言われた言葉。言った言葉。それが照れくさくてシェイティは唇を尖らせては不機嫌な顔をする。それをタイラントが仄かに笑った。
「見せなよ」
「シェイティ?」
「治ったんでしょ。だから歌、やめたんじゃないの。見せて。ちゃんと治ってるか僕に確かめさせなよ」
 畳み掛ける口調が妙に懐かしくて、タイラントの口許が一瞬、歪む。それを見たはずなのにシェイティは何も言わなかった。
「ほら、さっさとしなよ」
 言いつつシェイティはタイラントに圧し掛かるよう、その襟元を大きく開く。傷は、痕跡を残すだけとなっていた。
「なんで?」
「なにが?」
「痕。治せるんでしょ。なんでとってあるの。とってあるわけじゃない?」
 ふと、シェイティが不安そうな顔をした。完治させることはできないのか、と案じる彼にタイラントは微笑んで首を振る。
「とっておこうかと思って」
「馬鹿じゃないの、あなた」
「うん。そうかも」
 答えに、やっぱり馬鹿だとシェイティが呟くのをタイラントは心地良く聞いていた。すぐ目の前にある彼の体を、抱き返してしまいたい。それなのに、指先はためらっていた。
「やっぱり、馬鹿」
 繰り返しに、彼の心を感じた。途端になぜためらっていたのかがわからなくなる。
「シェイティ」
 小さな声で呼んだ名は、わずかに震えていた。タイラントは彼の肩に額を預け、ゆっくりと息をつく。こんなに安らいだ気持ちになったことはなかった。
「ねぇ」
 無残に断たれてしまった銀の髪に手を滑らせてみれば、急に懐かしくなる。タイラントのこの髪を撫でた記憶などないというのに。
 手触りではなく。幻でもなく。それはきっと、あの小さな銀の竜と人間としての彼が同じだから。リオンならば、タイラントその人の本質に触れたのだ、そう言うことだろう。
「シェイティ?」
 呼んだくせに黙ってしまったシェイティを見上げれば、柔らかな目をしていた。いまだかつて見たことがないほどに。
「それ、直そうか?」
 そう、タイラントの膝の上に乗せたままの壊れた竪琴をシェイティは目顔で示した。
「ううん、いい」
「どうして。それなりに、大事にしてたんじゃないの。安物なのに」
「その辺は関係ないよ。君が僕に贈ってくれたから、大事にしてた」
「だったら――」
 少しばかり照れた口調。出逢ったころの無表情が嘘のようだった。
「シェイティ」
 タイラントは彼の体を離し、壊れた竪琴に指で触れる。それだけで、ぼろりと崩れた。かすかに唇を噛んだタイラントに、やはりシェイティは直したい、そう思う。けれどタイラントは首を振った。
「これは、このままにしておくよ」
 決心が鈍らないように、とでもいうのだろうか。タイラントはゆっくりとした動作で破れた皮袋の中、竪琴をしまう。袋の中で、竪琴は残骸と成り果てていた。
「なんで?」
 訝しくてならない。それほど大事なものならば、頼めばいいのに。一言いってくれれば、どうとにでもしてあげるのに。その思いが顔に出たのだろう。タイラントは苦笑していた。
「これは、このまま。愚かだった俺の、戒めとして。――もう二度と、同じことを繰り返さないように」
「人間のくせに」
「そうだね。何度もこれを見て俺は後悔すると思うよ。またやっちゃったってね」
「しょうがないね、人間だから」
 くっと、シェイティが喉の奥で笑った。それでいい、そうタイラントは言われた気がする。だから、苦笑するしかなかった。
 できるならば、二度と彼を苦しめない。何度でも誓うだろう。何度でも破るだろう。そのたびにシェイティは、許してくれて、しまうのだろう。
「君が好きだよ、シェイティ」
 心からの思いしか捧げられないどうしようもない人間の自分を、シェイティは許してしまうだろう。だからこそ、彼の優しさにつけこむような真似は決してしない。
「知ってるよ。ねぇ、あなた。僕が異種族だって、わかって言ってるんだろうね」
