ゆっくりと伸びをするウルフに、わずかな緊張をリィは見てとった。当然だ、と思いなおす。この三日というもの、サイファを思わずにいたはずはない彼だった。そんなリィにウルフはにやりと笑う。
「ほんとサイファ、明るくなったな。あんな顔、俺見たことないよ」
 ほとんど背を向けていたサイファだというのにウルフはそんなことを言う。それほど彼にとってあの表情は鮮烈だったのかもしれない。
「羨ましいか?」
「別に。俺は俺、あんたはあんた。でしょ?」
「悟るなよ、つまんねぇな」
「ここまで来るのに長かったんだってば」
 そうでなかったならばもっと早くにサイファを預けていた、ウルフは呟く。世界の壁を共に越えた伴侶としての矜持と懸念がウルフにもあった。そう思うだけでリィはほっとする。思ったときにはにやついていた。
「なにさ?」
「いや。別に。似た者同士かと思ってな」
「お師匠様ほど人間できてないよ、俺は」
「俺のどこがだ?」
 実に不思議そうに言うリィにウルフは苦笑した。サイファがその場にいないからこそする彼の表情。二面性があるなどという問題ではない気がしてリィこそ苦笑する。
「あれかなぁ、サイファ。ようやく明るい色を着てたでしょ。そのせいかな」
「あいつは元々明るい色のほうが好きだったんだ」
「お師匠様のせいだね」
 リィが死んだから、サイファは喪の色を選び続けた。リィが明るい色をまとうからこそ、サイファは準じている。どちらとも取れるようなウルフの言葉にリィは肩をすくめる。
「それ、サイファだよね?」
 ひょい、とウルフがリィの長衣を指さす。ウルフとしてもリィが模様の入ったものを着ているのを見るのは珍しい。
「あいつの悪戯だ。俺が遊んだら真似しやがった」
 袖を顔の前に持ってきたリィはしげしげと見やり、もう一度肩をすくめた。上達したな、と思う反面なにも小花模様にしなくともいいだろうと思ってしまう。
「なんかさ、そう言うのだけは羨ましいかな。サイファ、俺には物くれたことないしさ」
 どうでもいいことのように言うウルフ。ただの戯れで、本気で羨んでなどいないと如実にわかってしまう。だからと言ってリィのために言っている風でも当然にしてない。単に話題がないだけかもしれない。
「あぁ、なるほどな」
 言いつつちらりとリィはサイファに精神の指先を伸ばす。何か小屋の中で手間取っているのだろう。まだ茶の支度をしているサイファだった。その彼にそっと問う。返ってきた答えにリィは笑った。そんなリィをウルフは怪訝な顔をして見やる。
「どうしたの、お師匠様」
「サイファはお前が寝てる間に色々遊んでるとよ。起きると片づけるらしいぜ」
 にやりとして言えば、ウルフが同じような顔をして肩をすくめる。小屋の中から抗議の叫びが聞こえてきた。
「どうして言うの、リィ!」
 大きな声を上げながら、サイファはそれでも手間取っている。実のところリィの仕業だとサイファはまだ気づいていないらしい。ささやかな魔法による妨害に、サイファは気づかず文句を言っていた。
「お前、知ってたのか?」
 小声でサイファに気づかれないよう問えば、ウルフが困り顔のまま笑う。それから同じような顔をしてリィに身を寄せては囁いた。
「俺は戦士なんだって。寝てたって悪戯されれば気がつくよ」
「そりゃ、そうか。じゃなかったら死ぬわな」
「そう言うこと」
 ふとウルフは懐かしい友を思い出していた。ラクルーサの兄弟と、いつかそんな話をした記憶。サイファの暴力をなぜ甘受する、逃げればいい、そう言った兄弟。戦士のウルフにそれができないはずはないのにどうして、と。
「お前ら、歪んでると思うぞ?」
 あの時の兄弟とリィが同じようなことを言ったおかげでウルフは知らず笑っていた。そしてじっとリィを見やる。
「俺が歪んでるんだったら、そりゃ血筋のせいだと思うよ?」
 先祖は誰だと言わんばかりのウルフにリィは返す言葉がない。そしてはたと気づく。
「お前な。俺とお前の間に何十世代あると思ってんだ。先祖の子孫のって言うほど近くねぇだろうがよ」
「だから血筋って怖いよねぇ」
 ふふん、と笑ってウルフはもう一度伸びをした。それにはリィも呆れてしまう。そしてあまりにも当たり前に会話をしている自分たちを思う。それもまた、異常かもしれないと。それならばそれでもう、仕方ないことのような気がしてきた。
「それにしても、お前は不思議なやつだな」
 なにが、問うようウルフが首をかしげた。癖のある赤毛が風になびいたのを鬱陶しそうに首を振って払っている。そんな姿はまるで子供のようだった。
「俺の接触を感じ取ったこと一つとってもそうだ。いくらこっちの生き物になったって言ってもな、順応が早すぎる」
 サイファにはそう説明したことではあるが、リィとしては不可解でもある事象だった。ウルフと言う理解しがたい男を前にリィはどう考えるべきか迷ってもいる。
「これもそうだな。見てわかるってのも、勘がいいだけじゃねぇだろ」
