日々サイファが晴れやかに笑っていた。こんなにも明るい彼の笑顔をウルフは知らない。リィは知っていただろう。そう思えばちくりと苦い。けれどサイファの笑顔を取り戻したのは自分だ、とも思う。
「なにをしている。さっさとしないか!」
 いつもどおりの語調でウルフを呼ぶサイファをリィが笑う。そちらにも文句を言うサイファ。こちらに来たばかりのころには遠慮だったのか懐古だったのか、どちらともつかないものがあったのだろう、サイファにも。こうなった今、サイファは大らかに文句を言う。
「お前のせいだよな」
 ぼそりとリィに苦情を言われ、けれどウルフもまた笑っていた。自分のせいでなどあるはずがない。絶対にないとは言いきれないけれど、サイファが歪んだのは間違いなくリィのせいだ。
「別にどっちでもいいけどさー」
 それなのにウルフはそんなことを言う。サイファがそれを見てはほんのりと目許を和ませる。そのサイファを見やったリィがウルフに向かって嫌な顔をする。変わったようで変わらない三人の姿。ウルフは思わず吹き出していた。
 別の場所、別の機会に見たリィの嫌な顔がいまの表情に重なってしまって。
「なんだよ?」
「別にー。なんでも――ってサイファ! すぐに殴るのはやめて。痛いでしょ」
「痛いように殴ったんだ」
「まぁ、だったら痛くなかったらあれだよね」
「あれとはどれだ?」
 にこりと笑ったサイファが目の前で拳を突き出していた。器用によけたウルフの横、鋭い拳が突き抜けて行く。
「まったくなぁ。可愛い俺のサイファがこんなに暴力的になっちまって」
 嘆かわしげに言うリィと抗議をするサイファ。二人を放っておいてウルフは小屋の前の草地に寝ころぶ。陽射しに温まった草はほんのりといい香りがした。
「なんだよ、寝不足か。若造」
 向こうからリィが冗談を投げかけてくる。サイファの遠い笑い声。ウルフは片手を上げるだけ。誰のせいだと思っている、とはあえて言わなかった。それでリィには通じたのだろう、鼻を鳴らす音がする。
 昨夜のことだった。むしろ明け方、と言った方がいいような時間。何かが気になって眠りが浅くなったウルフだった。大したことではあるまい、と温かいサイファを抱き寄せようとして、すでに抱き締められていると気づく。そして声。
「……お前かよ」
 サイファを挟んで三人で眠っていたはずだった。それなのに、サイファはどこにもいない。無論、リィはサイファを抱き寄せたつもりだっただろう。しかしその腕はウルフの背に。
「俺のせいじゃないでしょ、お師匠様。すっごい気色悪いからやめて」
 ウルフを抱いたリィの腕を叩けばぞっとしたよう身を震わせるリィ。くつくつと笑うウルフだった。口で言うほど気味が悪いわけでもない。リィもそれほど嫌でもないらしい。ただ。
「二人とも。私がいない間に何を――!?」
 戻ったサイファが絶句するに至って、二人揃って爆笑した。唖然として立ち尽くすサイファなど滅多に見られるものでもない。
「そりゃ、仲良くしてた? なぁ、若造」
「うんうん、だよね。お師匠様。仲良しだよねー」
 言い様に二人して互いの体に腕をまわして見せたりする。内心ではあまり気分のいいものでもないな、と二人して思いつつ。そして互いに相手がなんとも言い難い気分になっていると感じつつ。
 それがウルフには面白かった。魔術師であるサイファとリィはこうして心のやり取りをもっと明確にしていることだろう。自分はこちらに来てその技を習い覚えた。まださほど巧くもないけれど。どことなく通じるものがあるのはたぶん、そのせい。
「そりゃな、サイファだぞ?」
 わかっているか、とばかり小声で言われてようやくウルフは納得がいく。サイファは語らなかった。リィには何かを言ったらしいが。語らなかった分、サイファの羞恥が伝わってくるようで、ウルフはそれが嬉しい。
 サイファとリィは間違いなく、通じている。自分がサイファとどこかで繋がっているような気がするのだから、リィもそうであるのはウルフにとっては当然の事実。ならば、とウルフは考える。サイファを通して、リィともどこかで繋がってしまっているのだろうと。単に親しい人の気分がわかる、と言う以上に理解できている事象。恋人でもない相手に、と思えばいわく言い難い心持ち。
「――なんか、ぞっとするんだけどな。お師匠様?」
「そりゃお互い様ってもんだ」
「だよね」
 ぼそぼそと言い合う二人にサイファが身を震わせていた。確かにサイファの位置からでは耳元で睦言でも囁いているようにしか見えないだろうとウルフも思う。
「お前なぁ。可愛い俺のサイファ。感覚が鈍すぎるぞ?」
 からりと笑ったリィが腕を解く。ほっとしたウルフなど気づかなかったよう、サイファが頼りない顔をした。そんな幼い表情をウルフは充分に堪能している。自分と二人きりのときには見せないサイファの顔だった。
「だって……リィ」
「なんだよ、可愛い俺のサイファ?」
 おいで、と口に出してはいない。けれどサイファには聞こえたに違いない。ウルフにまで聞こえたのだから。それだけリィ・ウォーロックと言う魔術師の力の強さが感じられる、ウルフにまで。戦士である彼にまで。
