タイラントの指が、壊れた竪琴を撫でていた。言葉も、思考すらも浮かばない。いま彼にできるのは、ただ黙って竪琴を撫でることだけだった。
「あ……」
 指が腕木に触れる。ぐらついていたそれが、ぽろりと傾いだ。タイラントの頬に涙が伝う。血に汚れた竪琴に、涙が一滴降り注ぐ。
「シェイティ――」
 自分が手にしたものは、すべて壊れてしまうのだと思った。
「何が、世界の歌い手だよ」
 シェイティを苦しめ、竪琴は壊れ。大事なものはみなこの手の中で壊れていく。自分は破壊者に他ならない。
「ごめん」
 竪琴の残骸に、タイラントは呟く。自分の手に入ってしまったから、こんな最期を迎えることになってしまった。
 この自分が手にしさえしなければ、もっとずっと長い間音楽を奏でることができただろう竪琴。タイラントは自分の手指を見つめた。
「これが――」
 何もかもをだめにする。人も物も、壊してしまう。いっそこの手をも壊してしまえばいい。
「だめだ」
 それはできない。タイラントが首を振った拍子に、涙が頬から払われた。それまで、泣いていたことにも気づかなかったタイラントは何度か目を瞬いて口許を歪めた。
「これは――」
 手も指も喉も命も。シェイティのもの。こんな破壊ばかりするようなものを捧げてなんになるのかと思う。それでもタイラントにはそれしかできない。
 タイラントは壊れた竪琴をそっと抱きしめ、革袋にしまった。捨ててしまうなど、とてもできない。考えもしなかった。
「行こう」
 どこに。思った途端、タイラントは少し笑った。シェイティがいるかもしれないどこかへ。彼が見つけてくれるかもしれないどこかへ。
 歩き続けていれば、いつか出会えるだろうか。もう一度話すことができるだろうか。タイラントは願わない。希望を失ってはいなかった。それでもタイラントは願わなかった。
 森の中をふらりと揺らめくように歩くタイラントを見た狩人は怯えて逃げた。タイラントは気づかず歩き続けていた。
 いつの間に覚えたのだろう。旅の中で人のいない場所で。どこであっても生きていく術を身につけていた。
「いいな……」
 梢で、鳥がさえずっていた。楽しげな歌声に、タイラントは胸が締め付けられる。竪琴を失って以来、タイラントは歌っていなかった。
 また一羽、歌声が響く。鳴き交わす鳥の声にタイラントは耳を傾けていた。世界の歌とは、このようなものだと思う。
「人の歌は」
 醜悪だとまでは言わない。人間は、どこまでも愚かで生きていくに値しない、特に自分は。それでもこの命こそは守らねばならない、そう思える人間もいる。
 その人たちのためにこそ、歌はある。だからこそ、自分は世界の歌い手などではない、そうタイラントは思う。
 そのタイラントの肩に、鳥が止まった。息を飲んで立ち止まる。動けば、鳥が死んでしまうような、そんな気がした。
 耳許で歌う声。歓びが身に迫る。タイラントの両手が震えた。小鳥がタイラントの銀髪をついばむ。
「あ」
 軽い痛みと共に、小鳥は飛び立つ。そのくちばしに銀の糸が咥えられていた。タイラントの唇から苦笑が漏れる。巣に使うのだろうか。ずいぶん派手な巣になることだろう。
 そして驚く。自分はいま、笑っていた。小鳥の飛んでいった先を見つめタイラントはじっと立ち止まっていた。耳にはいまだ、鳥の歌声。
「俺、生きてていいのかな」
 もう少しだけ。シェイティに会うその日まで。
「歌って、いいのかな」
 不意に心の何かがほどけていた。破壊者である自分。それもまた一つの世界の様相。言葉にすれば、そうとでも言うよりない。
「違うよなぁ。なんか、違うよなぁ」
 タイラントは首を振って、息を吸う。言葉にできない。だから歌うしかない。たとえ何を壊してしまおうとも、自分にできるのはただそれだけ。
「君を、壊すことだけはしたくない」
 もう二度と。そのために自分はシェイティを捜す旅に出た。竪琴を失ってからはじめて、タイラントの目はしっかりと前を見た。
 彼の喉から声が漏れだす。歌、とは言えなかった。タイラント自身が世界の楽器。同時に、この上なく人間だった。
 鳥の声が、一瞬止まる。次いで、何事もなかったかのよう歌いだす。また一羽、また一羽と続き最後にはどよめくほどに。
 タイラントが声を収め、知らず閉じていた目を開いたときそこには驚くべき情景が。声もなく、タイラントはそれを味わった。
 木々には鳥が。根方には兎が。すぐ隣に蛇が憩い、狐が丸くなる。ありえない景色がそこにあった。タイラントの戸惑いなど、彼らは気づいてもいないのだろう、歌が終わったのをだけを知っていた。
「あ――」
 タイラントはぎゅっと拳を握り締めた。また、自分は壊してしまうのだ。なぜか知らず、自分が呼び集めてしまったらしい獣たち。すぐにも争いが起こるだろう。
