今までの、どんな歌とも違った。澄んで豊かな声は変わらない。それなのに、言い尽くせないほど切実な音色。 顔をそむけながら、タイラントは歌っていた。こちらを見て、歌えばいいのに、とシェイティは思う。気付かないうちにじっと竜を見ていた。 どこかを見ながらタイラントは歌っていた。シェイティと出逢ったときのことを。共に旅した日々のことを。 「懐かしい――」 口にしてしまって、シェイティは息を飲む。そのようなこと、考えたくなかった。あの日々を思い出すのはすでに苦痛でしかない。 知らず、シェイティの手が喉元に上がっていた。するりと撫でる指先。あの小さな竜の尻尾を探す。もうどこにもない、それを。 タイラントの声が乱れた。シェイティは掌に爪が立つほど握り締める。もう少しで終わる。彼はそう言った。 「ごめん」 だが、彼は遠くを見やったままそれだけを言ってまた歌いだす。小さな竜の体が震えていた。戦っているのだろう、自分と。 「どうして」 そこまでするのだろう。この自分に魂をかけるほどの価値など、どこにもない。シェイティはそう思う。 復讐の機会をくれるとタイラントは言った。けれど、そもそも悪いのは自分であったはず。確かにタイラントはシェイティを裏切った。 「わからないよ、もう……」 急に、互いに自分が悪いと言い募っているような気がしてきた。馬鹿馬鹿しい、そんな気すらする。こんなことに、タイラントは己の魂をかけようとしている。 「やめて」 もう、すべてが嫌になってきた。声を張り上げたシェイティに、タイラントは顔を向けて仄かに微笑った。歌声は止まらない。 彼の歌が身に迫る。どれほど自分と過ごす日々が喜びに満ちていたかタイラントは歌う。同じだ、とシェイティは思う。 「……楽しかったよ、僕も」 あの小さな銀の竜。朗らかで明るくて、いつも笑いを絶やさなかったシェイティの竜。ただ、何も知らなかっただけだと知った。 「もう、いや」 全部壊れてしまえばいいのに。そう思う。あの時と同じだ、と思ってシェイティは皮肉に笑った。ラクルーサの大臣を、反逆者に仕立て上げた、あの時と。操られていたなど言い訳はしない。あれもまた自らのなしたこと。前に進むと誓ってから二十年、一歩も進んでいない気がした。 今頃カロルはどうしているだろうか。きっと苛々しているに違いない。自分の帰りを待っているに違いない。帰れなかった。とても帰れなかった。こんな気持ちのままでは、とても。 膝を抱えたシェイティを、心配そうにタイラントは見つめる。この歌を、聞かせてしまってよかったのだろうかと思いつつ、それでも歌わずにはいられなかった自分を思っていた。 自分たちのことを歌えば、シェイティはまた傷つくだろう。それがわかっていても、歌ってしまった。最後に聞いて欲しいのは、この歌だった。 「ごめんね」 小さく呟いて、また歌う。息を入れるふりをしていた。もう衝動は、耐え難くなっている。今にも自分が消えそうで、声さえ震えた。 最後の歌に、思いのすべてを乗せていた。決して傷つけたいわけではない、それをいつかわかって欲しかった。 最後まで、要求しかできない自分は、やはり最低な男だとタイラントは思う。求めて求めて、求めすぎて、結局シェイティを傷つけ続けた日々がもう少しで終わる。 少しだけ、ほっとしていた。そうでも思わなければ、歌声が止まってしまいそうだった。心の中を圧迫する衝動。鳥が空を横切るたびに、飛び出したくなる。 タイラントが止まり続けた枝は、樹皮など疾うになくなっていた。白い木の芯がむき出しになっている。そこにも鉤爪の跡が深くえぐられていた。 いまもまた一つ、鉤爪の跡が増える。もう少し。もう少しだけ歌っていたい。震える声を隠しかねて声を張り上げる。 「やめなよ」 うずくまったままのシェイティの声。タイラントは彼を見ずに歌った。歌は進んで、彼との別れ。闇エルフの子に恐怖した愚かな自分をタイラントは語るよう、歌う。 あの竪琴は、どこにいってしまったのだろうか。竜の体に変化したとき、それまでの持ち物はすべて失ってしまった。 「もう一度」 手にしたかった。気づけば歌ではなく、思いが口をついている。長い首をしなやかに振ってタイラントは歌いだす。 途切れがちで、もうそれは歌とは言えなかった。タイラントの鉤爪が木をえぐるよう、シェイティは自分の膝に爪を立てていた。 痛みも、恐怖も二人ともが感じていなかった。今にも終わる瞬間を、待ってすらいるのかもしれない。途切れ途切れの声が、再会を語る。 「嬉しかったよ――」 まるでただの言葉。歌になど、なっていない。それでもそれは、タイラントの歌だった。見上げれば、タイラントの澄んだ目。色違いのそれがシェイティをじっと見ている。 目があった瞬間だった。タイラントが微笑んだのは。