もういい、と言うこともできなかった。この状態で歌わせることなどできない。無言で激しく首を振るシェイティの手を、タイラントはそっととどめていた。
「タイラント!」
 振りほどきたくて、それすらも彼に酷い苦痛を与えるのではないかと思えばできない。唇を噛みしめるシェイティの目からはとめどなくあふれる涙。
「じっと、してて」
「シェイティ」
「なに」
「危ないんじゃ、ないの」
 タイラントの色違いの目が、少し苦笑していた。こんな有様で、どうして彼は笑えるのだろう。シェイティは震える手で彼の指先を握り返す。
「危ないよ。決まってるじゃない」
「だったら――」
「他にどうしろっていうの! 僕は鍵語魔法しか使えない。神聖魔法なんか使えない。だったら、真言葉魔法に頼るしかないじゃない。使ったことなくったって、カロルが使ってるの、見たことあるもの。僕には、できる。できる!」
 最後は、言葉が震えた。できると信じるしかないことが、こんなに頼りないことだと思い出すのも久しぶりだった。
「君は、どうなるの。失敗したら?」
「あなたが死ぬことは確実。僕も同じ。たぶん――。弾け飛んでおしまいじゃない? あとに、大穴が残る程度で済むと思うけど」
 真言葉の暴走をシェイティも見たことがあった。思い出すだけで震えそうになる。鍵語魔法より遥かに威力の勝る純粋な魔力が吹き荒れる様。ここもきっと同じことになるだろう。
 それでも今はそれに賭けるしかなかった。タイラントの命が今にも尽きようとしているのに、黙って見ているだけなど耐え難い。
「君に、もしものことがあるなんて、俺は嫌だよ。シェイティ」
「タイラント!」
「だから、俺に歌わせて」
「なに言ってるの。あなた、自分がどういう状態だか、わかってるの。馬鹿じゃないの。死ぬよ」
「わかってるよ。それと、これもたぶん」
 苦笑いをしてタイラントが見上げてくる。今にも死にそうだとは、その目の力を見てしまっては言えなくなる。
「……何がわかってるの、あなたに」
「君が、許してくれたこと。俺が生きててもいいこと」
「ちゃんと、わかってるじゃない」
「うん、わかってる。だから、俺は生きる努力を放棄しない。シェイティ。ごめん、俺はとても卑怯だった」
「なに、言ってるの」
「君に、俺の命を預けたりするべきじゃなかったね。俺は俺のしたことを、自分の責任において償うべき――」
「いまはそんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
「それも、そうか」
 くすりとタイラントは笑った。それから手を上げたいと仕種で示す。シェイティはその手をそっと持ち上げて自分の頬に押し付けた。
「シェイティ。君が好きだよ」
 答えはない。それでもよかった。シェイティの涙が止まったのだから。タイラントはじっと彼を見ていた。温かいぬくもりに包まれていれば、自分の体が冷えていくのを感じる。
「俺は、今後一生をかけて、君が許すに値した人間だということを、証明し続けなきゃいけないね」
「当然じゃない。だから」
「生きるよ、シェイティ。死なない。だから、歌わせて」
「いい加減に――」
「シェイティ。俺は傷を治すことができる。自分の体で試したこともある。信じてもらえる?」
 唖然とした。歌って傷を癒すなど、できるものだろうか。だがタイラントはそう言う。それを信じていいものだろうか。
 最後の歌を聞かせようとしているのかもしれない。ちらりと脳裏に浮かんで消えた。いまのタイラントの目からは、そのような嘘は窺えない。想像することさえ彼は許さない。
 タイラントがひとり、旅に出てからずっと見ていたわけではない。シェイティは時折彼の様子を窺っていただけだ。
 だから、知らなかった。タイラントの歌が彼独自の魔法といえるまでに練り上げられていることなど。
「……信じる」
 なんとも歯痒かった。そうすることしかできない自分が。それにタイラントはほころぶよう笑う。目顔で体を起こしてくれと頼み、シェイティは気づけば諾々と従っていた。
「じゃ、聞いててね。君の傷も一緒に治すよ」
「そんな暇は――」
「いいから。俺にしてみれば手間は一緒。ね?」
 押しが強くなった、と思った。図々しくなったとも思った。前のタイラントに少し、戻った気もする。案外、嫌な気分にはならなかった。
 黙ってうなずいたシェイティに、タイラントはもう一度微笑みかけ、目を閉じる。途端にシェイティの体が強張った。
 いまだタイラントの体を支え続けているシェイティの腕が、びくりとすくむ。死の影を見てしまったかのように。
 それを悟ったタイラントは目を開けて彼を見た。大丈夫、と励ますようタイラントの目が細められて、シェイティはいたたまれなくなる。怪我人に気遣われるなど、自分が恥ずかしくてたまらない。
 無言のうちに何かが通い合う。タイラントはゆっくりと息を吸って、静かに吐き出す。幸い、喉は潰れていなかった。
