タイラントはシェイティの言葉じっと待っていた。彼が間違いなくするはずの決断を待っていた。シェイティは黙して語らない。
「シェイティ」
 呼びかけて一度言葉を切った。それに彼が視線を向けてくる、無言で。それが以前の自分たちを思わせてタイラントの胸の中が激しく痛んだ。
「君は、俺に復讐する権利がある」
「そんなこと。もうどうでもいい」
「でも、俺を痛めつけたいとは、思わないの」
「思うさ。でも――もう、どうでもいい」
 遠い目をしてシェイティが言う。タイラントは言葉を尽くすことができなくなりそうだった。今にも心がくじけそうになる。不意に背中に負った壊れた竪琴を感じた。
「シェイティ。俺の手も喉も命も、君のものだ」
 理解してくれるだろうか、言葉の正確な意味を。じっと見つめ続けるタイラントに、シェイティが目を向けた。
「吟遊詩人が、音楽を失う?」
 シェイティは理解して、その上で皮肉に問うた。そのようなことができるはずはないとばかりに。だが彼が見たものは、莞爾とするタイラントだった。
「それが君の慰めに、少しでもなるのなら」
「本当に、そんなことができるの。吟遊詩人のあなたに?」
 冷たい声。意味がわかっていて、シェイティは言っていた。タイラントはこくりとうなずく。言葉はない。
 信じられなかった。命よりもなお大切にするものを、タイラントは捧げると言う。そんな馬鹿な話があるはずがない、人間ごときが。
「疑われても、仕方ないね」
「当然だ」
「シェイティ。俺は――怖い」
 何を今更、とシェイティは思った。そして彼の表情を見て気づく。自分を恐れているのではなかった。音楽を失うこと、そのものを彼は恐れていた。
 タイラントの視線が外され、シェイティは息をつく。彼はじっと地面を見つめ、自分の両手を握り締めていた。その手が、かすかに震えていた。
「世界の歌い手が、歌を失う? ありえないね」
 叩きつけるような言葉であるにもかかわらず、シェイティの声は静かだった。真意を聞かせろ、本当の望みは何か、声の響きはそう尋ねているようだった。
「君は、魔法を失うことを考えたことがある?」
「ない」
「俺は、君にとっての魔法を失う。怖いよ、とても。それでも、俺には君に捧げられるものがこれしかない」
 突然、悟った。タイラントが言っていることは真実だと。真意も本音もない。彼ははじめから本当のことを語っている。
「できれば、もう一度ドラゴンに変えてくれないかな」
「どういうこと」
「君は言ったね。変化の魔法に、長く耐えられるはずがないって。そう日数を経ないで、俺は正気を失うだろう。君は、それを見ていればいい」
「……ドラゴンに変えれば、あなたはその場で声を失くす。今すぐ歌えなくなる」
「それは、困るな」
 言ってタイラントはなぜか笑った。シェイティは見ていられなくて目をそらす。そらした理由が、自分ではわからなかった。
「困るなら、声は残してあげてもいい」
「うん、それがいい。俺は、きっと最後まで歌うだろう」
 目を戻せば、微笑むタイラント。シェイティはまじまじと彼を見ていた。変わった、と少しだけ思った。
 あの時の人間と、これが同じ人間だろうか。そして同じだ、と思った。人間だから、きっとすぐにまた、あのようなことをするに違いない。
 この男さえいなければ。うっかり手を貸してしまったりしなければ。自分は弟子に取りたいと思えるほどの誰かを見つけ、一人前の魔術師として、師の名を頂くことができただろう。
 そうして憎む反面、彼を見つけたのは自分だ、との思いも心の片隅には、あった。はじめて出会った、魔法を教えたいと思った誰か。それはタイラントだった。
 その思いは否定しない。それでも出会わなければよかったと思う。今も星花宮でカロルは待っていることだろう、不甲斐ない自分の帰りを。
「君に、知って欲しいんだ。世界は本当に綺麗だ。俺も、知らなかったよ、こんなに美しい世界に住んでるなんて」
 タイラントは淡々と口にしていた。その中に情熱を感じられないシェイティではない。彼の目にあるのは、世界を知った熱。
「君に、これを知って欲しい。だから、俺は最後まで歌うよ。君に俺の歌の全部をあげる。ちゃんと聞いてくれなくってもいい。君の心のどこかに残れば、それでいい。いつか――」
 タイラントは空を見上げた。何かをこらえる仕種だ、とシェイティは気づく。だが同情はしなかった。幾らでも苦しめばいい、そう思ってようやく復讐の機会があるのだ、と思う。
「君に、幸せになってほしいよ」
 タイラントが微笑んで自分を見つめていた。そこにあるのは、とてつもなく澄んだ何か。シェイティの人間観が、わずかに揺らぐ。
「あなたには、関係がない」
