その日ウルフは決心をした――。 異界の小屋で暮らすのにももうずいぶん慣れた、とウルフは思う。油断ではなく、本当に慣れた、と。当初はずいぶんと心配していたサイファだったけれど、そんなウルフに彼も安堵したらしい。無論、ウルフには気づかれないように、だったけれど。リィ・ウォーロック曰く「サイファがいないところでだけ賢い」ウルフはそれに気づいている。そして知らぬふりをし続けてきた。それをサイファが好んでいると知っていたから。 だからたぶん、そういう時期だったのだろう、と後になってウルフは思った。慣れが生んだ油断、でだけはなかっただろうとサイファのためにウルフは思う。 「できたぞ」 ぶっきらぼうな言いようはアルハイドの大地にあったころから変わらない。それはサイファが照れているから。他愛ない日々の家事をする時、彼は決まってこんな顔をする。 「やった! 腹減ってたんだ」 「まだ育ち盛りだなどと言う戯言は聞かんからな」 「言ってないじゃん、まだ」 「お前の場合、そのまだ、というところが非常に危ない」 そっけなく言ってサイファは食卓の上に皿を並べて行く。いつになく品数が多いような気がしてウルフは首をかしげた。 「あぁ……」 それに目を留めたサイファが小さく苦笑する。それからそっと首を振った。無意識だろう仕種にウルフは気づかなかったふりをした。 「昔、作ったものをな……たまには作ってみたくて」 ここはアルハイドの地ではないからそれと似たものではあるが、と言いおいてサイファは微笑む。ウルフは表面上は誤魔化された顔をして無邪気に喜ぶ。 「へぇ、あんたの昔っていつなんだろうね。神話級の過去だよね」 へらりと笑って卓につく。豪勢なご飯が楽しみでしかたない、そんな顔をしたまま。 「お前は私をなんだと思っている? そんな昔のはずがあるか、馬鹿!」 声を荒らげているくせにほっとしたサイファの気配。ウルフは内心でだけ仄かな苦みを感じた。サイファが言わなかったこと、隠しておきたかったこと。気づいてしまった。 昔作ったことがある食事、なのは間違いないだろう。サイファは嘘が下手だ、ウルフにとってわかりにくいものではない。 だからたぶん、とウルフは想像する。これはリィが作った食事。そして彼らの懐かしい幸福な過去の再現。そしてサイファが作ったのは、リィが亡くなった後のこと。独り彼の塔にあって、孤独と言うことに気づきもせずそれに耐えていたサイファの、その思い出。そこまでをウルフは正確に察知していた。 「だってさ、あんた。神人がいたころ知ってるんでしょ? 俺、人間だし。それって充分神話級だよ?」 「元・人間が偉そうなことを言うな。それで。食うのか食わないのか」 「食べる、食べますって! すっごい美味しそうだもん!」 目をきらきらとさせて食事にかかるウルフにサイファは気づかなかった。ウルフは嘘がとても上手だった。そしてサイファはそれを知ってはいたけれど、上手な嘘を見抜けるほど、自分は嘘が巧くはなかった。食事を前にそっと手を握ってしまう。 正しくウルフは見抜いていた。昔、まだ塔に暮らす前。小さな小さな倒壊寸前のような小屋で二人きりで暮らしたころ。あれはなんだったのだろうか、とサイファはいまでもわからない。 リィは臨時収入があった、と言って様々な食材を買い込んできたことがあった。それがどのような臨時、であったのかサイファは聞かされなかったし、聞いてもはぐらかされただろう。それでもリィが腕を振るった料理はこの上なく美味だった。 「こんなことしなくっても、あなたのごはんは美味しいよ?」 そう呟いた自分の声まで覚えている。半エルフである、と言うのはこんな時に不都合だ、と思ってしまう。こうして、すぐそこに、手の届くところにウルフがいるというのに。 「ね、サイファ。これってさ、どうやって作んの?」 まるきり子供の顔をしたウルフが笑っていた。その笑みに心の中が温かくなる。同時に、苦しくなる。別の場所が。ウルフではない場所が。 「説明してわかるのか?」 サイファのそっけない言葉。これは本格的にだめかもしれない、ウルフは内心で首を振った。サイファ本人は平然としているつもりだろう、けれどサイファだった。 「そりゃさー、わかんないと思うけど」 「けど?」 「すいません、わかんないです」 「ならば説明する無駄は省かせてもらおうか」 ふん、と鼻を鳴らしているのに、サイファの目許には憂愁がある。とても綺麗だったけれど、それを眺めて愛でたいと思うほどウルフは歪んでいなかった。 「ほんとさ、サイファのご飯っていつ食べてもおいしいよな。俺こっち来てから太ったかも」 「それほど食わせているはずがあるか!」 「あると思う、けっこう真剣に。だからさ、サイファ。俺、ちょっと剣の稽古するわ」 「どうしてそう言う話になる?」 訝しそうなサイファにウルフはにこりと笑う。運動だ、と言って。普段のサイファならば食後すぐに動くのは体に負担がかかるのではないか、と文句を言う。 このあたりがサイファの優しいところだ、とウルフは思っている。異界に来てウルフは時の定めから外れた。