魔術師としては非常に悔しいが、サイファの言うとおりだろう、とリィは理解した。自分の力量を疑ってはいない。その上で、ウルフは支配が容易すぎる、そう感じてもいた事実。サイファの言葉で明確になる。腹立たしいような、嬉しいようなこの感情は師の感慨というものだろう、リィはちらりと苦笑した。 「若造、入れよ。腹減ってんだろ」 「……いいの、リィ?」 ウルフがここを訪れるまで、小屋に入れるのをリィは渋っていたはず。それをあからさまには言いかねて言葉を濁したサイファにリィは微笑みかける。 「俺はいいよ。お前は?」 「私は、別に……」 「だったら可愛い俺のサイファ。なんか作ってくれるか。お師匠様、腹減ったなぁ」 「あなたまで成長期とか言わないでよ、もう!」 顎を上げて怒りながらサイファは一人、先に立つ。それでも背中が笑っていた。リィにわかることは当然にして。 「サイファ、ほんと楽しそうだなぁ。やっぱよかった」 ウルフは自分こそ幸福でたまらない、そんな顔をして立ち上がる。サイファを見るその眼差しに、少しだけリィは負けそうだと思ってしまう。 「お師匠様さ」 立ち上がりかけたリィにウルフが首をかしげた。そのまま二人、立ち話。サイファには聞かせたくない話題だとリィは察する。 「あのさ、こんなこと言うとすごい偉そうなんだけど。俺に張り合うの、やめない?」 それを平静に言ったのだったら、リィは鼻で笑って相手にもしなかっただろう。けれどウルフは途轍もなく申し訳なさそうな顔をしていた。 「俺もさ、経験があるって言うか。サイファがお師匠様大好きなのは気がついてたからさ。もう、すごい張り合って張り合って、一人で勝手に敵わないって落ち込んでさ、勝ち負けつけてさ」 「あっちでか?」 「こっちでも、だよ」 「そうは、見えなかったがな」 「そりゃ俺にも見栄があるからね。見せなかっただけ」 肩をすくめてなんでもないように言うウルフにリィは透明な眼差し。どんな色を向けてもウルフに対して礼を失すると言わんばかりに。あるいはこの瞬間、リィはウルフを対等と認めた。 「だからさ、すぐにお師匠様にもわかると思う。俺がわかったんだからさ」 「時間の節約だ、教えろよ」 自分が助言などするまでもないだろう。言うウルフにリィはあえて乞う。二人、にやりと笑みをかわした。 「俺とお師匠様では、サイファの中で位置が違うんだと思う」 「あぁ、なるほどな」 「なーんだ、せっかくめんどくさく言ったのになぁ。つまんないの」 にやにやとしつつウルフが肩をすくめた。馬鹿にされているような気がしたけれど、これはこれでウルフの心遣いだろう。自分などに教えられたくはないはずのリィだからこそ。 「俺はさ、たぶんどっかでお師匠様に勝ってるし、どっかでは負けてる」 それはリィも同じだ、ウルフは言う。言われるまでもなく心の片隅で感じていた事実。ウルフに指摘されて明確になる。苦笑しつつうなずいたリィは黙ってウルフの肩を叩いていた。 「行こうぜ」 サイファが待っている。何かを作って、待っている。それはウルフの好みだろうか。それともリィの好みだろうか。 「俺のかな、お師匠様のかな。俺が好きなのだといいなぁ」 「張り合うのやめるんだろうが」 「こういうのはいいんじゃない?」 「いい加減な野郎だな」 軽やかな、手ごたえのない男だな、と思う。けれどウルフには強固極まりない芯があるともリィは知っている。そこだけは、疑わない。だからこそ、言えるというもの。ちょい、と肩先をつついて再び立ち止まらせた。 「なに?」 「お前、あいつの名前知らないだろうが」 突然に何を言われたか、とウルフが首をかしげていた。名前ならば知っている。彼はサイファだ。そしてはたと気づく。 「あぁ、そっか。真の名か」 言われるまで考えてみたこともない、とウルフが驚いているのにリィはさすがに呆れた。伴侶の名を知らない、というのはどうかと思う。そう思うのも、時代だろうか。 「お師匠様は、知ってるんだよね。サイファ、自分で――」 「教えてくれたんじゃなかったんだったら、誰に聞いたんだよ」 「だよね」 そうかそうかと楽しげに驚いているウルフにリィは軽い頭痛を覚えた。サイファはこの男のどこがいいのか、久しぶりに思う。 「お前なぁ」 「だってさ、俺は聞いたことないし」 「だからな、それを知りたきゃ教えてやるよって言ってんだ」 面倒になってきたリィは率直に用件を言う。そして頭痛が吹き飛ぶ。目の前のウルフの気配が変わっていた。 「お師匠様。それはしちゃだめでしょ。サイファはあんたに教えたんであって、俺にじゃない。サイファの信頼を裏切るような真似はしちゃだめだ」 真っ直ぐと見つめてくる眼差し。あちらの世界で、あの時代の英雄であった、とリィは聞いている。正にその姿。