自分たちの小屋へと戻る道すがら、サイファは隣を歩くウルフを横目で窺っていた。弾むような、一歩先には楽しくてたまらないことが待っているとでも言うような足取り。少年時代から変わらないウルフの仕種。
「どうしたの、サイファ?」
 それでも当時よりは勘はよくなった、と思い、そして否定する。以前から勘だけはよかったと。その仄かな笑みに目を留めたのだろうウルフの顔がぱっと明るくなった。
「……今更だがな」
 呟くよう言うサイファの手をウルフは取る。言いたくないなら別に自分はかまわないよ、と伝えるように。だからこそサイファは告げる。取られた手を引き戻し、覚悟のように握り込む。そのときばかりは真っ直ぐとウルフを見ていた。
「よかったのか、お前は」
 自分はこの上なく今現在幸福だ。いまだかつて味わったことがないと断言してしまってもいいほど、幸福だ。けれどウルフは。
「あんた、変なところで変だよね」
 くっと喉の奥でウルフが笑う。笑われる要因がわからなくてサイファはそっぽを向く。心遣いを無にされた、そう思ったのではない。酷く酷く申し訳ないような気がしてしまったせい。
「お師匠様んとこ行きなよって言ったのは俺でしょ。あんたがなに気にしてるのさ?」
「だが――」
「俺はサイファに笑ってて欲しい。お師匠様とこうなって、あんたはいますごく幸せだ。だからそれでいいの。それでいいことにしときなって」
「いいわけがないだろう、ウルフ?」
 ためらいがちな手が、ウルフのそれを取る。珍しくサイファから繋いできた手にウルフの表情がほころんだ。だからこそ、詫びたくなってしまうというのに。
「私は、幸福だ。だがな、お前はどうなんだ。お前が私のために不幸になるのは――」
「まずそこなんだけどさ、サイファ。俺、全然不幸じゃないんだよね」
 けろりと言われた。さすがに唖然とする。そのサイファとウルフは手を繋ぎなおし、ゆっくりと散策するよう歩いて行く。その手のぬくもりに知らずサイファは縋っていた。
「んー。サイファさ、甘いお菓子好きだよね。一番好きなのはさ、あれかな。木の実と干し果物がいっぱい入ったやつ。蜂蜜たっぷりでしっかり焼いてあってさ」
「……確かに好みだが、それがどうした」
「あとさ、あれが好きでしょ。茸の煮込み。搾り立てのミルクでとろっとろに煮込んだの、あんた好きだよね」
 なにを言っているのだろうか、この若造は。そんな顔が隠せなかったサイファにウルフは明るく笑っていた。それに気づいたサイファは顔を顰める。目だけは、笑っていたけれど。
「だったらどっちが好き?」
「は?」
「だから、焼き菓子と煮込み。どっちが好き?」
「それは比べるようなものなのか? 非常に無意味だと思うが」
「でしょ?」
 にやりとウルフが笑った。そしてじっとサイファの青い目を覗き込んでくる。ここまで言ってもまだわからないかな、と問うように。
「あんたの中で、俺とお師匠様は占める位置が違う。同じように好きなんだと思う。どっちも大好きなんだと思う。でも、どっちがお菓子でどっちが煮込みかわかんないけどさ、比べるようなもんじゃないんじゃない?」
「――あ」
「俺はさ、それを知ってるだけ。だから別に不幸でもなんでもない。あんたが俺を好きなのは知ってるし、大好きなサイファが幸せなら、俺はそれで充分幸せ。充分すぎるかな?」
「どこがだ」
 ウルフの「大好きなサイファ」がウルフだけのものではなくなってしまったと、彼は嘆かないのだろうか。人間は、そう言うものでもあるはずなのに。不思議とサイファはリィにはそれほど深刻な不安をもってはいなかった。あるいはそれは長年を共にした信頼であるのかもしれないし、別の理由かもしれない。だからこそ、ウルフが怖くなる。
「お師匠様と笑ってるあんた見てて思ったんだけどね」
 昔のサイファはあのように無邪気に笑ったのだろうと。リィを失い、ウルフが知るサイファになった。そしていま、彼の笑顔を取り戻したのは自分だ、その誇り。ウルフが己はそう感じたのだと告げれば、それでもサイファはうつむいてしまう。
「俺は幸せだよ、すごくね。それだけは信じてほしいかな。たぶんさ、お師匠様もだと思うんだ。なんでかなぁ。なんかそれは疑ってないって言うか、なんて言うんだろ、手に取るようにわかる? そんな感じなんだ」
 もしかしたらリィに尋ねれば、いまのウルフがどれほど幸福なのか、もしかしたら不幸なのかわかるのかもしれない。いずれ問おうとサイファは心に留める。そのときにはもう、信じたいと気づいていたのだけれど。
「それはな、理由がある。リィにはすでに話したが――。先にリィに話したことに他意はない」
「あれでしょ、お師匠様のほうが話しやすかったんだろうし、なんか魔法に関係するっぽいことでしょ、あんたの顔見てるとさ。だったらあれだよ、俺にどうやったら説明できるか、予行演習だったんじゃないの、サイファ?」
「そういうことにしておいてやる」
 そうしときなよ、ウルフが笑う。いつの間に、これほど懐の深い男になったのだろう。すべては自分のためであり、自分のせいでもある。それが途轍もなく恥ずかしく、また何より歓喜を誘う。うつむいたサイファを見つめるウルフの眼差しは柔らかく、充分に成熟した男の持つ笑みすら浮かべていた。
「私とリィとは――」
 サイファは彼の眼差しには気づかずためらいながらウルフを見上げる。その一瞬前にウルフも何食わぬ顔で視線を戻していた。
