笑みをかわしあうサイファとリィをウルフは見ていた。いまのウルフには精神が接触しているのでないことは見ればわかる。ただの笑顔のやり取り。それでも二人には通い合う心がある。羨ましくないと言えば嘘だった。それでも自分には自分の立つ場所と、役割がある。サイファに果たすそれが。そう思ってはほっと息をつくウルフだった。
「ねぇ、リィ」
 まるでそんなウルフの気持ちを感じ取ったかのよう、サイファがリィへと話しかける。ウルフにではない辺りがひねくれている、とウルフ自身が思う。けれどそんなサイファが彼は好きだった。ちらり、浮かんだ笑みはサイファには黙殺され、それでも気配だけがこちらを捉えている。そんな気がした。
「その、最初の国王、ルプス王? それはどんな人なの」
 サイファは神人の子。知識を求める魔術師ではあったけれど、人間の王国のことにはさほど詳しくはない。ましてアルハイド古代王朝から分かれ起こったミルテシアの初代国王など、存在は歴史として知ってはいても、「生きた人間」として認識はしていなかった。
 けれど思えばリィもウルフもその国王の血を継いでいる。偉大な英雄と呼ばれた王の、リィが子孫なのだと思うのはサイファにとっても不思議な感覚だった。
「どんな人って言われてもなぁ。俺はまだ生まれてもいないしなぁ」
「それはそうでしょ。私だって生まれてないもの」
「ものすごい、神話級の昔話だよね、それって」
「……どう言う意味だ、若造!」
 サイファの低い罵りにウルフはへらへらと笑っていた。わざとやっているとしか思えないリィは呆れ、ウルフが片目をつぶって見せるに至って本気で呆れた。
「俺も昔話で聞いただけだぞ? アルハイド王国最後の国王の末の息子だったらしいな、ルプス王は」
「なんか色々あったみたいで歴史書から何から散逸しちゃってるから、なんでアルハイド王国がなくなったのかって、よくわかんないんだよね」
「むしろお前が散逸という言葉を知っていたことに私は非常な驚きを覚えているのだが、いま」
 うっかりとしていた、とでも言うよう顔を顰めたウルフが天を仰ぐ。サイファとて彼がミルテシアの王子として高い教育を与えられてきたのは知っている。だからそれは愚かを演じて見せるウルフへの感謝と戯れだったのだろう、とリィは思った。
「ま、事情はわからんがな。その時点でシャルマーク、ラクルーサ、ミルテシアの三王国が生まれた。ちなみにその順番で姉、兄、弟、だ」
「ふうん、シャルマークは女王だったんだね」
「らしいな。元々はアルハイドの王冠を継ぐ王子ってのがラクルーサを建国した」
「シャルマークの女王はすぐ下の弟の補佐をする役目だったらしいね。もちろん一番下の弟も」
「……なんだか、意外だな」
 サイファが首をかしげた。ウルフの王子ぶりが、ではない。それに気づいているのだろう、ウルフはいつもどおりへらりと笑う。
「どうした、可愛いサイファ?」
「だって、そうでしょう? 人間て、もっと争うものじゃない。兄弟仲良く――してなかったから、三つの王国が生まれたのかな。そうじゃないの?」
 それなのに、リィとウルフの話の含みには、三人の兄弟の仲はよかった、とある。何かしらの事情で三王国にならざるを得なかったのだ、と言っている。それがサイファには理解しにくい。
「可愛い俺のサイファ。だったら俺と若造はいがみ合ってるか、うん? そうなっても全然不思議じゃない状況で、そうはなってないだろ。だから、それは個人差だったり相性だったり、そういうもんさ」
「ちなみに俺とお師匠様が仲悪くないのは――」
「完全に個人差でも相性でもねぇな」
「サイファがいるからだよね、絶対」
「それ以外に理由があるなら拝聴するぞ」
 ふん、と鼻を鳴らすリィにサイファは目を丸くし、そして小さく吹き出す。そのくつろいだ顔を見るためにこそ、ウルフは彼をリィの元に預けた。願いが叶って、こんなに嬉しいこともない。サイファに見惚れるウルフをリィがなんとも言いがたげな目をして見ていた。
「で、ルプス王だよな。お前、どう聞いてるよ?」
「なんかすごい賢明で穏やかな人って聞いてるよ」
「俺もだ。あれか? 元々兄王子を補佐するよう育てられたせいかな」
「かもね。なんもかんも全部自分がするような人じゃなかったって聞いてる」
 遠い先祖と子孫が更にその先祖のことを話していた。サイファは自分が生まれるより前の話、というだけでどことなく面白い。久しぶりに時間は流れている、過ぎ去った過去がある、そんな思いを抱いた。
「それも、意外だな。お前の英雄、というから素晴らしい剣士であったとか、そのようなものだと思っていたのだが」
「まぁ、だからさー、言いにくかったわけ。俺だって落ち着きとか頭いいとか言われるような人、すごいなって思うんだよ」
「お前には縁のない言葉だからな」
「そりゃないよ、サイファ!」
 悲鳴じみたウルフの声にサイファが目を細めていた。それからちらりとリィを見やっては仕方ない男でしょう、とでも言いたげに笑う。
「お前に落ち着きがないのはそりゃ、名前のせいだろうな」
 小さく笑ってリィは言う。サイファはおそらく気がついていないから。教えてやればいいのに、とウルフに目くばせをすれば黙って肩をすくめられた。
「名前のせい?」