「君が闇エルフの子だから異種族? だったら、俺は人間だからね、君にとっては異種族だ。君は? それでいいの」
 まるでシェイティのような物言いだった。それに気づいたのだろう、シェイティがそっと笑う。その指がタイラントの髪に伸びた。
「これ、リオンだね」
 言って、一房編まれたままの髪をとった。あの戦闘で、これが断ち切られなかったのは奇跡に等しい。もしも切れてしまっていたら、と思うとシェイティはぞっとする。リオンはタイラントの身になにが起こったかを知るだろう。同時に、カロルも。
「君の居場所を知る手がかりにって、編んでくれたんだ」
「手間のかかることするよ。さっさと吐けばいいのに」
「シェイティ?」
「あのボケ神官が僕の居場所を知らなかった? ありえないね。知ってたに決まってる。万が一知らなくったって、ちょっと捜せばわかったはずだよ」
「そう、なの?」
「馬鹿リオンがわからなくってもね、カロルは絶対わかる」
「お二人とも知らないって言ってたよ!」
「騙されたんだ、あなた」
 そう言ってシェイティは楽しそうに笑った。がくりと肩を落としたくなるタイラントだったけれど、内心では違うことも考えていた。
 こうしてシェイティを捜す旅に出たからこそ、自分はまともな人間になれた、そんな気がした。あのまますぐシェイティに会っていたら、きっとだめになっていただろう。
 それを、二人ともわかっていたのではないだろうか。不意にそんな疑問がタイラントにきざす。そして同時に、シェイティもそれに気づいたのだろうと悟る。見合わせた顔は、苦笑していた。
「お節介ばっかり」
 呟いて、シェイティは目を細めて笑った。柔らかな表情が、くるくるとよく動く。こんなにも感情豊かな彼を見ているのが、楽しくて喜ばしくて。タイラントはまた歌いたくなってくる。今度の歌は、もっとずっと楽しいものになりそうだった。
「行こうか」
「シェイティ?」
「あなた、馬鹿? わかってるの、一度は死にかけたって。僕は全然かまわないけど、あなたは屋根がいるんじゃないの」
「うーん、それはありがたいけどなぁ」
「なに?」
「どこに行くつもり?」
「とりあえず……塔?」
 特に何かを考えていたわけではなかったシェイティは、静かに休める場所、としてリィ・サイファの塔をあげた。
 だが、それにタイラントは首を振る。まるで予測していたかのような素早さだった。
「シェイティ。帰ろうよ」
「帰る?」
「うん。君の帰りを待ってる人がいる。忘れたわけじゃないよね。星花宮に、帰ろうよ」
 カロルが、リオンが。そしてメグが待つ星花宮に。シェイティの口許が、ほころんだ。帰る、その言葉の響きに感じる歓喜。自分にもタイラントにも、帰る場所がある。それが殊の外に嬉しかった。
「いいよ、まだ」
 それなのにシェイティは帰ろうとはしなかった。わずかに視線を大地に向けて、タイラントの編まれた髪をいじっている。
「これ、ほどくよ」
「いいけど?」
「それで、リオンには通じるから。僕もあなたも無事だって、わかるから。だから、もう少し――」
「でも」
「うるさいな!」
 乱暴に言って、口調と同じ手つきで髪をほどいた。痛みに悲鳴を上げるタイラントになど、かまわない。シェイティは笑って手櫛で彼の髪を整えた。
「酷い頭だね。あとで切ってあげるよ」
 長さの違う髪が入り乱れている様など、見られたものではなかった。血に汚れ埃に塗れ、それでも銀の髪は美しい。シェイティの目には。
「痛いってば! 引っ張るなよ!」
「引っ張ってないよ。別に。たいして。ちょっとしか」
「引っ張ってるじゃんか!」
 シェイティの手を押さえつけ、タイラントは不意に大きく笑い声を上げた。一瞬にして、時が戻った。あの、旅のころのように。
 だから、誓う。同じ過ちを繰り返さない、と。シェイティの目を覗けば、同じことを考えているのが伝わってくる。
 かわす視線に、これから共に過ごす喜びと、また繰り返すかもしれない不安が浮かぶ。タイラントだけではなく、シェイティもまた。
