最初の夜は、何事もなく暮れた。シェイティは、タイラントが正気を保てるのはよくもって三日だと思っている。 それくらい、動物に変化するのは危険なのだ。他の人間の姿をまとうのではない。シェイティが、以前タイラントの前に姿を見せたときにはそうしていた。あれはただの複雑な幻影だ。 だが、タイラントにかけた呪文は違う。彼が持つすべてを、魂を変えてしまう。だから、三日の後、そこにいるのは青くて小さな野生の竜のはず。 夜の中に歌声が降り注いでいた。シェイティは、木の幹に寄りかかったまま体を休めている。歌を聞くともなしに聞いていた。 歌詞のない歌だった。まるでタイラントが楽器になってしまったかのような歌声。少しだけ惜しい、と思った。 世界の歌い手とも称される吟遊詩人が、自分のためにそのすべてを投げ出そうとしている。 「……当たり前じゃない」 それくらいの償いを求めてもいいはずだった。それだけのことを自分はされた。だが、ともシェイティの心の中の一部分が言う。自分もまた同じことを彼にした、と。 「違う」 あんな酷いことはしなかった。心の中に呟いて、シェイティはいったい彼にされた何が酷かったのだろうと自問していた。 体のことは、あまり気にしていなかった。本当は、もっと気にするべきなのだろうと思えば嗤えてしまう。 それでもあのようなことをして生きてきた過去を持つシェイティは、それを気にすることができない。言うまでもなく、不快で腹は立つ。 それでいて、あの時のタイラントに謝罪したい気持ちがあったのも、確かだ。そして詫びる立場の自分が彼に何を要求できるはずもなかったことも理解している。 「同じ」 ぽつりとシェイティは呟いていた。その声が、竜に聞こえないはずはない。だがタイラントは何も問わずにひたすら歌い続けていた。 時が尽きるのを惜しむように。もうすぐいなくなってしまう自分の歌を、少しでもシェイティが覚えていてくれるように。 歌に、歌詞がないのも当然かもしれないとシェイティは思う。それほどの思いがこめられていた。言葉になどとてもできない。 暮れていく日を見ていた。赤い夕陽が世界を染める。夜が訪れ、星が輝く。天を渡っていく月影。そして穏やかな朝が来る。タイラントは歌い続けていた。 「疲れないの」 不意にシェイティは頭上に言った。歌がやみ、竜が翼を震わせる。 「まだ、平気」 話し声には、疲れが滲んでいる。それでも歌声はわずかにも乱れていなかった。 「そう」 特に話したいわけではなかったのだ、とばかりシェイティはうなずいてあとを続けない。タイラントが再び歌いはじめる前、だがシェイティは彼に向かって干し肉を放り上げた。 「ありがとう」 嬉しそうな声がした。シェイティはタイラントを見もしなかった。がさがさと音がする。竜が枝の上で干し肉を齧っている。 「別に」 言いながら、なぜか見上げてしまった。不安定な枝の上で干し肉相手に奮闘する竜が意外と可愛い。そう思ってしまったことでシェイティの胸の中に何かが戻ってくる。 「いや……」 小さく首を振った。まじまじと青い竜を見る。大切にしていたあの銀の竜ではない。そこにいるのは違う竜。 心に言えば言うほど、自分の中に嘘が目立つ。わかっていた。姿形が違えども、あれはタイラント。それくらいシェイティにも、わかっていた。 「歌って」 シェイティの要求に、タイラントは嬉々として歌いだす。何がそれほど楽しいのだろうかと不思議でならない。 彼は正気を失うと、本当にわかっているのだろうか。わかっているのだろうな、とシェイティはうなずく。 そして気づいた。だからこそ必死に歌っているのかもしれないと。自分と言う魂が消えていく恐怖から目をそらそうと。 「なら、いいや」 それならば、自分の目的にも適う。きゅっと唇を噛みしめて、シェイティは耳を澄ます。いつの間にか自分が彼の歌に聞き惚れていることには、気づかなかった。 さすがに疲れたのだろう。タイラントの声がやんでいる。それにシェイティはひっそりと笑った。運命の三日目が、これから明ける。素晴らしい朝焼けに、心が浮き立つと同時に自分の卑小さが気になった。 「関係ない」 心に言ってシェイティは木の上を見上げた。タイラントはそこから動こうとはしなかった。ずっと、枝の上で歌っている。 こんなに長い間歌を聞き続けたのは、シェイティもはじめてだった。少しずつ、自分が何をしているのかがシェイティの中に染み込んでくる。 この自分が、世界の歌い手を奪おうとしている。この世界から。柔らかく澄んだ声を。豊かで生命そのもののような声を。 声だけではない。タイラントが歌うのはこの世界。そこには喜びがあふれていた。木々、草原、空を渡る雲。陽射し、月の光。