三日というもの、二人きりで過ごした。まるで昔のように。本を読み、隣に座っては語り合う。魔法の手ほどきを受け、成果を見せ合う。その時間に、どんどんとサイファがリィに染まっていく。それは目に見えるほど。それが恐ろしい。ふとした恐怖をリィが感じたその朝。彼は苦笑した。 「なぁ、可愛い俺のサイファ?」 音を立てて額にくちづければ、少しは気恥ずかしさも薄れてきたのだろうサイファがほんのりと含羞む。そして黙って小首をかしげた。 「お客さんだぞ? どうする、追い返すか、うん?」 リィの茶化した言いぶりにサイファは悟ったことだろう。そうして彼が浮かべた苦笑はリィに見せるものとは違っていた。 「呼んだ方がいいと思うけど?」 「いいのか?」 「なにが?」 「だってお前、あいつがここに来るの、嫌がってただろうが」 「それは前のこと。今は違うと思うよ、リィ?」 そのあたりの判断がリィにはわからない。なにをどう考えてサイファがそう思うようになったのか。もっともサイファには甘い自覚のあるリィだ。サイファが呼んでいいと言うならばそれでよかった。 「ぼちぼち来るだろ」 サイファはもう一度首をかしげた。リィがいま、自分の結界に触れたウルフに向けて思念の塊とでも言うようなものを投げたのは、わかっている。それはサイファにとっては視覚情報にも等しいほどはっきりとした呼びかけ。 「でも、あれにわかるかな?」 ウルフは魔術師ではないのだから。それが単なる疑問ではないことリィは気づく。不安、だった。サイファの。 リィの呼びかけに気づいてほしい、けれどウルフは気づけないかもしれない。そのことでリィがウルフに何かを言うかもしれない。サイファの懸念はそこにあるのかもしれなかった。 「あのな、可愛い俺のサイファ。俺はお前に嫌がらせなんかしたことないだろ? お前が嫌がるから、本気で若造を馬鹿にしたりしないぞ?」 「からかうことはあるじゃない」 「それは冗談ってもんだ。若造もその辺はわかってるさ」 「でも――」 「それとな、サイファ。俺も若造もすでにこっちの生きもんだ。若造もただの人間にはできないことができるようになってるぞ、たぶんな」 「それは……そうだとは思う」 リィからサイファが習い覚えた人間の精神への接触。ウルフに教えれば、自分の苦労はなんだったというのか、そんな勢いで彼は修得した。みるみるうちに上達していくウルフに、内心でサイファは非常な歓喜を覚えていたものだったが。 「そう言うことだ。たぶん、あっちじゃな……、俺が生きてて、お前に教えても、若造はお前が触った途端に廃人一直線だ」 「それがわかってたからやらなかったんじゃない!」 「だろ? それができてる。だったらな、俺の呼びかけもあいつには聞こえるさ。聞こえるってほど、明確なもんじゃないな、何せ戦士だ。精神の技に長けちゃいない。だから、感知する、程度が正しいかな。それでも、あいつにはわかる。それは断言できるね」 まるで自分のほうがウルフを誇っているような有様で、リィはついに笑い出す。サイファもそれに気づいたのだろう、なんとも言い難い顔をしてくすりと笑った。 「ほら、お出迎えに行くぞ。可愛い俺のサイファ」 「別にいいのに」 「俺がよくねぇんだよ。まだこの家に入れてやるかどーかは決めてないからな、俺は」 ここは二人の家。そう言いかねないリィにサイファは笑いだす。そしてリィの腕に縋って外へと出て行った。それでもあからさまに警戒をする姿を見せたくないのだろうリィだった。茶菓の用意などをしてのんびりとくつろいで見せる。 「サイファ、淹れてくれよ」 そんなことを言って余裕ぶって見せるリィとサイファは気づいていないはずもない。それをリィ自身、疑っていなかった。以前ならば気づいていませんように、と願ったことだろう。けれどもう。 「リィ?」 熱い茶は、リィの好みの香り。どこで仕入れてくるのか、いまだサイファは教えてもらえていない。それをもう一度問いただそうとしたとき、ぴたりとサイファは止まった。 「よう、若造。やっぱり聞こえたな」 サイファの背後の森から、ウルフが姿を現した。いったいどんな顔をして見せるだろう、思っていたリィのいかなる想像ともウルフは違っていた。 「うん、そろそろ口説き終ったかな、と思って」 「迎えにきたか?」 「別に? サイファが大丈夫かどうか心配だっただけ。なんかあったらそっちから言ってくるだろうと思ってたし」 常ではない手段で。要は魔法で。あっさりとそう言って肩をすくめたウルフは、あまりにも平然としていた。世界の壁を越えるほど愛したサイファが、いま別の場所にいるというのに。訝しむリィの前、サイファがわずかに背を強張らせていた。 「あのね、サイファ。俺、言ったと思うけどさ。あんたはお師匠様がいなきゃだめだ。俺だけでもあんたは幸せだとは思う。でもお師匠様がいたら、もっと楽しいでしょ? 