 震えかねない思いでタイラントは目の前を見ていた。歌うことも、やめたほうがいいのかもしれない。束の間、そんなことを思う。
 すぐさま、別のものに支配された。驚愕に。獣たちは争うことなく静かに去って行く。狐が兎に目もくれず、去っていく。
「そんな……馬鹿な……」
 あるはずがない、平和。それは平和ですらない。己に逆らった行為でしかないはず。人間が、争いをやめることができないように、獣にとっても本能だ。
「それなのに、どうして」
 ほんの少しの間ならば、貪ることができるのだろうか。穏やかな時間を。タイラントは震えていた。
「見せたかった。君に、見せたかった。知って欲しかった――」
 自分が傷つけたシェイティにも、いつか誰かと共にすごす平和があるように願う。そのためにならば、どんな償いでもする。
 タイラントは意を決して歩き出す。もう獣の姿は見えなかった。
 握り締めた手を眼前に見据えた。ゆっくりと開く。喉に指先で触れた。壊すばかりではなかった自分。それを認められなくてタイラントは力なく首を振る。
「完全な悪である人間なんて、いませんよ」
 リオンの言葉が耳の中に蘇った。言われたときには、黙って首を振って否定した。自分がいる。そう、思った。
 だがいまは。獣たちは自分の歌に応えてくれた、とは思わない。この歌に、応えてくれた。タイラントは足を進めながら思い出す、歌の感覚を。
 歌っていたのは、自分ではなかった気がして仕方ない。タイラントと言う人間の誇りも醜さもすべてを超えたところから響いてきた歌。
「あれはきっと、俺じゃない」
 そう思った途端、楽になる。そしてぎょっとした。楽になりたいための考えなど、許されない。
 シェイティを傷つけたのも、自分。彼に隠し事をされて正気を失うほど悲しんだ。だが、正気ではなかったからと言って、彼を傷つけていいはずがない。また、それが自分ではなかったなどと言い張るつもりもない。
「同じかな」
 善も悪も、共に為すのが人間ならば。自分は正しく人間以外の何者でもない。
 ここに来てタイラントはようやく認めた。あの歌も、自分がしたことだ、と。そしてもう一つ。自分は世界の歌い手だ、と。
「信じられないよね、シェイティ」
 吟遊詩人に捧げられる中で最も誉れ高い称号の名に、相応しいとはやはり思えない。それでも自分は世界の歌い手だ、とタイラントは思う。
「選んだんじゃない」
 自分から、名誉を求めはしなかった。求めているのはひたすらにシェイティともう一度出会うことだけ。
「選ばれたんだ」
 何に。タイラントは自問する。そして答えは心にあった。
「歌に」
 タイラントならばそう答える。あるいはそれは、世界にと言い換えても同じことだったかもしれない。
 着実に、タイラントは足を進めていた。あてもなく歩く。それでも目標だけは見失わず。
 森を抜け、人家を通り。町をすぎ、山を超え。はじめは、何が起こっているのかわからなかった。かすかに感じたのは奇妙な何か。
 体の奥底が苛立つような、不思議な違和感だった。タイラントははっとする。無意識に壊れた竪琴を抱えていた。
「君……?」
 シェイティが、いる気がした。どこにいるのかはわからない。それでもずっと、見ていてくれた、そんな気がした。
 いつからだろうか。タイラントは必死になって思い出す。ぱたりとその足が止まった。呆然と壊れた竪琴を見つめる。
「まさか」
 あのときにも彼は側にいたのだろうか。まるでわからなかった。髪にも反応はなかった。それでもタイラントは確信する。確かに彼はあれを見ていた、と。
「シェイティ」
 泣きそうな声だった。情けなくて、みっともなくて、自分がどうしたいのかがわからない。竪琴が壊されるところを、見られてしまった。それが悲しくてつらくてどうしようもない。
 それでも、とタイラントは思う。あれからつかず離れず感じていた違和感の正体がシェイティであるのならば。
「君は、ずっと」
 自分を見ていたのか、と。何を考えて見ていたのだろう。どうしようもない自分を嘲笑っていたのだろうか。
「それでも――」
 いい。そう思いはしたけれど、シェイティはそんな男ではないとも思う。壊れた竪琴をそっと撫で、再び背に負った。
 そのときだった。タイラントの耳が音を捉えたのは。冷たい音が聞こえた。青い音色、奏でられる氷。吟遊詩人の心が捉えた、それは風を震わせることのない音楽だった。
 タイラントは駆け出していた。背負った竪琴が強く背を打つ。その痛みにすら、気づかず一心に駆け続ける。リオンの編んだ髪が、この先に彼がいることを確かに告げていた。




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