 言ってサイファはリィではなくウルフを見る。聞いていいのか、と目顔で問う。それにウルフはそっと笑ってはサイファの手を取っただけだった。それを了承と解釈し、リィは話しを続ける。
「そいつの本名、あるだろ」
「あぁ……カルム?」
「それだ。若造、それ、綴り間違いだろ?」
「みたいだね。所詮俺はよけいな末っ子だからね。そんなもんだよ」
「どう言う意味だ?」
 サイファがとられた手を逆に繋ぎなおした。ウルフはよけいな者などではない、それを伝えたくて、言えなくて。そんな彼の心の深さがウルフにわかるだろうか。リィの懸念は一瞬で溶けて消えた。
「あんたに逢うまではね。だから生まれてすぐ、名前つけられた時にも字を間違えられたんだ、俺」
「本来はカームのほうが正しいか? 俺とお前じゃ同じ人間って言ってもな、生きてた時代が違うから言葉も変化してる。ちょいと確信がないけど、間違ってはいない、だろ?」
「お師匠様って時々すっごい嫌味だよね。頭の良さをひけらかしてるって感じー」
「お前が馬鹿をひけらかしてんだからちょうどいいだろ」
「納得」
 にやりとした二人にサイファは口を挟む隙がなかった。いつもならばリィがウルフを貶めるようなことを言うときには断固として抗議をするのに。あるいはそれは、彼らに理解が通っている、それを見たせいかもしれなかった。
「カームってのはさ、サイファ。穏やかな、とか風が凪ぐとかさ、そんな意味なわけ。そう言う人間になりますようにって願いだったんだと思うんだけどね」
「綴り間違えてちゃ無駄だよな」
「おかげさまで名前通りのお馬鹿だよ、俺は」
 にやりと笑ってウルフはサイファを覗き込む。それでいいのだと言うように。サイファには何がよいのか、それでもわかってはいなかった。それをリィは感じている。それなのに、サイファが受け入れ、納得し、うなずいたのが見えていた。
「若造の妙な説得力はやっぱり――」
「血筋だと思うよ、俺」
「やな血筋だな。限定的すぎるだろうが」
 顔を顰め、けれど笑うリィをサイファはなぜか真っ直ぐと見た。それからきっぱりとリィに向き直り、かすかに顎を上げる。
「あのね、リィ。それ、やめてくれると嬉しいの。どうしてウルフをウルフって呼べないの。そんなに難しい名前だとは思えないのだけれど」
 きゅっと唇を噛んだその姿。こちらに向き直った理由がリィにはわかった。その顔を、ウルフには見せたくなかった。あまりにも、羞恥が勝るから。わずかな羨望を胸の奥へ。リィはほんのりと笑う。
「ちょっとなぁ。めんどくさいんだよな。一々呼ぶたんびに気を付けてなきゃならないだろ」
「どう言うことなの、リィ。説明してくれる気はないなんて、言わないよね? 大好きな私のリィ?」
「もちろんだよ、可愛い俺のサイファ?」
 二人の言葉の応酬に、こらえきれずとウルフが吹き出す。それを気に留めた様子もなく二人は見あっていた。
「あのな、サイファ。前に見せただろ、俺はそいつを名前で縛れる」
「それは――」
「真の名なんか関係ねぇよ。もう知ってるってのも大きいけどな、問題はそいつの名前自体が長く使ってる名前だってことだ」
「本人が自分の名前だと認識しているのが問題って言うこと?」
 そのとおり、とリィはうなずく。血の絆のせいももちろんある。リィの中、ウルフの真の名が刻み込まれているのももちろん理由の一つ。それ以上にリィがリィである、それが最大の問題だった。
「俺は力が強すぎる。危なくてな」
 ウルフと呼ぼうがカルムと呼ぼうが迂闊に支配してしまいかねない、とリィは肩をすくめた。ようやくにしてサイファは悟る。それがリィの心遣いであったのだ、と。
「だったら私の名は?」
 ウルフとは比べ物にならないほど、この名を名乗っている。そしてリィは真の名も知っている。首をかしげたサイファにリィは黙ってサイファの胸を指でつついた。
「あぁ……私が神人の子だから」
 違うということが、久しぶりに悲しくなった。なにがどうと言うわけでもない。ただ、切ないような、そんな気がしただけ。その胸の中、何が流れたのだろうか。ふとサイファは首をかしげてリィを見る。それからはっきりと顔を顰めた。
「どうしたの、サイファ?」
 逸早く気づいたウルフの声。振り返ったサイファは大胆にもこの場でウルフの頬に手を添える。そっと覗き込んだ目の中、何を見るのだろう。それからリィを振り向き、彼は言う。
「あなたの技量と魔力が原因ではあるね。でも、一番の理由は私だと思う」
「可愛いサイファ?」
「あなたには自明の理由で、あなたとウルフは私を介して繋がっている。そう言うこと」
 魂の伴侶だから。言わなかったサイファの言葉にリィは莞爾としていた。それに拗ねたのだろうウルフが子供のよう頬を膨らませる。
「サイファ、どう言うこと? 聞いてもよくわかんないとは思うけどさ、教えてくれたって」
「よく? 思う? その程度の努力で済むならば私は厭わず解説をするだろう、懇切丁寧にな」
「あ、やっぱ無理。絶対に無理だ」
「だからしないと言っているんだ!」
 声を荒らげたサイファ、受け流すウルフ。ウルフは真相など知らなくともよいと態度で示した。話す気はないとサイファが明言したにもかかわらず。
「ちょっと負けたかな」
 小声で呟いたリィにだけ見えるよう、ウルフが片目をつぶっていた。




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