タイラントは必死に駆ける。突然、目に光が射して顔を覆った。森は終わり、広がる草原。小高い丘が見えていた。
「あそこ――」
 丘の上、一本の木が立っていた。風に揺れるたおやかな木。タイラントの耳はそこから音楽が響いてくるのを聞き取っている。
「シェイティ」
 呟いて再び駆け出す。恐れていた。それでも足は止まらない。シェイティがあそこにいる。自分を、呼んでいる。
「本当に」
 呼んでいるのか。心に問う。確かだ、と思う。そうでなければ彼は自分を露にしたりしないだろう。知らずタイラントは拳を握り締め、走っていた。背中を打ち付ける竪琴の重みが心に痛い。
 歯を食いしばって、走る。それでも木の本に辿り着く前には、息を整えた。シェイティは、姿形もない。人影すらなかった。
「シェイティ、いるね?」
 それでもタイラントは確信している。彼は、ここにいる。心に響く音楽は止まらない。彼その人を表すとしか思えない音が幾重にも心を圧倒していた。
 タイラントは空を仰いだ。すっくと立ち続ける木は、いったいいつからこの場に立っているのだろう。時の長さを思う。空の青さにこの世界を知る。誰一人としていないように見えるこの場に、すべてがある。そんな気がした。
「なにしに来たの」
 息を飲んだ。何者もいないはずだった。シェイティがいるのは、わかっていたけれど、それでも彼は影もなかったのに。
「シェイティ――」
 見上げれば、先ほどまで誰もいなかったはずの木の枝に、腰を下ろした彼がいた。厳しい顔に木漏れ日が射している。それは、シェイティ本来の姿だった。共に旅をしていた時の人間の顔でもなく、時折姿を見せた誰かの姿でもない。
 シェイティはいま、闇エルフの子の素顔をさらしていた。ぐっと胸が詰まって、タイラントは物も言えずに彼を見上げる。
 そのタイラントの前、ひらりとシェイティが飛び降りた。冷たく厳しい表情。以前の無表情よりなお顔色が窺いにくい。
「なにしてるの」
 問われて、意味がわからない。話したいと思っていた。ずっとそう思って旅を続けてきた。それなのに、今になって何も言葉が見つからない。
「あなたの歌を聞いた」
 その一言に、タイラントの呪縛が解ける。思わずシェイティへと一歩、踏み出す。彼は、黙って引いた。
「目障りだった」
 タイラントは拳を握り締め、下がったシェイティの足を見ていた。当然だ。そう思う。それでもやはり、悲しかった。
 悲しむ権利など、自分にはない。それもよくわかっていたはずなのに。わななきそうになる唇を噛みしめることでタイラントは耐える。
「あなたは、なにをしてるの」
 シェイティの問いに、タイラントは一度目を閉じた。ゆっくりと開け、呼吸を整える。シェイティが、聞いてくれることを願いながら。
「君と……」
 ようやく零れた言葉に声が掠れる。情けなくて、このまま逃げ出してしまいたかった。
「君と、もう一度。話しがしたかった」
 やっとのことで言いなおし、タイラントはそらしたくてたまらない目をシェイティへと向ける。彼はどんな顔をするだろうか。シェイティの表情は、いかなる意味でも動かなかった。
「そう」
 ただそれだけを言う。彼の意図が、わからなくなりそうだった。顔を合わせる気になってくれたからこそ、自分を呼んだのではないのか。わずかな希望が瞬く間に萎んでいく。
「だったら、用は済んだ。もう、行って」
「シェイティ!」
「話しがしたかったと、あなたは言った。話しは、したね。もういいでしょ、僕を放っておいて」
 するりと、シェイティが背を返す。咄嗟のことだった。彼に触れるつもりなど、少しもなかった。それでもタイラントは手を伸ばす。ここで行かせてしまっては、二度と会えない。それを心の奥でタイラントは知っていた。
「離せ!」
 掴まれた腕を、シェイティは振りほどく。声も体も強張って、嫌悪に歪んでいた。それにタイラントはかすかな歓喜を感じる。無表情よりはずっといい、と。
「ごめん」
 言って素直に離した。それでもシェイティを今すぐ行かせる気はない。それだけは断固として態度に表す。
「話しは――」
「うん、そうだね。話しはしたね、シェイティ。でもそうじゃないんだ。聞いて欲しいことが――」
「謝罪だったら、受け入れない」
 叩きつけるよう言った。タイラントは次第に冷たくなっていく彼の顔に、自分の表情を知る。仄かに、笑っていた。
「謝って、許されるわけがない。謝ることさえ不遜だと、俺は思ってる」
 淡々とタイラントは言う。かつてのシェイティのように。それをどうとったのだろうか。彼は少しだけ強張りを解いた。
「伝えなきゃね、いけないことがあるんだ」
「なに。さっさと言って」
 そして済ませてどこかへ去れ。シェイティの言葉にしなかった声がタイラントにははっきり聞こえる。聞こえなかったかのよう、タイラントは微笑んだまま続けた。