そっと細められた目に、シェイティは彼が笑ったのだと知った。 こんな状態で。こんなにつらそうな顔をして。必死になって、タイラントはそれでも笑った。視線がそれて、タイラントがどこかを見る。 「あぁ、とても空が高いね。綺麗だよ、シェイティ」 こんな日でも、世界はとても綺麗だ。どこまでも、行かれそうな、そんな気がした。 不意に、蘇った記憶があった。シェイティが、銀の竜の額にくちづけた、あの思い出。タイラントの心の中が満ちていく。 最後に思い出せてよかった。心から、そう思う。もう失ってしまうだろう記憶にタイラントは感謝していた。 大きく息を吸う。そうしなければ、もう話すこともできなくなっていた。喉が、おかしい。竜のものへと、変化を続けているのだろう。 ゆっくり息を吸って、吐く。人間の体でしていたときには、意識などしていなかった動作が今はこんなにも難しい。 それでもタイラントはできる限りの優しさと、あらん限りの思いを乗せて囁きかける。最後の言葉を。彼を見て、言った。 「君が、好きだよ。シェイティ」 名を呼んだ瞬間だった。シェイティが、口を開く間もない。竜の目から、光が消えた。そして響く怒号。 咄嗟に立ち上がったシェイティが手を伸ばす間に竜はもどかしげに身震いをする。それだけで、彼を縛りつけた蔓が弾け飛ぶ。 「あ――」 手が届く、あと指一本で手が届く。だがタイラントは飛び立った。シェイティなど、すでに彼の心にはない。 みしみしと、音が聞こえるようだった。竜が羽ばたくその音が。 「信じられない」 唖然とするシェイティの前、タイラントが魔法の束縛を脱した。小さな竜は、消えていた。本来の大きさに戻った風竜が、己の属性のまま空を駆ける。 「馬鹿な」 ならば、どうして変化の魔法ごと解かなかった。罵りたくなって、シェイティは息を飲む。 「わかってて……」 竜に身を委ね、魂を失うことを甘受した。それが償いになるのならば。 「あの、馬鹿」 どこまで似ているのだろう、自分たちは。泣き笑いの顔でシェイティは飛んでいった竜を目で追う。遥か遠く、もう点のよう。 「タイラント」 久しぶりに、彼の名を呼んだ。唇が強張って、動かないようにも感じた。頭を一振りして、額にかかった髪を払う。 そしてシェイティは走り出す。丘の端まで駆けていく。竜はもう、見えない。シェイティは止まらなかった。二十年の時が動き出す。 唇に、滑らかな詠唱。彼の名を呼んだときとは打って変わって。そのまま丘から飛び出した。 光が射したようにも見えただろう。丘から一筋の光が飛び出していく。それは、雪白の竜だった。 シェイティは、竜へと変化を遂げてタイラントを追う。この体ならば、さして時をおかず追いつくことができる。 遠くから、吼え声が聞こえた。雪白の竜は首を巡らせ声を追う。聞き慣れて、それでいて知らない声。だがそれが青い竜の声に間違いはないとわかっていた。 青い竜はいま、獲物を前にしていた。色違いの目は、変わらない。だがそこに人間らしい理性の色は微塵もない。 牙にかける価値もないほどの、小さな鳥が飛んでいた。鉤爪で、ほんの少し突けば、死んでしまうほどの小さな鳥。 だが青い竜はそれを牙の間に感じるべく、追っていた。獲物の生き血の温かさを思う。牙の間から涎が滴った。 轟、と吼えれば恐慌に陥る鳥の群れ。青い竜は嬉々としてそれを追った。もう少しで手に入る。この体を温め養う生き血が。 不意に目の前が覆われた。鳥だ、と気づく前に首を振る。はらはらと白い羽毛が飛び散って、獲物を捕らえそこなった悔しさが湧き上がる。 青い竜は腹を立てて鳥を追う。小さすぎて捕まえにくいからと言って、諦める気にはなれなかった。ひどく腹がすいていた。 だから、それを油断と言うわけにはいかなかっただろう。青い竜はありえない衝撃を感じ、長い首を背後へと振り向ける。 竜が吼えた。青い竜ではない。雪のように白い竜が。不意に懐かしさを感じた青い竜は、だがやはり吼えた。 氷の竜など、青い竜は知らなかった。風の生まれの仲間たちが、きっとどこかにいる。雪と氷の子らなど知らない。 だから、この白い竜は敵だった。獲物を横取りされる、その思いが青い竜の中に膨れ上がっていく。血走った目に、雪白の竜を捉えた。 鳥など、どうでもよくなった。まずはこの雪白の竜を片付けてやる。それからゆっくりと、獲物を探しに行けばいい。 空中で、二頭の竜が睨みあう。羽ばたくごとに、風が吹きすさび、吹雪が舞う。互いに間を計るよう、動かない。 先に動いたのは、青い竜だった。風の属性のまま、疾風のごとく雪白の竜の腹へと突進する。すらりとよけられ、青い竜は止まれなかった。その背に襲い掛かる強烈な氷の吐息。それをどこかで自分は知っている。かすかな記憶が浮かんでは消えた。 |