 断ち切るよう言い、シェイティは手を掲げた。魔法をかける、とタイラントは悟っただろう。もう一度はっきり微笑んで、そして目を閉じた。
 色違いの目が、見えなくなる。人間としての彼の目を見るのはこれが最後だ、となぜかシェイティは思った。
 自分の思いに戸惑い、シェイティは魔法を放つ。もう少し、怯えさせてからにしようと考えていたにもかかわらず。
 そのせいだろうか。シェイティにしてはまずい魔法だった。穏やかに済むはずの変化が閃光を伴った派手なものになる。
「ちっ」
 舌打ちを一つ。その仕種が師に似ていて、シェイティは仄かに微笑む。そして目を戻したとき、そこには竜がいた。小さな、あのときと変わらない大きさまで縮められた、竜が。
「やっぱりね」
 自分の声に滲んだわずかな落胆。それがシェイティを動揺させていた。振り払うよう首を振る。シェイティの前には、確かに竜がいた。
「俺……」
「変わってる。声も残した」
「そっか。ありがとう、シェイティ」
 なぜ、そんなことを嬉しそうに言うのだろう。もうすぐ、正気を失うとわかっているはずなのに。シェイティは竜に手を伸ばしかけ、やめた。
「違うね」
 シェイティの言葉に竜が首を自分の背に向けた。長い首が優雅に動く様をシェイティは黙って見ている。
 驚けばいい、そう思っていたのに、タイラントはあまり驚いた様子は見せなかった。それどころか当然だ、とでも言うよううなずいてさえいる。
「前は綺麗な氷系のドラゴンだったのにね」
 人間のタイラントの銀髪を翼にしたような、淡い真珠のような銀だった。陽に煌く様は、何より目を楽しませてくれたのに。
「青いね」
 納得しつつも、残念そうなタイラントの声。シェイティはわずかな満足を感じる。
「そっちが本来だろうね。風系のドラゴンは、そんな色だから」
 言われてタイラントは自分の体を見下ろした。確かに以前とは違う、色ではない。姿形が違う。大きく違うわけではない。それでもこの体は風を切るのに適している、そう感じた。
「飛んでいけば? 僕の目の前にいる必要なんか、ない。目障りだし」
「シェイティ。君は俺の言ったことを忘れたの。俺は最後まで歌うよ、君の――」
 側で。最後は掠れた囁き声だった。うなだれた竜にシェイティは嗜虐的な喜びを覚える。自分の傍らで歌うことが許されるのか、それを彼は気にかけていた。
「勝手にすれば」
 言って、シェイティは無造作に手を伸ばした。はっとしてタイラントが強張る。次いで、竜の顔でも明らかなほどの歓喜が浮かんだ。
「シェイティ……」
 それ以上何も言えずタイラントは飛び立つ。彼の肩に向かって。
「触らないで」
 だが、伸ばした手でシェイティは彼を大地に叩きつけた。彼が期待するだろうと、わかっていてしたことだった。
「……ごめん」
 体が痛むのだろう、風竜が大地にうずくまっている。中々滅多に見られる姿ではなかった。本物の風竜は、このような姿をさらすくらいならば死を選ぶ。
「歌いたかったら、歌えば」
 針で刺すよう、いたぶった。軋む体を起こしてタイラントが息をしている。
「うん」
 呼吸を整えているのだろう。そんな仕種さえ厭わしい。いっそ、今すぐ手にかけてしまおうか、そうも思った。
 だが、タイラントはあのときそうできたはずなのに、自分をいたぶり続けた。ならば自分も同じことを彼に返すだけ。
 丘の木の根元に腰を下ろし、シェイティはじっと木を見上げる。陽に透けた木の葉の色に、カロルの目を思い出した。自分の決断を彼はどう思うだろうか。許さないだろうな、とも思う。それでもシェイティは他にどうしていいかわからなかった。
「伴奏なんか、ないけどね」
「大丈夫」
「僕があげた竪琴、壊したんだものね」
 がさりと音がした。竜が、地面に爪を立てている。悔しいのだろうか、悲しいのだろうか。表情の読みにくい竜の顔からは窺えない。シェイティには、どちらでもよかった。
「大事に、していたよ」
「僕には関係ない」
「そう……だね」
 苦しげに言って、竜は飛び立つ。どこかに行くとは、思っていなかった。案の定竜は木の枝に止まる。見上げてみれば、竜はどこか満足そうに辺りを見回していた。
「さっさと歌えば」
 聞きたいわけではない。シェイティは心にそう言い続けている。彼が自分を捜しているのはずっと前から知っていた。
 彼の前に時折、姿を見せて歌を聞いた。自分が、捜したわけではない。彼の歌を求めたわけではない。得体の知れない気味の悪さを感じて、タイラントを監視していたのだと、シェイティ自身は思っていた。
 不意に、音が降ってきた。この世のものとは思えないほど澄んだ音。人間でもなく、竜でもない彼の歌声だった。




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