「魔術師でもない、しかも人間のお前にわかりやすく言うならば、魂の一部分を分けあっている。厳密に言えばそうとは言いきれないし、そうでありそうでなしと言うのが正しいんだが、詳細は省くぞ」
「そうして。もう頭痛くなってきたから」
 顔を顰めるウルフをサイファは笑う。本当は、もしかしたら細かな学術的なことを話してもウルフには通じてしまうのかもしれない。そんなことをたまには思う。それはそれで悪くはない、けれどいまのウルフが好きだとも思う。思った途端に頬に血が上るのを抑えかね、サイファはそっぽを向いたまま話を戻した。
「我々半エルフにとって、かけがえのない伴侶と言うのはそういう意味だからな。無論、我が種族特有のものでもないから、人間にもそういう関係を築くことができるものはいるがな」
「へぇ、そうなんだ。なんかいいな、そういうのってさ」
「なにを他人事のように。お前もだからな、馬鹿者が」
「はい?」
「リィとお前と、どちらも比べる理由もない、選ぶ必要もない、そう言ったのはお前だろうが」
 呆れ顔のサイファをウルフはまじまじと見ていた。その中にウルフはサイファの羞恥と喜びを見た、と目を輝かせる。そんな顔をされたサイファこそが歓喜に染まるような、言葉には言いつくせない笑顔だった。
「お前もまた、私の魂とでも言うようなものの一部を持っている。――私はリィとお前と、それぞれの一部を持っている。ここに」
 そっとサイファが自らの胸元を押さえた。リィとの話の途中、サイファが示した仕種の意味がようやくウルフにもわかったのだろう。なるほど、とうなずいている彼にサイファは目も向けなかった。
「話がそれたな」
「そうなの?」
「前提を話していただけだ。それては……いないか。まぁ、いい。続けるぞ?」
「できるだけ簡単にね。俺、難しい話、わかんないよ?」
 にっと笑ったウルフの肩先をサイファは打つ。戯れめいたそれにウルフが少なからず驚いた、とサイファは気づいてしまった。ぱっと赤くなるサイファを横目にウルフは盛大に痛がってみせる。いつものように。
「嘘をつけ、痛いはずがないだろうが! だからな、話を戻す! 私はお前たち二人の一部を持っている。つまり、私を通して、お前たちもある程度は繋がっていると言うことでもある。意識的に探ってもわかるようなものではないがな」
「感覚的な? サイファがよく言うさ、俺の獣っぽい勘みたいなやつ?」
「それが一番近いかもしれんな」
「よかった」
「なにがだ?」
「だってさ、俺。別にお師匠様は嫌いじゃないし、けっこう仲もいいと思うよ。話してても楽しいしね。それはお師匠様も意外とおんなじなんじゃないかなぁ。俺のこと、本気で邪魔にしてないでしょ、あの人?」
「確かに」
「でしょ? でもさ、サイファ。俺はあんたとどっかがちょこっと繋がってるかもって言うのはすごく嬉しいけど、お師匠様とってのはさ、なんて言うか……ちょっとさー」
 顔を顰めるウルフに少なからず演技の匂いを嗅ぐ。嘘ではない、けれど真実でもないウルフの感情。ただ、息をつく思いでいるのも確かだった。愛する二人の関係が良好であるならこれ以上望ましいことはない。そうサイファは思う。思うそばから、頬が赤らむのだけれど。
「そうだ、サイファ。俺のさ、ここに触ってよ。そうしたら、俺がどんだけ幸せか、わかるでしょ。嘘なんかついてないって、わかるでしょ」
 ひょい、と繋いだ手でウルフは自分の胸元を触らせた。そこではなく、心に触れろと。サイファはそんなウルフにそっと微笑む。黙って首を振っては小さく呟く。
 ふ、とウルフが驚いた目をした。サイファ自身、自分のしたことに驚いている。
「珍しいね、サイファ。いまのって神聖言語でしょ? あんたがそれで喋るの、珍しいや」
「悪かったな、意味などわからなかっただろう」
「そうでもないかな。――これ、翻訳無理だよね? サイファがわかってくれてる。俺を信じてくれてる。すっごく愛されてる。そう言ってくれたのは、わかってるけど、でも俺の言葉にすると、違うよね。もっといろんなこと言ってる。それなのに、言ってることは一つだけ。そんな感じだよね」
「お前……」
「こっちに来た利点ってやつだよね、サイファ?」
 ただそれだけだと。ウルフはそう微笑む。目の前に、初めてで馴染み深い眼差しの男が立っていた。サイファは微笑み繋いだ手を振りほどく。すぐにウルフが追いすがってくるとわかっているから。
「偉そうなことを言うな、愚か者。私の言葉が理解できた? そんなはずはあるまい、お前にはな」
 ひょい、と繋がれる手。真の闇にあってもこの手だけでウルフとわかる。そう確信したのはいつのことだっただろう。
「またそういうこと言ってさー。でもそんなサイファも可愛いよ」
 鼻を鳴らすだけでサイファはウルフに手を上げない。それに少しがっかりしたようなウルフをサイファは笑う。
 いつか、千年の時を経てのことだろうか。リィを失った痛みが薄れ、いまここにこうしてリィとウルフと三人で在る、彼らこそ我が伴侶と言えるようになった日には。それまでは長い恋人時代も悪くはない。そしてその暁にこそ、ウルフに真の名を告げよう。

 この日サイファは決心をした――。




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