 そう言ってリィは袖を掲げた。ウルフは言わなかった、長衣を作ったのがサイファか、とは。模様を入れたのはサイファだろう、と指摘しただけ。
「まぁね、ほんと勘の類なんだけどね。戦士ってのは勘がよくなきゃ死ぬからね。俺はサイファのために死ねなかったから。その辺は必死だったし」
「それだけとも思い難いがな。実は魔術師向きか?」
「冗談。勉強は苦手だよ。じっと座って本読んでるなんて耐えがたい」
 自分にはぶんぶんと剣を振っているのが似合いだ、と自嘲するように笑うウルフ。さすがにリィにも演技の匂いが見えていた。
「誰が勉強嫌いだよ? 俺の正体知ってたくせによ」
 幼いころ、ミルテシア城の奥深くでウルフは見た、ミルテシアが戴いたはじめての女王のその肖像を。隣には、女王の父であるルーファス王子の小さな肖像がひっそりと掛けられていた。だからウルフは知っていた。リィが誰であるのかを。
「ま、その辺は、ね。歴史は嫌いじゃなかったんだよ。子供には楽しいお話と変わらなかったからね」
 歴史上の偉人も偉大な王たちも、幼い末の王子にはただの物語。いずれ王位など遥か遠すぎて現実味がないと思われていた名ばかりの王子だ。講義と言っても本当にお伽噺と大差なかった。そうウルフは語る。
「いろんなお話、聞くのは好きだったよ。ただ、それだけだってば」
 それを覚えている記憶力のほうを褒めているのだ、とリィは言わなかった。そもそもこの男を褒めるのは業腹だったし、そうせずともウルフは感じている、そんな気がした。
「あぁ……それでか」
 ふと思いだした昔話にリィが首をかしげた。その頃になってようやくサイファが出てくる。茶器を持ったままじっとリィを見つめる眼差しにウルフは苦笑する。とても蜜月の目、ではなかった。
「ねぇ、私のリィ。聞きたいことがあるのだけれど。いい?」
「もちろん。なんだよ、可愛い俺のサイファ?」
「あのね、なんだかものすごく手間取った気がするの。ものすごく邪魔された気がするの。私の気のせいなのかどうか、教えてほしくって」
 そこでサイファはにこりと笑った。リィはじとりとウルフを見やる。彼はそっぽを向いて口笛まで吹いていた。
「こんな風にサイファが脅迫するようになったのは、お前のせいだよな、若造」
「俺のせいって言うか、お師匠様がサイファの前から消えたせいじゃないの?」
「的確なことをぼけっと言うなよ、気が抜けるだろうが」
 リィの罵りにウルフが彼にだけ見えるよう、にやりと笑う。そのやり取りになぜかサイファが目を和ませた。
「リィ?」
「ごめんな、可愛い俺のサイファ。ちょっとこの若造とお喋りしたくってな。お前の耳のないところで」
「ふうん? よくわからないけど、お喋りで済むんだったらいいよ」
「そりゃ済むさ。お前を巡って大喧嘩、なんてしたら可愛いサイファが泣くからな。だろ、若造」
「――俺はそれより先に絶対に俺が殴られると思う」
「殴られておくか、ウルフ」
 にやりと笑ったサイファにウルフが悲鳴じみた声を上げた。自分は悪くない、と精一杯の抗議ぶり。自分と二人きりで話していたときとは完全に別人ではないか、とリィは呆れた。
「それよりリィ。何か気がついたみたいだったけど。なんの話?」
 自分が聞いていい話ならば、と言いおいてサイファはそちらも見ずにウルフに茶器を手渡す。それから乱暴に彼の前、焼き菓子だの果物の甘煮だのを置いてやる。そんなサイファをウルフがちらりと笑った。
「いや、大したことじゃないよ。若造がなんでウルフって名乗ってんのか、気がついただけだ」
 肩をすくめたリィにサイファは驚いていた。特に意味があるとは思っていなかったウルフの名乗り。思えばウルフと言うのは彼の本名ではない。彼自身が選んだ偽名だ。思わずじっとウルフを見ていた。
「お師匠様、さすがだよね。やっぱあんたのお師匠様はすごいや」
 無邪気に笑うウルフをサイファは見つめ続けていた。リィのことが癇に障ったのならば言えばいいとばかりに。それをウルフは笑い飛ばしていた。
「あれだろ、若造?」
「そう。――俺さ、ちっちゃいころ、歴史の講義って言うか、物語聞くのは好きだったんだよって話、いまお師匠様としてんだ。それでお師匠様は気がついたみたい」
「なにを、だ」
「ミルテシアのさ、最初の王様。ちっちゃいころはやっぱりすごい英雄だなって思ってたんだ」
「その初代国王をルプス王って言うんだな」
「現代俗語にするとウルフ、ね? 憧れの英雄から名前借りたなんて、ちょっと恥ずかしいでしょ。だから言わなかっただけ。あんたが気にするようなことじゃないよ、サイファ。隠し事ってわけでもないし」
 だらしない、いい加減な言葉だった。それなのに、サイファはほっとくつろいだ笑みをウルフに向ける。それから含羞みながら疑ったことを詫びるようリィにも彼は微笑んだ。




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