「トビィ、覚えてるかな。酒場の親父」
「覚えてる。それがなに」
「心配してた、君のこと。誤解しないで、シェイティ。トビィは君の生まれを知ったあと、俺にそれを言いにきた。いつかまた会うことがあるなら、それを伝えてくれって、言いにきた」
 約束を一つ、果たせた。たくさんの約束を破ってしまった自分がほんの少し、世界に借りを返せた、そう思う。
「それからメグ。忘れるわけないよね。メグはね、最初から君の生まれがわかってたって、言ってたよ。それでも君のことを気にかけてた。いまもまだ、待ってるよ」
 もう一つ。ささやかな、ほんのささやかな出来事。こんなもので自分の犯した罪の償いになるわけはない。それでも何もしないよりずっといい。
「メグはいま、君のお師匠様の元にいる」
「カロルの――」
「うん。ラクルーサの、星花宮って言ったかな。あそこで働くそうだよ。働きながら、君の帰りを待ってるって、言ってた」
 シェイティの気配が揺らいでいた。心に聞こえる音楽が、わずかに緩んだ。冬の終わり春の初め。仄かに温みを帯びた冷たい風のように。
「カロル様も、リオン様も、君を待ってる」
「知ってる」
「君は、人間が嫌いなの、シェイティ?」
「好きなわけがどこにあるの。僕が人間を好むべき理由があるなら、言ってみれば?」
「そうだね、俺はそう思う。でもシェイティ。トビィもメグも、カロル様もリオン様も、人間だ」
 言ってタイラントはしっかりとシェイティの目を見た。ここで退けば、何もかもが終わりだ、そう感じる。
「シェイティ。俺もやっぱり、人間だ」
 言わなくてはならないこと。シェイティに知らせなくてはいけないこと。タイラントの声は情熱を内に秘め、静かだった。
「君も、人間じゃないの、シェイティ」
「そう言われてる。闇エルフの血を引こうとも、僕は人間だ、そう言われた。カロルにもメロール師にも」
 シェイティは、遥かな過去を見つめる目をしていた。目の前のタイラントなど眼中にない。タイラントは彼と共に丘に立ちながら、一人きりであるような気がした。
「でも、違う。僕は人間ではない。少なくとも、人間が僕を同族とは認めない」
「そうじゃない人もいる!」
「それは変わり者って言うんだ。僕はだから、異種族だ」
 皮肉な声をしていた。シェイティのたどってきた道を思う。タイラントは言葉を見つけることができなかった。迂闊なことを言えば、また彼を傷つけるだろう。
「異種族でも。人間の中にも君を思う人がいる。君を案じて、夜も寝れないでいる人がいる。君は、とても大事にされている」
 シェイティは答えない。知っている、とすら言わなかった。
「異種族だから、なんだろう? 君は、塔を見せてくれたね。あそこに、半エルフの魔術師と人間の戦士が共に暮らした証があった。誰が見ても異種族の二人が。シェイティ、君が異種族でもかまわない」
「愚かな。あなたがかまわなくっても、僕がかまう。そうだね、人間の全部を嫌うわけじゃない。違うか……。人間は、嫌い。全部嫌い。ろくでもない害虫ばかり。その中にごく稀に好きな人がいる。それだけ。あなたは僕にとって、なんの意味もない屑同然の人間」
「わかってるよ、シェイティ」
「どこが?」
 シェイティの言葉の一つずつに、タイラントは打ちのめされていた。言われて当然だと思って予想していたことから、さして外れていないにもかかわらず。
 彼を目の前にし、彼の声で彼の言葉で言われる。それがこれほどまでにこたえることだとは、思わなかった。タイラントは深く息を吸い込む。こんな二人なのに、風は穏やかに澄んでいた。
「君がそう思うきっかけになったのは俺だと思っていいのかな」
「違うとでも?」
「ううん、それでいいんだ」
 はじめてシェイティの表情が揺らいだ。何を言っているのか理解できないとばかりに。タイラントは密やかに微笑む。
「シェイティ、君は人間を嫌ってるんじゃない。それも間違ってはいないと思う。でも、人間全部が、種族としての人間が嫌いなんじゃない」
「なに言ってるの」
「君は、俺が嫌いなんだ」
 自分で口にして、タイラントは声が震えそうだった。シェイティが、歓喜にも似た声を上げるに至って、ついに目を伏せる。
「シェイティ」
 視線は大地に落としたまま、それでタイラントは続けた。
「君が俺を憎むのは、当然だ。だから、人間を嫌いにならないで。あの人たちの他にももっとたくさん、いい人はいる」
「無理だね」
「君に俺を捧げる。それでも?」
 毅然として言い切った。いつの間にかタイラントは顔を上げ、シェイティをしっかと見据えていた。わずかに戸惑うようなシェイティの表情。今になってようやく、彼と話しができたのだ、そんな実感がタイラントの中に沸き起こった。




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