「なんだよ、俺と若造は喧嘩してた方がいいのか、うん?」
 リィの声を聞きつつサイファが再び寝台に潜り込んできた。その前、ちらりとウルフを見やったサイファだった。どうするのだろう、と眺めていたウルフを微笑ませることを彼はする。
 サイファは一度目をつぶって、そして二人の間に体を滑り込ませた。恥ずかしかっただろうな、とウルフは思う。それでもサイファはリィの側だけでは、嫌だった。それが、ウルフにまでわかる。リィには無論のこと。ほんの少し嫌な顔を作って見せたリィを思う。
「そうじゃ、ないけど。でも……」
 それでもサイファはリィの腕の中。背後にウルフを置き、すっぽりと抱かれたサイファの髪に顔を埋めるようにしつつ、リィはどうだとばかりウルフを見やる。
「あのね、お師匠様。俺と張り合ってどうするのさ? サイファがヤな思いするだけでしょ」
「お前な。冗談ってことを理解しろよな」
「してるけどね、俺は。いまはだめだと思うよ?」
 サイファが何かを嫌がっているのだから。言葉にしなかったウルフにリィは顔を顰め、サイファをそっと覗き込む。
 いつもならばウルフのそのような賢い部分をサイファは攻撃したはずだった。それをしない。さすがに訝しいとリィは眉を顰める。
「どうした、可愛いサイファ。俺に言えないようなことか?」
「ずるい、リィ」
「知ってるよ。俺はずるくて卑怯な男だからな」
 にやりと笑ったリィだった。あれではサイファが勝てるはずもない、とその笑みを見ていたウルフですら思ってしまう。そんなウルフに気づきもしないようサイファはリィを見ていた。そして決心がついたのだろう。わずかに背中が強張る。それを支えるでもなく、ウルフはただそこにいた。隣に横たわっているだけ。それでもサイファの意識がこちらにある、とウルフは確信している。案の定だった。
「――喧嘩はしてほしくない。仲良くって言うのは、違うかもしれないけれど、諍いはしてほしくないの。それはわかって?」
「だから仲良くしてただろ、可愛い俺のサイファ」
「そうじゃ、ないの。――これは」
 ぎゅっとサイファがリィの肩先を掴んだ。裸の肩に爪痕がついてしまいそうなほどに。ウルフはさすがだな、とリィを見ている。彼は一瞬たりとも顔色を変えなかった。
「ウルフは、私のもの。あなたにも、触ってほしくないの!」
 リィに感嘆していたウルフだった。二人の仲のよさをほのぼのとした気持ちで眺めていたウルフだった。知らず、咳き込む。
「うるさい、黙れ! 馬鹿は喋るな! お前なんか大嫌いだ!」
 振り返りざま、魔法が飛んでくるかと思ったウルフだったが、飛んできたのはサイファ自身。リィの腕の中からあっという間に抜け出して、今度はウルフの腕の中。
「お前ねぇ、可愛い俺のサイファ」
 それなのにリィが笑っている。当然かもしれない、とウルフは思いなおす。サイファとリィを和やかな気分で眺めていた自分だ、リィもまた同じなのだろうと。そうではないと思うのは、リィに対して礼を失するとばかりに。
「俺もサイファが大好きだよ」
 耳元で囁けば、思い切り背中を殴りつけられた。痛いなとぼやけば根性が足らん、とリィに叱られる始末。それに後悔をしたのだろうサイファが柔らかく抱きしめてくる、その腕のぬくもり。
「そういえばさ、サイファがここに触るやり方を教えてくれたじゃん?」
 こうなってしまったらしばらくは放っておかないと何も言わないサイファだとウルフは知っている。その間の暇つぶしに、とリィに話しかければすっかり目が冴えたのだろうリィも乗ってきた。
「そのときにさ、もっと巧くなりたくって、練習したくって」
「当たり前だろ。俺ですらサイファには頼りない人間の精神だぞ? お前なんざ危なくってかなわねぇだろうが」
「でしょ? サイファは半エルフだし、魔術師だし。だからさ、せめて同族だったらまだいいかと思ってさ」
「あぁ、確かにな」
「お師匠様に練習相手になってもらおうかと――痛ってぇってサイファ! あんた、どこ蹴ったのか、わかっててやってんの!」
「手加減はしたから口が利けていると思え、若造!」
「急所はやめて。服着てない時に急所はやめて。本気で涙目だから」
 ざわりと肌が粟立ったのにサイファも気づいてはいた。膝蹴りを叩きこむ瞬間、サイファは習慣通り治癒魔法も共に叩きこむ。それですらウルフは悪寒を覚えたのだろう。痛みなどなかったとしても本能的に。悪い、とは思うが詫びはしない。そっぽを向けば仕方ないとばかり拙い手がサイファの髪を撫でていた。
「過激になったもんだ、可愛いサイファ。俺にはやるなよ?」
「あなたが酷いことしなかったらやらないよ、私のリィ」
「そうだよな、可愛い俺のサイファ。――なんだ、若造の練習相手が俺だってだけで、焼きもちか、うん? 俺にも触れさせなくない大事な大事な若造か。妬けるなぁ、お師匠様。ほら、可愛い俺のサイファ。蹴るか、うん?」
 言葉もなく悶絶しているサイファとからからと笑うリィ。二人にウルフもまた大きく笑う。サイファの被害を一身に受けるとわかっていても。




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