サイファがリィの小屋を訪れたとき、普段とは違う様子にリィは首をかしげていた。もちろん、内心で。表面上はいつもと同じゆったりとした笑顔。両手を開いて迎えれば、いつもならば飛び込んでくるはずのサイファ。 「どうした、可愛い俺のサイファ?」 一瞬とはいえ彼は立ち止まっていた。まるで腕の中に包まれるのを拒むように、ためらうように。そして背後を何気なく、振り返る。とても何気なくには見えなかったけれど。 「……ううん」 そう言って顔を戻しては首を振る。尋ねてほしいことがあるのかないのか、リィにもわからない。珍しいサイファの表情だった。 「なんだ、可愛いサイファ。お師匠様に秘密か、うん?」 からかうよう言って強引に腕に抱いた。それまでもサイファは拒まない。けれどほんの少し、強張りがある。普段ならばぴったりと寄り添う体。いまはかすかな隙間があった。 「……ウルフが」 「なんだ、喧嘩でもしたか? だったら大歓迎だ。言ったよな?」 「言ったけど。――違うの」 この異界に来てリィはようやくサイファに心の内を明かした。ウルフと暮らすようになったサイファは気づいていた、と言った。諦めなくてもいいとも言った。ウルフまで、それを認める。リィとしてはやるせない思いでもある。自分だけが、サイファを理解できる。自分のほうがずっと優れている、ウルフなどより。そう思いたい気持ちがないとは言わない。それでもあの青年は。内心での思いにリィはそっと首を振り、けれどサイファは気づかなかった。 「ウルフが、あなたのところに行けって」 「はい?」 「だから――」 軽く噛んでいたのだろう。血の色を透かして赤い唇のままサイファが見上げてきた。それとなく目をそらせば傷ついたようなサイファの顔。戯れに額にくちづければ、身をすくめる彼。 「……まだ、その辺にいるのかな、と思って」 珍しく何の脈絡もないサイファの言葉。それでもさすがリィには通じた。それだけの時間を共にしてきた。 「なんだ、あの若造。ここまで来たんだったら連れてくりゃいいだろうに」 「……別に。送ってきただけだって言ってたから」 「なんだ、それは?」 送り迎えが必要とはとても思えない。むしろ必要ならばウルフであって、サイファではない。リィの暮らす小屋にサイファは決して他人を入れようとしない。自分とリィだけの隠れ家、とでも思っているのだろう、昔アルハイドの大地でそうあったように。 「あなたのところに行けって言ったのは、ウルフ。あなたとゆっくりしておいでって」 「ゆっくり?」 「そう。――もういいでしょ、リィ。離して、お茶でも淹れるから。あなた、飲む?」 つい、と離れて行くサイファ。どことなく何かが違う。決定的に違うのに、リィにはそれがわからない。あの若造ならば理解が及ぶのか、思った途端に首を振る。 「リィ?」 「なんでもないよ、可愛い俺のサイファ。ほんと目敏いよなぁ」 「こんなの私の種族の当たり前。別にどうこう言うようなことじゃないでしょ」 ようやく少し、いつもの調子に戻ってきたらしい。それでもリィには違和感があったし、サイファもまだ緊張している。そこまで思ってようやくわかった。サイファは緊張しているのか、と。理由までもはわからなかったけれど。 「最近は何していたの?」 二人共通の好み。天気の良い日には外で茶を飲む。菓子は昔と同じリィの手製。その菓子に目を留め、味わい、サイファは淡い戸惑いを目に浮かべていた。 「どうした、サイファ。ちょっと味が違ったか?」 「なんで――」 「わかるのかは当然。お師匠様の目を舐めるんじゃありません」 ふふん、と鼻で笑ってリィは自慢げ。サイファの口許がほころぶ。それから降参だ、とばかりほんのりと笑った。 「味が違うのは当たり前じゃない。ここは違う世界なんだもの。あの頃とは、違うんだもの」 その遠い響き。懐かしむとは違う、後悔のような声にリィは今度こそはっきりと首をかしげた。 「サイファ?」 リィの真摯な声にサイファのほうが苦笑する。なんでもない、と首を振り、けれどそのときにはリィに手を包まれていた。 「あのな、可愛いサイファ。俺はものすごく駄目な男かもしれない。自覚がないわけでもない。それでもお前のお師匠様だぞ? 弟子の相談くらいには乗ってやれると思うんだがな?」 言葉に、サイファは笑わなかった。じっとリィを見つめ、そらし、そして再び覗き込む。軽く噛んだ唇。ゆっくりと茶器を置き、包まれた自らの手の上、リィの手にもう一方を重ねた。驚くリィにかまいもせず、サイファはただひたすらにリィを見つめる。 「あのね、リィ。一つ聞きたいことがあるの」 「いくつでも。俺の耳はお前に開かれてるぞ? 昔も言ったよなぁ、お師匠様は」 「だからね、リィ。あなたのそれ」 きゅっと唇を噛み、サイファはリィを見上げた。それだけでは足らないとばかり片手でリィの頬を包む。驚いて身を引こうとしたリィを許さない、と天上の青が射抜いた。 「あなた、いつまでお師匠様をするつもりなの。ずっとそうしてるの? あなたは私のなに?」 「なにって、そりゃ……なぁ?」 