被った日にゃ民はいい迷惑だろうが」 だからすべてを放り投げて逃亡した。楽ではなかった。連れ戻そうと追手はかかったし、リィの覚悟が固いと知ってからも何度となく嘆願もされた。それでも拒み続けた。 「真面目だよなぁ、お師匠様。それも時代、なのかな?」 「お前ん時はどうだったんだよ?」 「俺はサイファだけが欲しかったし。サイファはカルムが嫌いだから、俺はカルムではいないって決めただけ。別に大したことじゃないでしょ」 「それはそれでけっこうな覚悟だがな」 ぼそりと言うリィにウルフは黙って肩をすくめる。真実どうでもいいと思っているらしい。 「お師匠様のほうがずっと大変だったと思うよ、俺はさ」 王冠を約束されたルーファス王太子。歴史書には民思う心篤く、そのまま時至ればミルテシア中興の祖と呼ばれるようになっただろうとまであったはず。 「本当に、お前は時々カルムに戻るな」 小さく笑ったサイファに嫌悪感はなかった。そのことにまずウルフはほっとする。それからようやくサイファを窺った。 「あっと、その。ごめん。なんか、その……」 「別にかまわん。お前が馬鹿ではないのは私も知らんではない。これは――リィへの対抗心というものでもあるのだろう?」 呟くように言ってサイファは口許だけで笑った。照れたらしい。と言うことは、自分で何を言ったかくらいはわかっている、と言うことか。その思いにウルフの胸がほんのりと温まる。 「それで、続きは?」 うつむいたまま言うサイファの顔を覗き込み、ウルフはリィと目を合わせる。続けていいらしいけれど、リィのほうはどうなのだと問うように。無言で肩をすくめられた。 「ほら、俺は末っ子だったって言ったじゃん? 上に兄弟はいくらでもいたからさ。だからお師匠様のほうが大変だったなって、それだけなんだけどね」 「お前な、言葉の選び方が悪いっての。そのまま続けるのはいいけどな、それだと――」 「あ、そっか。ごめん、サイファ」 詫びられて、サイファは首をかしげた。黙ってリィを見上げれば、苦笑の影。どうやら気がついていなかったらしい。それをわざわざ言ったウルフを睨みたくなったリィだった。諦めはしたけれど。 「俺には優秀この上ない娘がいたからな。俺なんかが玉座に座るよりよっぽど世のため人のためだ。魔法に没頭して国を顧みない王様より若くて綺麗で有能な女王のほうがずっといいだろうが」 「綺麗だったの、その、あなたの娘」 「ま、見た目は。どっちかって言ったら俺似だからな。お前は気に入ったかもしれんな、可愛い俺のサイファ」 「それをあっさり言ってのけるお師匠様ってすごいよね」 「くどくど言ったって仕方ないだろうが。ちなみに中身は剛毅な、実に男らしい娘だったぞ」 それでも、とリィは思い出す。父でも娘でもなかったと。彼女との間にあったのは、なんだろう。少なくとも親子の情と言うようなものを覚えたためしがなかった。 「男らしい娘ってなんだよ、それ! 俺、ちょっとはアデルハイト女王に憧れてたのになぁ」 「肖像画の一枚でも残ってるだろ」 リィのそれが残っていたくらいなのだから、と言外に言えばウルフがにやりとうなずく。ただウルフが知るのは立派な女王の顔だろうとリィは思う。それ以外の顔を知っているからと言って、何を思えるわけでもないのだけれど。 「リィ、見たいな。見せて」 するりと滑り込んできたサイファの声。明るい顔を作ってはいるけれど、リィは騙されない。たぶんウルフも騙されていない。 「なんだ、可愛い俺のサイファ。若造が美人だった、憧れてたなんて言うもんだから焼きもちか、うん? 確かに俺によく似た美形だけどな、お前が妬くようなもんじゃないぞ、可愛いサイファ」 「それ、自分が美形だって言ってるよね、お師匠様?」 「客観的事実ってやつだな」 にやりと笑い、リィは何気なくサイファを抱き寄せた。いずれ、思い出の中で笑う娘の姿を水鏡に映して見せることはあるかもしれない。サイファが落ち着いて、ただ受け入れる気になったころには。いまではなく、いつかは。 「……リィは素敵だと思うよ。ただ、リィが女の人になったらって考えると、想像できないだけ。