それでも人間であったころのように懸念してしまうサイファ。もしもラクルーサの兄弟が聞けば腹を抱えて笑うことだろう。あまりにも彼らしいと言って。けれどいまは。 「そうか」 どこを見るでもなくうなずいたサイファがいた。ウルフを見ていて、見ていないサイファだった。気づかなかった顔をしてウルフは剣を取り外へと出て行く。本当に食後すぐだ、それほど真剣に稽古をするつもりはない。ゆっくりと型をさらった。 ――サイファ、気づいてないよね。自分がどんな顔してるか、わかってないよね。 声に出してしまえば、彼に聞こえてしまうから。半エルフの耳の鋭さにウルフは苦笑して内心に呟く。小屋の中、サイファの気配はぴくりとも動いていなかったけれど。 ――あっちにいたころ、すごく幸せそうな顔してても、でもどっかに穴が開いてたよな、あんた。 その穴の名をリィ・ウォーロック、と言う。サイファはまるで気づかれていないと思っていたようだったけれど、ウルフは知っていた。 そしていま、同じ顔をしているサイファ。すぐそこに、気軽に遊びに行くことができる距離にリィはいる。実際、何度となくリィの元を訪れているサイファ。一人で。ウルフを伴いはせず。いつも一人で。 ウルフに限らず、誰であろうともその場にはいてほしくはない、と言ったサイファだった。リィと二人きり、どんな話をしているのだろうとウルフも思わなくはない。嫉妬をしないはずもない。けれど。 ――あんたがつらそうな顔してるのを見る方が嫌だって、わかってる、サイファ? わかっていないだろうな、と思う。わかっていないからこそ、一人でなんとかしようと耐えているサイファだとすでにウルフにはわかっているのだから。 「ほんと、変なとこで頑固なんだから」 思わず呟いてしまって背後をさりげなく振り返る。サイファは気づいた様子もなくまだぼんやりとしていた。ただじっと自分の手を見ている姿が窓越しに窺える。 ――お師匠様に握られた手、だよな、あれ、きっと。ううん、間違いなくそうだよなぁ。 ここで怒らない自分は馬鹿なのか、とちらりと思ったウルフだった。けれどウルフだった、サイファが誰よりも大切なウルフだった。ほんのりと苦笑をする。ただ、それだけ。 サイファの眼差しの先、リィから授けられた指輪があるのだろうとウルフは思う。授けた、授かった、と彼らは言う。けれど贈った、の間違いだとウルフにはわかっている。卒業の証がどうのは紛れもない言い訳だ。 ――その辺、さすが年の功だよなぁ、お師匠様って上手だ。 なにか贈り物をしたかったリィ。ずっと身につけておいて欲しかったリィ。わかってしまうウルフはやはり、怒れない。その心までもわかってしまうから。 ――だいたい、邪魔してるのって実は俺だしな。 師弟の間に入り込んでしまったのはこの自分。サイファが選んだのは自分ではある。けれど。逡巡が、堂々巡りをする気配にウルフは苦笑して思い切りよく剣を振る。軽い稽古のつもりがずいぶんと本格的になっていた。食べたばかりのせいだろう、脇腹が痛い。 「こんなときだけ体は人間なんだよなぁ」 死なないのに、怪我はする。病気のほうはわからない。いまだ病を得たことがない。そもそも丈夫が取り柄だ。ウルフの顔がふと曇り、それを隠すよう再び立つ剣風。 ――何度も殴られてさ、蹴られてさ。俺、けっこう楽しかったんだよ、サイファ。知ってる? 知ってるよね。だから一緒に治癒魔法も叩きこんでくれるんだもん、あんたってさ。 遠回りで面倒くさい愛の告白だと笑ったのはアレクだったか。お互いがわかっていればそれで問題はない、とウルフは思っていた。 少しだけ思う。わかっていたのは自分だけかもしれない、と。無自覚なサイファであった可能性は否定しにくい。奇妙なところで信じられないほど無垢なサイファだと知らないでもない。 ――それでも。 あんたが好きだよ。心の中ですら声にはせずウルフは言う。汗にまみれた額を拭い、すでにとっぷりと陽も落ちた小川に向かう。なにせ小屋からほんの何歩かだ。濡れた服を脱ぎ捨ててウルフは川の流れに身を浸す。 ――いやな気分まで流れればいいのにね。 そんな都合のいいものはこの世界にもないらしい。小さく苦笑してウルフは水の滴る赤毛をかき上げる。それから思い切りよく頭を振った。飛沫が飛び散り、いつもならば文句を言うサイファ。 ――気づいてもいないね。 こんな時は相手が半エルフなのだと思い知る気分だった。ただひたすらにじっと座るサイファは時を止めてしまったかのよう。自分の周囲で物事が動いていることすら忘れてしまったサイファだった。 「ま、ここは俺がなんとかするしかないよね」 嘯いてウルフは苦笑する。相談など一切していない。それでもたぶんリィはこちらの思うとおりに動くだろう。サイファのためならば。 「それが信じられるってのがけっこうどうなのって思うよなぁ」 口許だけで笑ってウルフは心を切り替える。サイファが好むウルフへと。半ば体を濡らしたまま半裸のウルフが小屋に飛び込み寒いと笑う。ぎょっとしたサイファが立ち上がり、そして小言を垂れた。その目の中、ウルフはかすかな安堵にも似たものを見ていた。 |