まだ暗かった。それなのに身じろぎの息遣いを感じたウルフは目を覚ます。けれどそのままじっとしていた。リィがサイファを抱き上げた気配。サイファがリィに身を委ねた気配。いずれも黙ってウルフは見すごす。 そしてウルフに見逃されたのをリィは気づいていた。ほんのりとした苦笑が口許に浮かぶ。抱き上げたサイファはたぶん、気づいていないだろう。いつになく疲労している彼だから。 「リィ?」 こんなにも暗いうちにどうしようというのか。まだなにも着せてもらえていない体もそのままに、リィはどこにつれて行こうというのか。 「さっぱりしたいだろ、お前も」 密やかなリィの言葉にサイファは微笑む。内心では少なからず疑っていたけれど。こんなにもあっさりとリィが白状したからこそ、信じがたいリィの言葉。 「お師匠様を疑うなっての」 「それよしてって言ったじゃない」 「まぁ、あれだな。癖だから諦めろよ」 仕方ないね、と言わんばかりにサイファが肩をすくめた。くつくつと笑いながらリィは泉へと足を進める。裸足のままでもかえって気持ちがいいくらいだった。柔らかな長い草が足の下で潰れて香る。 「入るぞ」 一応はと言いおけば黙ってサイファが首に腕を絡めてくる。その頬に顔を寄せ、リィはわずかに目を閉じる。そして驚く。 「サイファ?」 触れてきたサイファの唇。どんな菓子より甘く、雲より柔らかなそれ。驚くようなことなの、と言うようサイファが目の前で笑っていた。 「あ――」 そのサイファが今度は驚く。リィが自分を抱えたまま浸った泉。普段ならば冷たいそれがいまは。ほんのりとしたぬくもりさえ帯びている。そう思う間にみるみるうちに温まっていく。 「騙されているのは私の感覚なの、それとも泉そのものなの」 「騙されたってなぁ。人聞きの悪い。ちゃんとあっためてるぞ?」 「どうやって?」 「そりゃ魔法で」 何食わぬ顔で言うリィにサイファは感嘆の眼差しを向けた。いまこの瞬間、リィは詠唱をしていない。長年リィの詠唱を聞いていたサイファだった。たとえどれほど短く素早いそれであったとしても聞き取る自信がある。だからこそ、異常。 「あなた、人間じゃないね」 思えばリィはこちらに来たばかりのころ、サイファの全力攻撃を髪一筋乱さず凌ぎ切った男でもある。尊敬が、敬愛が、それだけではないものに満ちて行く。 「若造じゃないがな、元・人間だしな」 「元々強いじゃない。私、あなたに勝てたことがないもの」 「そりゃお前はまだ子供だったからな」 「いまでも勝てる気がしないの。どうしてだろう」 「どうしてだろうなぁ」 からからとリィの笑い声が夜空に昇っていく。こちらの世界でも星は星座を描き、月は夜を照らす。それでもアルハイドで見ていた覚えのない空。 「同じものを、違う場所から見てるんだと、思う?」 人間には差異がわかりにくいらしいけれど、サイファは思い出す。ミルテシアで見る空と、シャルマークで見る空は星の形すら違うのだと。ならばここもそうなのだろうか。 「さぁなぁ。俺には、あれが星で、月なのか、それすらもよくわからんよ。可愛い俺のサイファ」 人間世界で見ていた星であり月であるのか。そもそもこの目に映っているのは空であるのかどうかさえ。 「それでも、とても綺麗」 サイファにとっては、それでいい気がした。無論、リィもまた。いまここで、こうして二人でいる。息を吸うリィの首筋に絡んだサイファの腕がきつく巻き締められた。 「可愛い俺のサイファ。どうした?」 温かい泉に体を浸し、膝の上に裸のままにサイファを抱き。それなのに、リィの心が彷徨い出している。それにサイファが気づかないはずもなかった。 「それは私が言いたいの。どうしたの、リィ?」 ゆっくりと目を合わせてくるサイファから、リィはあえて目をそらさなかった。無理に笑うこともしなかった。そうすればするだけ、見抜かれるとばかりに。 「あのね、リィ。あなたはまだわかってない。私が神人の子であるっていうことがどういうことなのか。あなたが人間であったっていうことがどういうことなのか。私たちが真にどういう関係なのか、あなたはわかってない」 嘆かわしげに首を振ったサイファだから、リィは気づいてしまう。サイファがくつろがせようと努力してくれていることに。情けないような、温かいような、不思議な気分。 「あなたが考えてることがわかるわけではないよ? でもね、リィ。あなたが不安なら、私は気がつく。たぶん、あなたが私の不安を感じるより早く、私は気づく。どうしてかわかるでしょう?」 「お前が神人の子だから」 「そう。それからここに――あなたの心を持っているから。だからね、リィ。話して。無理に見ようと思えば見ることはできるよ。でも、したくはない」 そっとリィの胸元を押さえてサイファは笑う。口ではどんなことを言おうとも、サイファは無理矢理リィの心を見ようとはしないだろう。昔、そうであったように。かつてアルハイドに暮らしていたあのころ、リィはサイファに隠していた場所があった。