五日目に、異変は起こった。歌が途切れることは、いままでもあった。だが、これは違った。聞こえるのは竜のうなり声。はっとしてシェイティは頭上を見上げる。
 竜の目が、変わっていた。理性の光が、薄れている。彼が見る間に、竜が羽ばたいた。舞い上がる竜を、シェイティは何をするでもなく見ていた。
 信じられなかった。一瞬にうちに起きた出来事が、信じがたかった。
「どうして――」
 わかっている。変化の魔法に耐え切れなくなった、それだけのこと。はじめから、わかっていた。それなのに、この不安はどこから。
 タイラントはそれでもまだ戦っていた。自分の中に押し寄せる竜の本能と彼は戦い続けていた。抗しきれなくなったのは、ある意味では当然だった。
 歌うタイラントの視界に、一羽の鳥が飛んでいた。それを目にした瞬間だった。ほんのわずか、意識がそれた隙を狙われたかのよう、タイラントは本能に支配される。
 気づけば飛んでいた。翼を切る風の感触が、こんなにも心地よいものだったとは思いもしなかった。鳥を追う。あれを口にしたい。熱い血を存分に味わいたい。湯気を立てる内臓に歯を立てる、そのときが楽しみで仕方ない。
 すぐそこに、鳥がいた。狂気のように軌跡を変えて飛び続けている。タイラントは牙を向き、そして吼えた。
 空中で、身をよじる。タイラントが、タイラントと戦っていた。わきあがってくる食欲と、人間の心が葛藤を繰り返す。
「あ……」
 シェイティは、遠くそれを見ていた。見ていることしかできなかった。身動きひとつできずただそこに立ち続けるだけ。
 不意にタイラントが姿勢を崩す。落ちる、と思ったときには落ちていた。
「拾いに行かなくちゃ」
 呟いて、けれどまだシェイティは動けなかった。いつの間に立ち上がっていたのだろう、木の幹に添えた手が、白い。大地が揺らいでいると思って辺りを見回せば、揺れているのは自分の体だった。
「馬鹿な」
 目の中に飛び込んでくるもの。鮮やかな青い竜。小さな竜が、よろよろと飛んでいた。どこへ行くのか。よもや。まさか。
 竜はまっすぐに飛んでいた。シェイティが待つ、木の本へと。
「ごめん」
 枝に止まって羽を休め、そして聞こえた力ない声。シェイティは口をつぐんで腰を下ろした。なにを言っていいか、わからなかった。
 黙って、彼を見上げる。色違いの竜の目は、理性を取り戻していた。よく、耐える。そう思う。よくぞここまで魔法に抵抗する。
 自分の目は、間違っていなかったと、シェイティは仄かに微笑んだ。彼の魔法に対する才能は素晴らしい。訓練次第で、一流の魔術師になることができただろう。
 そう思って、いまはそれも適わないことを知る。彼の道を断ったのは、自分だ。
 物思いに沈むシェイティの耳に、少し疲れたタイラントの歌声が聞こえてきた。ずっと歌い続けているのは、疲れないのだろうか。やめろと言っても聞かないだろう。それに、やめさせたくなかった。
「いつまで」
 ぽつりとした声に、シェイティは自分の呟きを自覚した。彼の歌を、いつまで聞いていられるのだろう。あと少し。
 心から、惜しいと思う。この歌を聞き続けていたいと思う。反面、彼を許したくない。また、同じことを繰り返すのはもういやだった。
 人間は、信じない。いまは優しいタイラントも、何かの拍子に間違いなくあのときと同じことをする。それが、人間だから。
 タイラントの歌がまた乱れた。見上げれば、少し疲れちゃった、とでも言いたげな顔をして竜が笑う。読みにくい竜の顔なのに、妙に通じた。
 だからシェイティはそれが嘘だとわかってしまう。タイラントは歌い続けるのに疲れたわけではない。必死になって魔法に抵抗している。
 もう少し、わずかでも長くシェイティに歌を聞かせようとして。悶えるよう、竜が体を伸ばした。息を整えてまた歌う。
 もういい。そんなに頑張らなくてもいい。言いかけた言葉がシェイティの舌先で止まってしまった。復讐をしろ、とタイラントは言った。
「いいよね」
 だから、これは自分が求めていいこと。自分があのときタイラントの望みに従ってこの体を与えたように。
 心が叫んだ。彼はこの命まで取ろうとはしなかった。魂を捧げろとまで言いはしなかった。自分は。叫び声のあまりの大きさに、シェイティは耳を塞ぎたくなる。
 夜遅くになって、ようやく歌声がやむ。竜のまどろみを感じながらシェイティもまた体を休めた。不思議と、穏やかな気持ちだった。
 すぐそこに、タイラントの気配がある。懐かしいような温かいような気持ちになる。嫌な夢さえ見なかった。そしてそれをシェイティは自覚していなかった。
 目覚めたとき、何を思うでもなく枝を見上げた。何度か目を瞬く。少しずつ、理解した。
「……いない」