人々の営み。醜さも美しさも、タイラントは同じ価値に歌った。 彼の、この世界に寄せる信頼を感じないわけはなかった。すべてのものを慈しむタイラントの歌。そこにはシェイティもいた。世界の一つとして。 わずかに、心がざわめいた。他の何かと同列に歌って欲しくなどない。自分は、彼にとって。そう思ったことでシェイティは目を開く。口許には自嘲の笑みが刻まれていた。 「同じじゃない。闇エルフの子」 世界から、この歌を奪うなんて、悪そのものだとシェイティは感じている。闇エルフの子の仕業として、これほど相応しいものはないとも思う。 不意に、歌が途切れた。それも唐突に。歌いやめたのではなかった。シェイティは満足そうに竜を見上げる。 「そろそろ?」 正気を失くしそうか、と本人に向かって尋ねる残酷を理解していないわけではない。だからこそ、シェイティは尋ねた。 「……まだ。もう少し、たぶん」 竜の顔がはっきりと歪んでいた。ぐっと体を伸ばして、心まで伸ばすようタイラントは深く息を吸い込む。 再び始まった歌に、シェイティはかすかな落胆と、それに倍する安堵を味わっていた。 「どうして」 呟く。彼がいまだ正気であることを、自分が喜ぶ必要などどこにもない。彼の魂を殺そうとしているのはこの自分なのだから。 それでもシェイティは戸惑っていた。あれだけ苦しそうだった息が、いつの間にかに豊かな歌声に変わっている。 「もうすぐ」 なくなってしまう。それを切望しているはずの自分の心が、どこかにさまよい出てしまった気がしてならなかった。 「不思議――」 こんなことがあるとは、シェイティは思わなかった。自分が戸惑っている間に、日はまた暮れていく。三日目が、終わってしまう。 「ねぇ、まだなの」 見上げて尋ねれば、苦笑の気配が降ってくる。枝の上から、竜が首を伸ばしてこちらを覗いていた。 「まだ、平気だと思う。それともさっさと済ませたほうがいい?」 まるでなんでもないことのようタイラントは言った。信じられなかった。シェイティはじっと竜の顔を見つめる。 そこに確かな苦悩を見て取った。それこそ、信じられなかった。彼は、自分の意思でいまだ正気を保ち続けている。 「別に」 「そうだね。俺が長く苦しんだほうが、気が晴れるだろ?」 「そうかもしれないね。どうでもいいけど」 気のない素振りで言って、その実シェイティは混乱していた。長く苦しませたいのだろうか。そうだと言う声と、違うと言う声。シェイティはどちらにも揺さぶられて、身動きができなかった。 シェイティの手が、我知らず喉許をなぞっていた。彼は、気づいていないのだろう。だがタイラントは気づいた。 「シェイティ」 彼に聞こえないよう名を呼んでいた。あの仕種に覚えがある。記憶を探るまでもない。以前、共に旅をしていた頃のシェイティの癖。自分の尻尾を彼はよく撫でていた。 タイラントは静かに振り返り、今の姿を見る。あのときとは似ても似つかない、それでも竜の体。本当はこれでよかったと思っている。 もしもあの銀の竜になってしまったらどうしようか、それを案じていた。よけいシェイティを苦しめてしまうと。 突然、タイラントは思い出す。ミルテシアの裏路地で彼を傷つけ続けた日々。シェイティはぼんやりと首筋を撫でていた。あの小さな竜を探して。 「ごめん」 呟きは聞こえなかった。誰にも届かなかった。届かせたいとタイラントは思っていなかった。 これほどすぐ側にいるのに、彼には何も届かないのではないか。恐怖がタイラントを襲う。タイラントが恐れているのは、自分を失うことではなかった。 彼に、何も届けられないこと。それこそを恐れていた。ゆっくりと、自分が消えていく。それを知っていて、なくなっていく自分を見つめなくてはならない。それが恐ろしくないはずがない。 だがそれ以上に、この歌がシェイティに届かないことをタイラントは恐れていた。ほんの欠片でもいい。いつか彼が何かの拍子に思い出してくれたなら。 「消えることに悔いはない」 嘯いて、タイラントは天を仰いだ。梢から、満天の星空が覗いている。こうして眺めてみて、どうしてこんなに世界は美しいのだろうと思えば涙さえ零れそうになる。 「いつか君が――」 誰かとこの空を見上げてくれればいい。そのときできれば歌を思い出して欲しい。シェイティもまた、世界に愛されているのだと、知って欲しい。 タイラントは木の根元にうずくまる彼を見ていた。はじめて見たときにはあれほど恐ろしかった闇エルフの子。今は少しも怖くない。なぜあのときあれほど恐れたかわからないほどに。 タイラントの目に、シェイティが映っていた。もうすぐ自分は彼のことも思い出せなくなるだろう。焼き付けるよう、シェイティを見ていた。 |