文句を言うサイファの声。とろとろと、それなのに甘い睦言のよう。昔からのサイファのやりようにリィはちらりと微笑んだ。 「リィ、もういい加減にして。そろそろ私は着たいんだけど」 素肌をさらしたままの神人の子。自分でも異様だと思ったのだろうサイファがやっと頬を赤らめる。隠すものなどないのだから、ということなのだろう、そっぽを向いた。 「こう言うとき、お前が人間に影響されてるってのが、よくわかるよな。可愛いサイファ?」 人間同士ならばさほど羞恥に襲われるようなものでもないだろう、それがたとえ恋人同士の間であったとしても。多少の気恥ずかしさを感じる程度のもの。けれど神人の子は。 「結構平気だよな、お前」 「……それは、相手があなただから」 「なるほどね。そうか、若造にはやっぱり見られると恥ずかしいわけか、なるほどなぁ」 「リィ!」 声を荒らげてもサイファはあらぬ方を見やったまま。ウルフの名を出されて突然に彼の種族に相応しい羞恥が蘇ったかのよう。ちくりとした嫉妬も、けれど甘美な痛み。 「そういうこと言うと、嫌いになるよ」 「なれるもんならやってみな」 言い放つリィにサイファは黙った。何より雄弁なその態度。リィは思わず浮かんでしまった笑みが隠せない。 「本当に……もう。返して、私の」 後ろ手に手を突き出すサイファのその手をリィは取る。そのまま抱き寄せれば、嫌がるでもなく従うサイファだった。 「怒ってるんじゃないのか、可愛い俺のサイファ?」 「子供だったら怒ったかもね、私のリィ。でも今は、遊んでいるだけ、そうでしょう?」 天上の青の目が笑う。見上げてくるそれにいっそ飲まれてしまいたいリィは首を振って正気を保つ。サイファが小さく苦笑した。 「そろそろ本格的に怒られそうだしなぁ。遊びも過ぎると嫌がらせだしな?」 「わかってるんだったら――」 「はいはい」 ひょい、とリィが手を閃かせた。あっとサイファが息を飲む。そこに現れたものにではない。リィの詠唱を聞き取れなかった自分に。 「いま、何したの。聞き取れなかった」 「内緒。いまはな。今度教えてやるよ」 「約束、だからね。リィ?」 もちろんだ、と微笑んでリィは彼を抱きなおす。それにサイファは驚いた。いつの間に膝の上に抱き上げられていたのだろう。 「邪魔じゃないの。私、もう子供と言うほど小さくないんだけれど」 「前からそんなに変わってないだろ。ちょっと背が伸びた、その程度だ」 だから邪魔ではない。むしろサイファならばどれほど邪魔でもそのように思うものか。リィの心に浮かんだ思いにサイファが笑った。仕方のない人だ、と言わんばかりのその笑みにリィこそ苦笑する。 「それより、返してよ」 いまだリィの手の中にあるサイファの長衣。濃紺に、一刷けの紅を加えたかのようなこくのある紫をしていた。それをちょい、とリィは振って見せた。 「もう、要らないだろ、これ」 どう言う意味なの。問うようなサイファの眼差しにリィは笑う。それから片手で胸の中に抱きしめる。自分の鼓動が伝わるように。 「……そうだね、もう、要らないね。私のリィ」 喪の色。深く濃い、リィの死の色。裸のままのリィを抱きしめ、サイファはその胸に頬をすり寄せた。還ってきた、私のリィ。その心の響きがリィにまで届くほどに強い歓喜。 「とはいえ、着るものはいるよな、可愛い俺のサイファ? お師匠様がいいものをやろう」 嬉々としてリィが言うとき、いつも楽しいことが待っていた。思い出してサイファは顔を上げる。彼の手の中にある自分の長衣。禍々しい、悲しみの色。 「私ね、あなたが死んでしまってから、よけいに人間が嫌いになった」 「それ以前から嫌いだろうが」 「だからよけいに。もう、嫌だったの。死んでしまう人間が、とても嫌いだったの。二度と、あんな思いはしたくなくて」 手を伸ばし、サイファは自分の長衣に触れていた。明けることのない喪をまとい彼は何を思っていたのだろう。リィにはわからない。わかってはいけないとも思う。 「ごめんな、可愛いサイファ。どれほど泣いたんだろうな、お前は」 「泣かなかったよ、私」 「嘘つけ」 黙ってサイファはリィの腕の中、首を振る。長い髪がリィの胸元でさわさわと揺らめいた。 「本当。あなたを送ったそのときだけ。――あとは、泣けなかった。もう、涙なんか出なかったもの」 そのとき枯れてしまった涙があふれたかのよう、サイファは口をつぐんでリィの胸へと顔を埋めた。リィは黙ってサイファの髪を撫でている。申し訳なさより、嬉しいと思う自分をかすかに嫌悪しつつ。それすらサイファが許してくれることを知りつつ。 「だったらな、もうそんな哀しいものはなくしちまおうな、可愛い俺のサイファ?」 戯れめいたリィの声。いまだ睫毛に残る涙を払い、サイファは顔を上げ、そしてリィの手を見た。自分の長衣を。