 竜の小さな影がなかった。枝の上で器用に丸くなって眠る竜の姿が、今朝はなかった。
「どこ」
 うろたえた声に、いっそうシェイティはうろたえた。あの寝姿を見るのが、好きだった。青い竜のそれではなく、銀の竜のそれを思い出させてくれるから。
 楽しかったわずかな記憶。あのまま過ごせたならどれほどいいだろうと願っていた。
「僕が」
 悪かったのだろうか。やはりちゃんと全部話していればよかったのだろうか。それでもシェイティは思う。
 もしも彼がはじめから自分が闇エルフの子だと知っていたならば、あの時間すら手に入ることはなかっただろう。
「取り戻したい?」
 自らに問う。きっと、取り戻したいのだと思う。よく、わからなかった。取り戻してもう一度失うのか。
「それは、いや。それだけは、もういや」
 シェイティは木の幹に頬を寄せて小さくうずくまった。そうしていれば、自分を脅かす何者も自分を見つけることはできないのだといわんばかりに。
 タイラントは、行ってしまったのだろうか。竜への変化に耐え切れず、シェイティに最後の声も残さず。
「無理もない、かな」
 昨日のあれを見れば、それで当たり前だと言う気もする。よく耐えた、と褒めてやりたい気すらした。枝を見上げ、シェイティはけれど何も見ていなかった。
 その顔が、一瞬にして引き締まる。振り返れば、鋭い羽音。タイラントが飛んでいた。口に何かを咥えているのが見え、シェイティの顔は血の気をなくす。
 血の味を、知ってしまったのだろうか。そうして、思い出す。彼には決して獲物の生き血を味わわせまいとしてきた自分を。
「ごめんね、シェイティ」
 飛び続けてきたのだろうか。よろりとして、枝ではなくシェイティの側に降り立った。帰りが遅くなったことを詫びているような言葉。けれどそうではないことにシェイティが気づかないはずもない。
「逃げたかと思ったよ」
 タイラントの帰還に、ほっとしているなどおくびにも出さずシェイティの口からは皮肉が漏れる。
「危なくそうなるところだったけどね」
 そう言って、タイラントは足元に落としたものに目を向ける。再び咥えて飛び上がろうとして、体に力が入らなかった。
「それ、なに」
「いきなり飛んでいかないように、縛っておこうかと思って」
 なんでもないことのよう言って、タイラントはそれがシェイティによく見えるよう端を咥えた。丈夫な蔓だった。
 どこに生えていたのだろう、と考えシェイティは顔はかすかに青ざめる。森に、決まっている。タイラントは夜のうち、森に行っていたのか。
 獣が、いくらでもいただろう。獲物になるものが。タイラントの目にそれは温かいご馳走としか見えていなかったはず。
 シェイティの視線が、ちらりと牙に走る。それを察したのだろう、タイラントはそっと口を開けて見せた。
「生き血は、知らない」
 それだけを言い、タイラントは蔓を咥えて飛び上がる。疲れきった体に鞭打つように、飛んでなんとか枝に止まった。
「なにしてるの」
「だから、縛るんだよ」
 蔓とタイラントが格闘していた。枝の上、がさがさと音がする。シェイティは手を貸すことなく見守った。
 無駄だと、たぶん互いにわかっていた。竜が目覚めれば、蔓で縛ったくらいではなんの役にも立たない。あっという間に引きちぎってタイラントは飛び立つだろう。
 それでもタイラントは木に自分の体を縛り付けていた。頑丈に、息をするのも苦しそうなほど。
「そんなことして、歌えるの」
「歌うよ。俺は約束した」
「そう?」
「最後まで、君のために歌うよ。シェイティ」
 竜が、微笑んだ気がした。竜の顔は、笑うようには作られていないはずなのに。シェイティの目には確かに彼の笑みが見えた。
「今日も、いい天気だ」
 朗らかに言って、タイラントは歌をはじめた。いつごろからだろうか、時折歌に歌詞が混じるようになったのは。
 シェイティは、それを彼の衰えと取っていた。音楽だけでは、自分の思いを表現できなくなっている。最初の歌は、彼の喉だけが奏でる音楽ですべてを伝えていたのに。
 いまのタイラントは、当たり前の吟遊詩人のよう、歌っていた。喜びに満ちた愛の歌。勇敢な英雄の歌。農作業の合間の戯れ歌に酒場の歌。
 他愛もない歌なのに、タイラントが歌うとかけがえのないもののよう、聞こえてしまう。これが世界の歌い手の歌か、と思う。
「なに、それ……」
 不意に頭上に視線を飛ばしシェイティは彼を睨みつける。一度声を収め、タイラントはわずかに顔をそむけた。
「もうすぐ、おしまいだからね。君の歌も、聞いて欲しいんだ」
 そう言って、シェイティの返答を待たず再び歌いだす。二人の出会いを、別れを。そしてタイラントの願いを。




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