別に……それだけ」 そっとリィの胸に頬を寄せ、胸の中へと吸い込まれればいいと言うようサイファは呟く。その頭を抱え、リィは仄かに微笑みながら彼の髪を撫でていた。 「さてなぁ。ちょっと見せるのが怖いかな、俺は」 「て言うか、あれでしょ、お師匠様。サイファが好きになっちゃったりしたらって思うと、怖いんでしょ?」 「俺似の剛毅な娘だしなぁ。ないとは言いきれないところが……」 「そんなわけないじゃない! あなたは私の心を疑うの。私が見た目みたいなどうでもいいものに惹かれたとでも思うの、私のリィ」 「思わないよ、可愛い俺のサイファ。それでも怖いのが、人間ってもんだ。始末に負えないだろ?」 「それでも、私はあなたが好きなのに」 小さく唇を噛み、じっとリィを見上げるサイファの眼差しを受け、リィは莞爾とする。それから勝ち誇ったようウルフを見やった。 「羨ましいだろう、若造」 「それを言わなきゃ羨んでられたんだけどね」 「あ……」 苦笑するウルフにサイファがさっと頬を赤らめる。そこに手を伸ばしウルフは指の背で軽く彼の頬を撫でていた。 「いいよ、俺はあんたに愛されてるの知ってるからさ。口に出して言わなくっても、ちゃんと知ってる。一々言わせるお師匠様、酷いよね?」 「いや……別に……ひどくは……」 「そこは酷いって言っとくもんだよ、サイファ」 くっと笑ったウルフにサイファは目を奪われる。愚かなウルフでも賢いカルムでもない、サイファだけが知る精悍な男がそこにいる。 「あなたもいたね」 もう、自分一人のものではない、呟くサイファにリィは片目をつぶって見せた。ウルフはサイファのものだとばかりに。ほんのりと微笑み返し、サイファはウルフを見やる。横目で、そっと。それでも眼差しを受け取ってくれるとわかっていた。 「結局な、可愛いサイファ。俺も若造も、あるべき場所にある、それだけだ」 「サイファがいるところが、俺の場所。ね?」 「お前だけじゃねぇだろうが、弁えろよ、若造め」 「いいじゃん、たまにはかっこつけさせてよ」 「たまにで済まねぇだろ。油断も隙もないな」 言い合いながら二人の間に流れるのが険悪なものではない、とサイファは目を細めてそれを眺めていた。安堵と、胸に満ちる豊かさ。リィの腕に憩ってとろとろと眠りたくなる。子供時代からの習慣のように。それでもサイファはリィの胸を押しやった。 「可愛いサイファ?」 「さっきね、それが夏の休暇みたいって言ったじゃない? 私にはよくわからないけれど、休暇は期限が決まっているからこそ、楽しいものでもあるんでしょう?」 「おい、サイファ」 「だからね、そろそろ私は元の生活に戻るよ、大好きな私のリィ」 微笑んで、真っ直ぐとリィを見て。ゆっくりと上がったサイファの両手がリィの頬を包む。わずかにウルフを気にした気配がしたけれど、意を決したのだろうサイファがウルフに何を問うこともなくリィにくちづけをする。 「行くのか、サイファ」 「あのさ、お師匠様。これでおしまいなんてサイファ、言ってないでしょ。これから普通の生活に戻るの、俺とあんたと、サイファと。ずっとのんびりしてちゃいつか飽きるでしょ、それだけだよ」 「――賢いお前は俺も嫌いだ」 わざとらしくさも嫌そうな顔をしたリィをサイファが笑う。そして戦士の持つ独特な優雅さで立ち上がったウルフはサイファの手を取る。ほんの少し嫌がる素振りをするのはたぶん、照れくさいせい。自分に対するのとはあまりに違うサイファの態度にリィは小さく笑う。それにサイファの口許もほころんだ。 「今度はうちに遊びに来て、リィ。それより先に、私が来るかもしれないけれど」 「若造は置いて来いよ」 「あなたがちゃんと無精ひげを綺麗にしていたらね」 にやりと笑い、そっぽを向いたサイファ。ウルフがからからと笑っている。手を振る二人を、リィはごく当たり前に見送った。 「妙だな。置いてけぼりにされた気がせん」 首をかしげ、リィは一人小さく笑う。一人きりにされたのではなかった。サイファはここにいる。リィの傍らに、心はある。ウルフと共にあるように。リィとも共にある。それに気づいては、ゆっくりと伸びをした。新しい日々が、ここから始まるのだとばかりに。 |