彼がそう示していたから。 「あ――」 何をしたのか、またもわからなかった。アルハイド大陸であるいは随一、そう自負していた誇りが木端微塵に砕け散る。リィの手の中、長衣は色を変えていた。 「俺は明るい色のほうが、似合うと思うよ。可愛いサイファ」 ほんのりと笑ったリィが腕の中のサイファを見やる。刻々と色を変える長衣にサイファは釘づけだった。 「たとえばこんな色がいい」 深い紫は色を薄れさせ、のみならず違う色彩へと。華やかな朱鷺色に、あるいはリィの目の色にも似た濃い青に。けれど。 「覚えてるか、可愛い俺のサイファ。俺たちがはじめて会ったとき、お前はこんな色のローブを着てた」 淡い芽吹きの緑色。それをもっと嫋やかにしたならばきっとこんな色になる。あるいはそれはこの幻魔界の芽吹きに似て非なる色。 「違うよ、リィ。私はもう少し濃い色を着ていたもの」 「さすが覚えてるな。でもな、それだとちょっと子供っぽいだろう?」 「子供だったんだもの、あのときの私は」 肩をすくめて、けれどきらきらと輝くサイファの目。リィを見上げて微笑んでいた。その額にくちづければくすぐったそうに笑う声。 「あなたこそ、よく覚えていたね、リィ。私は忘れないけれど、人間は忘れてしまうのにね」 「お前のことなら、何一つ忘れていないよ。それに――」 「なに?」 「あの瞬間、はじめてお前に出逢ったあの瞬間から俺はお前のものだったからな」 からかうでもなく言うリィにサイファは動じなかった。否、動けもせずそのまま赤面した。ついで無言でうつむく。途轍もない羞恥に襲われた神人の子の髪をリィは笑って撫でていた。 「ま、だから忘れていないってわけでな? 可愛い俺のサイファ」 「冗談めかして言わないで、すごく恥ずかしいの!」 「はいはい、だったらお詫びにもう一つ」 再びリィの手が閃く。そして淡い色の長衣に記されていくもの。サイファは今度は目を丸くする。 「こんな色の帯をしてたよな?」 いまは子供ではないのだから、そのような幼い装飾よりこちらのほうがいいだろうとばかりにリィは長衣の袖に裾にと象徴化した草花の刷り模様を。あの頃サイファが身につけていたあやめ色で。 「リィ……あなた」 「なんだよ?」 「器用だな、と思ったの。すごいね、リィ」 「時間だけはたっぷりあったからな」 手遊びをする余地ならばいくらでもあった、というリィにサイファは顔を曇らせる。寂しい思いをさせた、そう後悔しているのであろうことが如実にわかってしまうその顔。リィは苦笑しつつ彼の頭に手を乗せる、子供にするように。 「もう、終わったことだ。もう一度はじめられるんだろう、可愛いサイファ?」 「でも、あなたが寂しかったのまではなくなりはしない」 「俺が死んだ事実もな」 たがいに傷はある。どれほど願っても祈っても時間は戻らない。ならばもう一度ここからはじめればいい。こうして、もう一度出会えたのだから。リィの言葉に仄かにサイファは微笑んだ。 「リィ、あなたのローブは?」 「ん、ここにあるが」 「貸して」 そう言いつつサイファはリィに長衣を持たせたままだった。その横柄なやりようが懐かしい。リィが思った途端、精神にわずかな引っ掛かりを感じた。どうやらサイファにたしなめられたらしい。 「お、サイファ」 リィの手の中で長衣が変化する。色こそは象牙色のまま。けれどリィがしたよう刷り模様を記していった。昔のサイファが着ていた、芽吹きの緑で。 「よくできたな、さすが俺のサイファ」 「いま聞いてたからね」 誇らしげに顎をそらすサイファにリィは微笑みたくなってしまう。サイファが当代随一の魔術師であったのは事実だ、とリィは思う。けれどサイファは時折このようにしていまでも弟子に戻りたい、そんな顔をする。自分が死ぬ前からそうだった、そんなことをリィはふと思いだす。 「それにしてもな、可愛い俺のサイファ。小花模様はちょっと可愛すぎやしないか、着るのは俺だぞ?」 いかにも嘆かわしげに言うリィにサイファは笑った。浮かんでしまった思い出にサイファが沈むより先、茶化したリィに感謝するように。 「覚えてないの、リィ。この花――」 「あぁ、あれか。お前が花冠に編んだやつだよな。あれもなぁ、俺には可愛すぎたからな。お前のほうがずっと似合うよ、可愛い俺のサイファ」 「ほんと……あなたって」 くすくすとサイファが笑った。こうして笑い合ううちに、二人の懐かしい思い出に変わることもあるかもしれない、いまはまだ哀しい記憶に繋がらざるを得ない過去ではあったとしても。 「さぁ、着て見せろよ。可愛い俺のサイファ」 色を変え、彩を施しあった長衣を互いの手で着せ付けて行く。気恥ずかしいような、嬉しいようなサイファの心持ちが伝わってきて、リィこそくすぐったくなるほど。それほどサイファは幸福だった。 |