「そりゃ、なんなの、リィ」 口真似をして、いつもならば冗談口。サイファの目は常にない真剣さでリィを見つめていた。リィは黙って首を振る。 「それこそな、サイファ。お前には大事な若造がいるんだろう?」 「だから?」 「あのな、サイファ。だから、じゃないだろうが! こんな話してるって知ったらどんだけ若造が――」 「ウルフなら知ってる。と言うかね、リィ。言ったじゃない。あなたのところに行けって送ってきたのはウルフ。私、言ったよ?」 ほんの少し和んだサイファの眼差し。リィの惑乱が彼を戸惑いから救ったのかもしれなかった。小さくほころんだサイファの唇。言われたい言葉はただ一つか、と思えばリィは目を閉じたくなってくる。 「……愛してるよ、サイファ」 サイファの目を見ては言えなかった。それなのにサイファは強引に自分のほうへとリィを向かせる。思わず苦笑を浮かべれば、険のある目。 「ほんとなぁ、昔のお前はいい子だったのにな」 「こんな風になったのは誰のせいなの」 「はいはい、俺のせい俺のせい」 投げやりなリィの言葉にサイファはそっと笑った。それから噛みしめるよう、わずかにうつむく。おかしい、と気づいたのはリィならでは。 「どうした、可愛いサイファ?」 今度頬に手を当て、無理矢理に自分のほうへと顔を向けさせたのは、リィ。唇を引き締めたままサイファはじっとリィを見る。 「あのな、サイファ。お師匠様、お前がとっても大好きだけどな、それはそれとしてだ。弟子の相談には乗るぞ、これ、さっき言ったよな?」 神人の子の彼に忘れたのか、と言えば笑うだろう。だからこそのリィの言葉。いつものサイファならばたぶん、笑った。いまは。 「……そのお師匠様って言うの、ちょっと嫌だなって思ったの。それだけ」 ぽつりと、リィの手を振りほどいてはうつむいたサイファの声。彼は何を見るのだろう。おそらく何も見ていない。リィこそ、何もわからなかった。 「あなた、私を好きって言ったじゃない。それなのに、何を習ってるわけじゃなくっても、お師匠様なの?」 「お前ねぇ」 「我が儘言ってるのは、わかってるけど。でも――」 嫌なものは嫌だ。そう言うようになったサイファだった。自分が知っていた小さなサイファではないのだな、とリィは思う。ウルフの影響か、思ったけれどただ大人になっただけ、と理性は告げる。それでもそこにウルフの影がある。現に。 「それと。さっきの、返事を繰り返すのって、いや」 「あぁ、馬鹿にされてるって?」 「違うの」 きゅっと唇を噛んだサイファだから、リィは彼がこれから言うであろうことがもう、わかってしまう。気づかれないようそっと、深い呼吸をする。まるでサイファだ、とリィは思った。神人の子らが動揺したとき、あるいは傷を負ったとき、彼らはそうして自らを癒してしまう。 「――ウルフと、似てるから。逆かな。ウルフが、あなたに似てるのかな。どっちだろう」 「そりゃ、若造が俺に似てるって言うべき?」 「たぶんね」 肩をすくめたサイファだったけれど、リィには感じるものがあった。いまここで、二人で話している、二人きりでいる今この時に、ウルフの影は見たくない、そうサイファは言う。ウルフを選んだサイファが言う。 「困った子だよ、お前は」 他に、なにをどう言えただろう。ほんのりと笑って答えないサイファにリィは惑乱しそうになる。二人で暮らしていたあの頃、よく感じた動揺だった。だから、リィは慣れている。笑い飛ばしてしまえる。 「まぁ、茶化したのはこっちだからな、可愛いサイファ、悪かったのはお師匠様だよな?」 「リィ?」 思わせぶりなゆっくりとした口調。忘れることはできなくとも、話題を流してしまえれば、と思ったリィの目論見はあっさり外れる。どうやらサイファは断念する気はないらしい。 「あー、まぁ、な。うん。悪かったのは、俺、だよな?」 莞爾と微笑んだサイファが目の前にいた。いままでだとてサイファとはそのように話していた。決して厳しい師弟の間柄、ではなかったのだから。それでも。改めて師匠ぶるな、と言われてしまってはリィとしてはなす術がないというもの。 「うん。……そのほうがいい。そのほうがずっと好き」 わかっていてやっているのではないか、とリィは疑いたくなってくる。が、彼は神人の子。いかに大人になったとしても、彼は神人の子。人間のような駆け引きはしないだろう、たぶん。またも動揺する羽目になったリィは咳払いを一つ。 「若造、迎えに来るんだろ? あいつも晩飯くらい食わせてやったらどうだ?」 そして二人は連れ立って帰るのだろう。自分たちが暮らす場所へ。 「来ないよ? いつもそうじゃない。私があなたのところに泊まっていくときは、ウルフは一人で遊んでるもの」 さらりと言われてさすがにリィは困った。天を仰げば気づかれてしまう。微動だにできず、けれどリィは笑ってみせる。無理にも。 「だったらお前の好きなもんばっかり作るとしようかな。楽しみにしてろよ、可愛いサイファ」 喜びの声を上げる神人の子に、リィはどうしたものか戸惑う。寄越したウルフに文句を言いたいほどに。 |