「シェイティー。帰らなくっていいの」
「いいって言ってるじゃない。しつこいよ」
「だってさー」
 不安が言わせた言葉だった。だがシェイティは取り合いもしない。思わずタイラントは見惚れていた。彼のその、強さに。強靭で、脆い彼の側にいたい、それだけを心から願う。
「もうちょっと――」
「シェイティ?」
「うるさいな! もうちょっとくらい、二人でいたっていいじゃない。帰ったら絶対カロルがうるさいんだよ? なに言われるかわかったものじゃないんだからね。だから――」
「うん。シェイティ。……うん」
 込み上げてくるものが、こらえきれなかった。ぎゅっと彼を抱きしめても、嫌がられはしない。安堵するより先、シェイティが抱き返してくる。
 こめかみに、そっと唇で触れた。くすぐったいのか、嫌がるよう身をよじるシェイティに、思わずタイラントは体を引く。
「馬鹿じゃないの」
「だってさ……」
「あなた、キスの仕方も知らないわけ? そんなんでよくあんな抱き方したよね。ほんと馬鹿」
「それを言うなってば!」
 悲鳴じみた声にシェイティはかすかな笑い声を上げた。情けない顔をしたタイラントに、唇を寄せる。逃げかけた彼の首筋を捕まえて、唇を重ねれば溜息。甘えた竜の鳴き声に、それは似ていた。シェイティの口許に微笑が浮かぶ。
「――眠い」
 耳許で囁かれたシェイティの声に、一息でタイラントの熱情が覚めた。代わりに笑いが込み上げれば、信じられないことに晴れやかな気分になった。
「そりゃないよ、シェイティ!」
「うるさいなぁ、あなたが木の上で歌ってる間、僕が安らかに熟睡してたとでも思ってるわけ?」
「そりゃ、思ってないけどさー」
「思ってないんだったら寝かせてよ。もう移動する気力もないよ」
 言うなりシェイティは腕をほどいてはくるりとタイラントの膝の間で丸まった。胸に頭を預け、腰に手を回す。それは眠っている間に消えてなくなりはしないかと恐れているかのよう。
 片足を伸ばし、くつろいだ姿勢のままタイラントは笑って彼を抱きかかえる。腕の中からも、忍びやかな笑い声が聞こえてきた。
「君が好きだよ」
 答える声はない。静かな吐息だけが聞こえた。かすかにタイラントは眉を上げて彼を窺う。まだ、眠ってなどいなかった。
 喉の奥でひっそり笑い、タイラントは小さな声で歌いだした。微笑むタイラントの目の前、一羽の鳥が飛んでいく。
 風を切る翼に寄せてタイラントは歌う。草原を渡る風に歌が乗る。風が吹きぬけるところ、どこまでも彼の歌が届いていく。シェイティの本来の名の歌。希望と言う名の歌が、ゆっくりと世界に広がっていった。

 ――魔術師メロール・カロリナの一門によって鍵語魔法は属性区分を確立させた。それにより、人間は安全かつ確実に魔法を使用することが可能となった。同時期、呪歌と呼ばれる別種の魔法体系もが系統立てられる。それには世界の歌い手の称号を有する吟遊詩人タイラントが深く関係している。
 アルハイド大陸の隅々まで魔法が行き渡ったころ、ラクルーサ宮廷魔導師団首席魔導師サリム・メロールとその擁護者アルディアは最後の旅に出た。
 それにより首席魔導師を失った宮廷魔導師団はここに合議制をとることとなった。初代評議員は黒衣の魔導師メロール・カロリナ。真理の使徒リオン・アル=イリオ。氷帝カロリナ・フェリクス。世界の歌い手タイラント・カルミナムンディ。この例に倣い、現在に至るまで評議会は四大元素の使い手を一人ずつ含むことが慣例となっている。
 サリム・メロールを失ったことにより、人間は歴史を刻み始める。伝説の時代は終わりを告げ、人間は自らの足で新たな足跡を印す、このアルハイドの大地に。

イーサウ自由都市連盟タウザント大学魔法史学部編纂
「アルハイド大陸魔法史」より抜粋。





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