俺はそう言ってあんたを送ってきたと思うけど。忘れたの、サイファ?」 「半エルフに忘れたかとはどう言う意味だ、この馬鹿!」 「だってさ、そんな顔してるから。――お師匠様、ちゃんと口説いたんだよね? まさかまだ、とか言わないでしょ?」 顔なんぞ見えていない、と声を荒らげてもまだ背を向けたままのサイファだった。それにリィは苦笑して、ウルフに座れと手振りで示す。 「お前なぁ。どうしてそう言うこと平然と言うんだよ? そりゃ目一杯口説いたけどな?」 「だってさ、元々あんたたちの間に割り込んだのは俺だし」 「そんなことはない! リィと私は――」 「なんにもなくったって、あんたはお師匠様が好きだったし、お師匠様はあんたが好きだった。あんたがあんまり子供だったから、それだけで終わっちゃっただけでしょ」 断言されてサイファは返す言葉がないらしい。リィとしてもなにを言うべきか困っている。そもそも、ここで痴話喧嘩をされても居心地が悪いだけだ。咳払いをすればウルフが朗らかに笑った。 「可愛いの着てるね、サイファ。似合うよ」 ちょい、と背中から袖のあたりをたどるウルフ。サイファは顔を向けられずただじっとしている。乳脂のような淡い黄色みを帯びた白の長衣、袖口には鮮やかな橙色で小花の刺繍。いずれもウルフが見たためしのない色と意匠。リィは、と見れば澄んだ空のような青に濃紺の刺繍。サイファと同じ意匠でウルフには微笑ましいような思いがする。 「やっとさ、あんたの喪が明けたんだね。サイファ」 突如として、愕然としたサイファが振り返る。まじまじとウルフを見つめ、言葉もない。そんなサイファの意味がわからないのだろうウルフが首をかしげた。 「俺、なんか変なこと言った?」 「どうして……どうして、お前はそれを知っている! 私は……私は……」 「あんたは話したことは一度もないよ、そりゃね。でもさ、サイファ。知ってる? 俺、あんたが好きなんだ」 「言われなくとも知っている!」 ならば怒鳴らなくともいいだろうに。置いて行かれたリィは肩をすくめて茶を一口。その仕種の影で驚愕していた。サイファが着ていたものの意味を正確に悟っていたのはウルフのほう。言われずとも、彼は気づいていた。言われてはじめて、自分は気づいた。敵わないな、と思うのがどこか悔しく、どこか落ち着く。 「だから気がつくって」 「――本当に、お前の馬鹿はどこまで本物なのだかな」 「たいてい本物だよ? 頭が働くのはあんたに関してだけだし」 きょとんとしてウルフは笑う。この男をどうしてくれよう、そんな顔をしたサイファがリィを振り返っては見上げる。その瞬間、ウルフはリィに向けて精悍に笑った。思わず吹き出したリィにサイファは気づかず微笑む。 「まぁ、な。それでもお前は若造がいいんだろ。とりあえず茶でも淹れてやれよ。せっかく来たんだからな」 「待って、リィ。ウルフが、じゃない。ウルフも。ほんと……」 サイファが続けようとした言葉がリィにはわかった。人間の言葉は正確さに欠ける。そう言いかけて黙ったサイファが。ウルフには言わない言葉なのだろう、それは。にやりとしてウルフを見れば気がついているよ、とでも言いたげな顔をしてウルフはにやにやとしていた。 「お前がしないんだったら、お師匠様がしちゃおうかなぁ、若造。茶はどうだ。甘いのが好みか、ミルクは入れる方が好きか? お前の好みなんざ知らねぇぞ」 「あ、うんとね。甘いのは好きだけど、ミルクはいらないかな。あとせっかくだし、なんか食べるもの――」 「私がする!」 憤然と立ち上がり、サイファはウルフの分の茶器を取りに小屋へと入っていく。それを狙ってのリィだった。 「……よかったのかよ?」 「言ったでしょ。サイファが幸せなら俺はそれでいい。サイファ、顔つきまで違うね、すごく幸せそうだった。いまだってそうでしょ」 「そう……か?」 「俺のこと殴ってないじゃん。前だったら蹴りの一つも飛んできてる頃合だよ」 それはそれでどうなのだ、と思わなくもないリィだったが、二人はそうして暮らしてきたのだろうと思えば口をつぐまざるを得ない。ただ苦笑だけが浮かぶ。 「ちゃんと蜜月してたの? サイファは幸せそうみたいだけどさ。お師匠様はどうなのさ」 「どこが月だよ。まだ三日そこそこだろうがよ」 「言葉の綾ってもんでしょうが」 本当に、この男は。リィは呆れて溜息をつく。ウルフが言葉の綾などという言葉を知っていた、と言えばサイファは絶句するに違いない。 「俺だって、まぁな。その。……ってな、どうしてお前にそんなこと言わなきゃならないんだよ!」 「そりゃ恋人の特権?」 にやりとしたウルフを殴ってくれようかと思ったリィだった。幸いサイファの目を憚ってせずに済んだが。 そんなリィに気づいたのだろうウルフが小屋の中まで届けと言わんばかりに高らかと笑う。サイファは聞くだろう、その声を。そして何より安堵するだろう。ウルフに。その愛に。 |