サイファもそれを知っていた。それでもなお、サイファは決して見ようとはしなかった。 「……お前がさ。どうして俺の無茶を受け入れるのかなって」 ぽつりと言えば馬鹿馬鹿しいとサイファが鼻を鳴らした。子供のころには見た覚えがない仕種にリィは苦笑する。若造の悪影響に違いない。内心で断じたそれにサイファが小さく苦笑を返した。 「本当に、無茶だよ、リィ。さっき、あれが来たときには本当にどうしたのかと思ったもの。うっかり魔法で跳ね飛ばすところだったんだからね」 「……思い留まってくれてよかったよ」 「私もそう思う。私はちょっと制御が甘いから。ウルフに何かあってからじゃ遅いんだからね、リィ」 死にはしないらしいこの世界。それでも傷も負うし痛みもする世界。リィを睨むサイファの眼差しはそれでも甘かった。 「だからな、そんな俺を――」 「ねぇ、リィ。私がどんなに無茶な我が儘言ってるか、あなたはわかっているの」 「は?」 「ほら、わかってない」 くすりとサイファは笑って空に向かって手を伸ばす。大らかで、恥じるものなどなにもないと示すようなその姿。神人の子としてはあり得ない驚異。 「私はウルフが……その、好きだよ。まぁ、その、ね。本人がどう思っているかは、知らないけれど」 「照れながら言うなよ、可愛いサイファ。妬けてくる」 「それと同じくらいね、あなたが好き。リィ、覚えていないの、私、言ったよ。私の心の半分は、あなたが死んだときに死んだんだと思う。あなたが一緒に、ここに持ってきたんだと思う。そう言わなかった?」 「聞いた覚えがないぞ」 「言ったもの」 ぷい、と怒る神人の子にリィは苦笑することで本心を誤魔化した。死なない彼が、自分の心は死んだと言う。たとえ半分であろうとも。どんな睦言より甘く、どんな呪いも敵わない激しい痛み。 「だからね、リィ。私は、一緒にどうあっても生きたいと願っていたよ、ウルフと。あれが死ぬなんて、嫌だった」 「だから――」 「そう。一緒に、ここに来る道を探した。あれが言ったことでね、一番私の心を打ったのはなんだと思う?」 共に世界の壁を超えようとでも言ったか。共に生きようと言ったか。ウルフならば言いそうな言葉が一つ浮かび、二つ浮かぶ。サイファは謎めかして笑っていた。 「――もしも道が見つかる前に自分の寿命が尽きたら。もしもそのとき私が独りきりになるなら。殺してあげるって、言ったの、あれは」 息を飲むリィにサイファは笑っていた。ウルフの覚悟が、いまこそわかった気がした。どれほどサイファを思うのか、思い知った気がした。 「そのウルフだけを、私は選べなかったよ、リィ」 長い溜息。もしもそうできていたならば、話はどれほど簡単だっただろうと言うように。あるいは、ウルフではなく、リィを選べていたならばどれほど。 「私には、選べなかった。ウルフも、あなたも。どちらかだけじゃ、嫌だった」 ゆっくりとサイファの手がリィの頬を包む。覗き込んでくる夏空の青。リィはただじっと彼を見ていた。 「そんな私のどうしようもない我が儘を、どうしてあなたは受け入れられるの? 自分だけ見ていろ、自分を選べって、どうして言わないの」 「そりゃ……若造だって言わねぇだろうが」 「だから?」 それが理由ではないだろうとサイファはリィを見ていた。見られるリィにも、わかっていた。サイファがそれを望むから。ウルフだけではなく、リィだけでもなく。それをサイファが望むから。 「そう。だから、私もあなたの無茶を受け入れる。どんな無茶でも、どんな酷いことでも、たぶん」 「あのな、サイファ――」 「嫌だったに決まってるじゃない。恥ずかしかったに決まってるじゃない。でも本気で嫌だったら、あなたはしなかった。私もたぶん、魔法を飛ばした。そうでしょう、私のリィ?」 敵わない、とリィは空を仰いだ。そんなリィに寄り添い、サイファは彼の胸の音を聞いていた。規則正しい鼓動が、少し速くなる。見上げれば、リィは黙ってサイファにくちづけた。 「今になって、ようやく若造がすごいって素直に言えるな」 「そう? なにも考えていない馬鹿だと思うよ」 「悪態つきやがって、可愛い俺のサイファ。――あいつは、お前が幸せなら他は全部どうでもいいって言いやがった。自分だけじゃお前を幸せにできない、でも捨てられるはずもないって確信があった。愛されてる男は強いな」 「勘だけは獣並みにいいもの。褒めるようなことじゃないと思うよ、大好きな私のリィ」 わざわざ音を立てて頬にくちづけをしてくるサイファだからこそ、リィは笑ってしまった。これでもかとばかりサイファを抱きしめる。 「そういうこと言うと、知らないぞ? 可愛い俺のサイファ」 「……そう、かな? ――いまだけは許す。黙って見ていないでこっちに来い、馬鹿!」 ウルフが無言で佇み話を聞いていたのにサイファはいつ気がついたのだろう。少なくとも自分より早く気がついていたはずだな、とリィは思っては苦笑する。笑いながら歩いてくる足音が聞こえていた。 |