魔術師である、と言うのは時として非常に便利だ。煮込み料理を作るにも火の前で番をしていなくともよい。他愛ないことではあるけれど、重要なことでもある。 「リィ?」 外で本を持ったサイファが待っているとなればなおのこと。リィは苦笑してすぐに行く、と言いおく。が、用もないのにまだ小屋の中にいた。 「あの野郎……」 ここにはいないウルフを罵る。何を考えているのかさっぱりだった。否、何かさせたいことがあるのは察した。けれど何を、となればまるきり見当もつかない。 「違うか」 まるきり、でもない。サイファに関してだと言うことだけは、自明。けれどそこから先が霧の中とあってはリィはむしゃくしゃとしてならない。 若造と呼び、時には小僧と罵る。サイファが選んだあの男。直系の子孫ではあるけれど親近感などは抱くはずもない。むしろ互いの間にあるのは淡い嫌悪だろう、とリィは思う。 サイファがそこにいるから。サイファの前で、彼の目の届くところで醜い争いはしたくない。互いがそう思っているからこそ、双方が目につかないところに留まると言う暗黙の了解だったはずだ。サイファがリィの小屋に他人が入るのを好まない、などというのは言い訳でしかない、とリィ自身は思っている。 「ったく」 舌打ちにも苦い音が混じっている気がして、それほど耳はよくないと内心に自嘲する。窓の外、待ちくたびれたのだろうサイファが一人で本の頁を繰る。 なにをさせたいのだろう、ウルフは。サイファに対して何をしろ、と言っているのだろう。間違いなく、サイファが何かに戸惑っているからこそ、ウルフはここに寄越した。 「そもそも、おかしいんだよな」 ウルフがここにサイファを送ってきたことなどいまだかつてない。近くまでであったとしても、ない。リィは彼の顔こそ見ていないものの、本当にすぐそこまで来ていたのを知っている。この近隣は、リィの結界内だ。その程度は容易い。 「――だから?」 ウルフは自分の姿をあえて見せたのだろう、とリィは推測していた。あの男はサイファが見ていないところでならば異常なほどに鋭い。サイファが話したことがあるかどうかはリィもわからない。けれどここがリィの結界だと知っていれば、そこに自分が入り込む意味を戦士でありながら察している、そんな気がした。 だから、よけいにわからなくなる。ウルフが何を求めているのかが。あの若造に理解できて自分にわからないことがあるというのは大変に腹立たしい。ましてサイファに関することなのだから。何より誰より求め、求められていたサイファ。遥か昔は。サイファが幼かった頃は。自分が、死ぬまでは。 「サイファ……」 呟いてしまってはっと口をつぐんだ。そこにサイファがいる。神人の子の敏い耳を思えば聞こえてしまうかもしれない。そっと窺ったサイファは幸いにも本に熱中していた。ゆっくりと体から力を抜き、リィは息をつく。 まるで昔に戻った気分だった。アルハイドにあった小屋に住んでいた当時、何度こうして危うい橋を渡ったことだろう。塔に移ってからもそうだった。無邪気な神人の子が示す挙措の一つ一つに心臓が飛び出る思いをしていた。それが楽しく、苦かった思い出。 「リィ、いつまでかかるの。私、飽きてしまうよ?」 冗談口にリィは正気づく。またしばらく時間が経っていた。思い出に耽るのも大概にした方がいいらしい。 「いま行くよ、可愛いサイファ」 言いながら、本当にリィは出て行った。そうでもしないとまた立ち尽くしてしまいそうな、そんな気がする。 「どうしたの、リィ。なんか変な顔してる」 「そうか?」 「うん――」 隣に座ったリィの頬に伸びてくるサイファの手。繊細で傷ついたことなど一度もないような手だ、とリィは思う。そうではないのを知ってはいたけれど。 「ねぇ、リィ」 「ちょっとな、思い出してただけだ。なんか懐かしくってな? 昔、こうやってお前と一緒に暮らしてたよなぁってな」 「そうだね。私も、懐かしいよ。リィ」 ふ、とほころぶ口許。間違いなく神人の子であるサイファと人の子であるリィとは「懐かしい」という感覚そのものが違う。それとわかっていてさえ、共有できる思い出の優しさ。 「本当に……楽しかった。ずっと、戻りたかった」 ぽつりとうつむいて言うサイファだから、苦いものでも抱いているのだろうと思いきや、わずかに見えた耳朶が赤らんでいてリィは驚く。これはもしかして照れたのか、と。ある意味では大人になったサイファだとも思う。 「戻りたかった? 若造がいるのにか?」 あえてからかうように言うのは内心の苦さを悟られないため。笑みまで浮かべるリィだから、サイファは誤魔化されるだろう。 「違うの。それよりずっと前。――もう、いいよ」 「サイファ、話せよ。いつのことだ、うん?」 「言うとあなた、絶対に怒るもの」 口をつぐんだサイファが本に戻ろうとするのをリィは無言で止めた。本の上に軽く手を置き、サイファの顔を覗き込む。まるで昔のように。 