 緩やかに流れ出した声に、シェイティは息を飲む。これが、死にかけの怪我人の声か、と思った。それほど豊かで深い声をしていた。
 すぐさま、シェイティは気づく。自分の怪我が治りつつあることに。小さな傷など、ほんの一瞬だった。
 そこにあったことを忘れてしまうほど素早く塞がって、痕まできれいに消えてしまう。目を疑うような、治癒だった。
 息を凝らして歌に聞き入ると同時に、シェイティは魔力を探っていた。そこには確かに魔法があった。
 共に旅をしていたころの未熟な魔力の塊ではなく、確固たる魔法が。誰かに習ったのだろうか、疑問は瞬く間に消えた。
 このような魔法など、誰に聞いたこともない。あるいはカロル、否、リオンか。もしかしたら彼らは助言くらいはしたかもしれない。だが、確立させたのはタイラントに違いない。その確信がシェイティにはあった。
「タイラント……」
 この男が、誇らしくてたまらなかった。自分が魔法を教えたいと思ったのは間違いではなかった。そして感じる少しばかりの寂しさ。
 タイラントに、自分は必要ではなかった。自分が導かなくとも、彼はここまで進んだ。この先も、きっと一人で歩くだろう。
「シェイティ」
 歌がやむ。治ったのか、と思ってもまだ彼の傷は塞がってもいない。訝しげなシェイティに、タイラントは苦笑いをしていた。
「俺は、君が好きだよ。できれば、ずっと一緒にいたいと思ってる。君に魔法を習いたいと今でも思ってる。君がいなかったら、俺はここまでこなかった。君がいたから、俺はこんなことができるようになったんだよ」
「僕が――」
「俺は君が要る。ずっと君を追いかけていたい」
 物思いに沈んだ気配だけで、これだけのことを悟って真顔で言うタイラント。シェイティに言葉はない。支えているはずの彼の肩に額を寄せた。
「さっさと歌いなよ。まだ、塞がってない」
 それにタイラントが仄かに笑った気がした。シェイティは目を閉じて彼の歌を聞く。これが世界の歌い手の、真の歌だと知った。
 いままでタイラントがこの力を使わず歌ったのは、自分が嫌がるかも知れないと案じたせい。魔法で操るつもりはない、彼が口で言ってもきっと自分は信じなかった。
 はじめて、タイラントの本当の歌を聞いた。そしてこれを耳にする者は、多くはないだろうこともシェイティは悟った。
「君にだけ。できればね」
 悪戯をするよう、細められた目をシェイティは軽く睨む。それでもタイラントは誤解はしないだろう。この証に、彼は小さく笑い声を上げて歌い続けた。
 さすがにタイラントの傷はすぐさま治るというわけにはいかなかった。ざっくりと裂けた首から流れる血が少なくなっている。いつの間にかに傷口が小さくなった。
 次第次第に治っていく。それはじりじりするほど遅かった。とっくに完治してしまったシェイティの苛立ちが最高潮になる前、ようやく傷が完全に塞がりかける。それでもまだ動けば簡単に裂けてしまうだろう。
 癒しの歌と言うのは、こんな歌なのだろうか。身も心も洗われていく心地がシェイティはしていた。タイラントへの感情が、すっきりと巧くまとまる。それも、歌のせいかもしれない。
 今は、いまだけは素直にこの男を側に置きたいと強く思う。誰にも渡さない、と思う。不意にシェイティは笑い出したくなった。
 カロルのことを思い出していた。彼がリオンを側に置く決心をした瞬間も、こんなものだったのかもしれない。訪れてしまえば、呆気ないものだった。
「綺麗な歌」
 呟き声に、タイラントが笑みを返す。歌はやめなかった。それでいいとシェイティもまたうなずく。
「勝手に喋るからね」
 返事を待たず、シェイティは遠くを見ていた。横顔に、タイラントの眼差しを感じる。いい気分だった。
「メロール師が言ってた」
 どこまでも続いていく草原が、風になびいていた。上空で、竜が戦った形跡などもうどこにも残っていない。
 これほど美しい場所を、真言葉の暴走で破壊してしまわずに済んだ。そのことをシェイティは純に喜ぶ。
「夜明けに、世界を寿ぐ歓喜の歌が聞こえるって。新しい一日を祝って、世界が歌うって。半エルフにしか、聞こえないみたい。僕も聞いてみたかったけど」
 ゆるゆると流れる歌詞のない歌。メロールに聞かせてみたいと少しだけ思った。
「あなたの歌は、それと同じなのかもしれない」
 メロールが聞けば、そう言うだろうと思う。歓喜の歌と同じく世界がここにこうしてある奇跡を寿ぐ歌声だ、と。
「僕はいま、この瞬間に生まれた。この世界に、新しく生まれた。そんな気がする」
 手を伸ばして、空を掴む。流れる雲に吹き寄せる風の強ささえ、感じられる気がした。不意に言葉が返ってくる。
「生まれたんじゃない。君が、この世界にあることを受け入れたんだ。シェイティ」
 大袈裟な台詞も、自分の言葉を思えば苛立ちはしなかった。何より、タイラントの言葉を真実としてシェイティは心に刻んだ。




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