息を飲むリィの前、ウルフがへらりと笑った。 「俺はさ、いいんだ」 剣を収めた音が聞こえた気がした。ウルフは抜いてなどいない。それでも心で剣を抜き、リィに構えて見せたのだとなぜか理解した。 「強がりでもなんでもないよ。サイファは俺には教えないで、お師匠様には教えた。そうしたかったから、そうしてる」 「昔のことだぞ。あいつが真の名の意味もなんにもわかってなかったころのことだ」 「わかってなかったと、本気でお師匠様は思うの。サイファは半エルフだよ? たぶん、俺たち人間が思うよりずっとわかってると思う」 半エルフ、と言われれば今でも癇に障るリィだった。けれどウルフが言えばそこには蔑称ではない感情が混じるかのよう。彼自身、蔑称だとはまるで思っていないせいもある。それもまた、時代のせい。 「ほんの子供でも、どんなにちっちゃくても、サイファはお師匠様に自分の名前を教えたかったんだと、俺は思うよ」 「俺は呼んでやることもできなかったってのにな」 「知っててくれるって、なんかそれだけで嬉しかったんじゃないかな。だから、覚えててくれたの、絶対に嬉しかったと思うよ」 実は、知っている。サイファの名を悪用したリィではあった。けれど、それを覚えていてくれて嬉しかった、とわざわざサイファは後日リィの元に一人で言いに来た。 「あ、やっぱ嬉しかったんだ。ほんとさ、お師匠様の前ではサイファ、素直だよなぁ」 「努力に努力を重ねりゃお前の前でも素直になるかもしれねぇぞ」 「んー、別にいいかな」 肩をすくめてウルフは歩きだす。名前の件ならば済んだ、ということだろう。その後ろ姿を見つつリィは思う。 これが、ウルフの言う、サイファに対して占める位置が違う、ということなのだと。リィが知っていてウルフが知らないこと、その逆。それでもまったくかまわないと。 「サイファがよければそれでよし、か?」 呟けばウルフが振り返る。にんまりと笑った顔に答えを知る。それでいて、目だけは精悍なのだから嫌になる。 「サイファがなんでお前に惚れたのか、俺にはわかんねぇぞ」 「一つだけわかるとしたらね、お師匠様」 「なんだよ」 「俺はあんたと全然違う。たぶん、そこだよ」 サイファはどこにいるのだろうか。小屋の中に気配がなかった。奥の部屋にいるのか、と思ったけれどそこにもいないらしい。リィはそれを魔術師としての感覚で捉えたけれど、ウルフはウルフで戦士としての勘で知ったらしい。だからこそのその話題。 「違うか?」 ウルフが言うほど、違うとはリィには思えない。自分もウルフもたぶん、人間としてはあまり出来のいいほうではない。人間として、ではなくおそらくは男として。 「できること一つとってもそうでしょ。お師匠様みたいに俺は魔法が使えるわけじゃない。頭のつくりも結構お粗末だしね。勉強は大嫌いだ。研究より外で体動かす方が好き。ね、違うじゃん?」 「そう言うのは些末なことって言うんだ」 「でも、そう言うのがサイファには大事。でしょ?」 ウルフはサイファがいないところで、サイファがどう暮らしていたのかさらりと語る。自分もサイファからの伝聞だ、と付け加えた上で。 たった一人、誰とも交わらずにサイファは生きていたというのか。友もなく、弟子もなく。知り合いと言い得るほどの人間もなく、同族からすら距離を置き。愕然とするリィにウルフは真っ直ぐな目を向けていた。 「サイファは、それくらいあんたが好きだったんだ。まだ小さくてわからなかったかもしれない。でも魂の半分を引きちぎられたような思いをしたんだ」 だから一人でいた。癒えることのない傷を一人で抱えていた。リィは無言で片手で顔を覆う。 「俺とサイファが会ったのは、本当に偶然。魔物討伐に魔術師が必要で、それで会いに行ったのがサイファだった。それだけ。強引に塔に侵入して、無理矢理連れ出して」 けれどそれがたぶん、よかったのだとリィは思う。そうでもしてもらわなければサイファは動くことができなかったのだから。 「……サイファは、一人が嫌いだったんだぜ。俺が出かけると、いつも怒ってた」 ぽつりと呟く。アルハイドにあったこの小屋。一人出かけたリィをここで待っていたサイファ。いつだっただろうか。リィの寝台に潜り込んで眠っていたサイファを見つけたのは。 「そんなサイファ、ちょっと見たかったな」 どんなに愛らしかっただろう。ウルフは屈託なく笑った。それに救われた思いをしてしまったリィの負け。そしてそう思う必要もないとすでに学んでしまっている。ゆえに完敗。リィの苦笑にそれを見たのだろうウルフが片目をつぶった。 「どんな私だと?」 戸口からひょい、と入ってきたサイファは腕に一杯の物を抱えていた。どうやら食材を持っているらしいが。今日は驚かされどおしだな、リィはけれど大らかに笑ってサイファを手伝いに立った。 |