「言わないと怒るぞー?」 お師匠様が怒る、とは言わなかった。それを望んでいないサイファだったから。それでもその口調に察したのだろう彼が少なからず嫌な顔をした。 「言えって、可愛いサイファ」 「怒らない? というより、あなた、言ったよね? 私たち、ずっと繋がっていたってあなた、言ったじゃない」 「言ったけどな。お前がちゃんと覚えてるなら俺はこうも言ったはずだ」 「――蜘蛛の糸よりまだ細い。でも繋がってた」 「そのとおり」 記憶力の確かさを誇ったことなどないサイファだった。それでもリィが褒めれば嬉しそうな顔をする。子供のころから変わっていない彼の仕種だった。 「だからな、お前がなに考えてなにしてたかまでは、俺にもわからん。せいぜい元気でやってるかどうか――と言うより生きてるかどうか、程度だな。ほとんど」 それでもよかった。万が一にもサイファが人間に害されていないと知ることができたから。無論、リィが自覚的にしたことではなかった。いまでも原理がわからない。サイファに問われるかと実はひやひやしていた。が、彼は黙って口を引き締める。 「サイファ?」 ゆっくりと長い黒髪に手を滑らせたリィにサイファは目を閉じて身を委ねた。こんなとき、昔も今もリィはたまらない気持になる。ぽってりと重い髪の手触りにだけ、集中していた。 「……怒らないで聞いてよ。――あなたがいなくなって、塔が崩れるまで私、座ってた」 呆然と、何をしていいかもわからなくて、ただ座っていた日々。人間は亡骸を葬るものだとは聞いていたから、見晴らしのいい場所に墓を作ってリィを埋めた。そのまま自分も共に埋まりたいと思いながら。 「言ってたな」 こちらに来てすぐ、サイファは確かにそう言っていた。もしもあのころ導いてくれていたならば、こんなことにはならなかったと甘く苦く詰りながら。 「その頃の話……。私、死のうとしたことがある」 「おい!」 「だから怒らないで聞いてって言ってるじゃない。死ねなかったもの。なにをしても駄目だった。私たちの種族は自殺もできないんだって、ただ生きて行くしかないんだって、わかっただけ」 「サイファ……」 リィは言葉を見つけられなかった。本当に、当時サイファと共にあったならば。そればかりを思う。サイファをそんな酷い目を合わせないで済んだというのに。 「でもね。やっぱり生きていてよかったと思うの」 「若造に会ったからか?」 ぴしり、と冗談のようサイファがリィを叩く。落胆も、苦痛も浮かべていない目にリィは飲まれていた。 「違うでしょ。こうやって、いま、ここで。あなたに会えた。もう一度、あなたとすごせる。それでいいの」 つらいなどというものではなかったのだろう、サイファの記憶は薄れないのだから。リィには推測することしかできない。それでも。サイファは何千回も何万回も、リィの死を眼前に見続けてきた。神人の子が自ら死を選ぼうとするまでに。それでもサイファは。 「ごめんな、サイファ」 「いいって言ってるじゃない。あなたがいなくなった哀しみはね、なくなりはしないよ、リィ。それは本当。でも今ここに一緒にいる。それも本当。そうでしょう?」 ほんのりと笑うサイファに、それで済ませてはいけないのだとは思う。けれど取り返しのつかないことでもある。 「もう二度とどこにもいかない。そう約束してくれるなら、それでいいの」 「行かないよ、どこにも。可愛い俺のサイファ」 「――うん」 微笑み、けれどうつむいたサイファ。さてはまた照れたか、と思ったリィが見たのは不可解な表情の彼だった。なにがどうとは言い難い。けれどリィの知る「サイファ」ではない気がした。子供ではない彼。すでに成長を遂げた神人の子。 「あの若造のお蔭って言うべきかなぁ。ほんと大人になったなぁ、お前」 苦いものだから笑い飛ばす。サイファと暮らすうちに学んだ態度。笑って投げて、すべてをないことに。 「あれと付き合ってると、嫌でも大人になるよ私だって。ほんと……手がかかる」 長い溜息。けれどリィはその意味で言ったのではなかった。小さく苦笑して、はたと気づいた。サイファはわかっていてはぐらかしたのだと。気づいてしまった。 リィはどこでもない場所へと視線を投げた。その瞬間、サイファがリィを見上げる。そして露骨なまでにほっとした呼吸の音。リィは危ういところで吐息を耐える。 「まぁ、手がかかる子ほど可愛いって言うしな」 「あのね、リィ。それは人間が子供に言うことでしょ。あれは私の子供じゃないよ」 「物の喩えの喩えってもんだな」 「なにそれ」 ぷ、と笑ったサイファにリィはようやく息をつく。変わっていて、変わらないサイファ。思いを告げていたならばあったはずの未来かもしれない彼の姿。 ウルフの目論見など、もうどうでもよくなった。彼が何を望んでいるのかなど知るものか。最愛のサイファから手を離しこの自分の元に預けたウルフが悪い。 ――その瞬間、リィは決めた。 |