さまよい続けるタイラントは、気まぐれに人の世界から離れたくなった。シェイティが、そこに行けば見つかると思ってしたことではない。シェイティこそが、自分を見つけてくれるのだから。それならば、どこにいても同じこと。そうしてタイラントは森への道を選んだ。 深い森だった。昼なお暗い鬱蒼とした木々にたちこめる霧。薄ら寒いような気配がする。 「まずかったかなぁ」 木立を仰いだタイラントは静かに呟いた。その声が遠くまで響き、それでいてこもる。タイラントは苦笑して足を進めた。 どこへなどあてはない。足のまま、気の向くまま。旅のはじめごろ感じた焦りはいつしかなくなっていた。 「君に、会えたせいかな」 シェイティは、彼自身としては決して姿を現しはしなかったけれど、タイラントにはあれが彼だということがわかっている。 「君は、気づいてないのかな」 自分に感づかれているということを、シェイティが知らないとはとても思えなかった。それでも彼はやはり、違う姿を取る。 「いや、なのかな」 本当の顔を見せることが。そう思ってタイラントは暗澹とした。二度と、彼に危害を加えたりしない。決して傷つけたりしない。 タイラントは心に誓っている。が、シェイティがそれを信じなければならない筋合いはどこにもない。信じてもらえるなど、タイラント自身も思っていない。 森の中、タイラントはシェイティを思いながら黙って歩いた。木々に圧倒されのだろうか。不思議と竪琴を奏でようと言う気にもならない。 「だめだね」 こんなことではいけないのだ、と吟遊詩人の心は言うけれど、この森を歌うことが今のタイラントにはできそうにない。 恐れているとか、邪悪な気配を感じるとか、そういうことではないのだ。森に宿る生命の豊かさに、あるいは飲まれているのかもしれない。 「なに――」 だが、それがよかったのかもしれない。無言で歩くタイラントの耳に聞こえたかすかな物音。吟遊詩人の耳でなければ、決して聞き取ることはなかっただろう、小さな音だった。 知らずタイラントはそちらに向かっている。気づけば彼は足音を殺して歩いていた。旅をするようになって、そんなことを覚えてしまった自分に少し苦笑する。 突然だった、人影が見えたのは。はっとして立ち止まるタイラントの前、うずくまった人影が敵意を見せていた。 「待って!」 思わずタイラントは叫んでいる。心底、驚いていた。木に寄りかかるよう、うずくまっていたのは闇エルフの子。一瞬、シェイティが姿を変えたのかと思った。すぐさま否定する。間違えるわけはなかった。 「何もしないから、平気だから!」 この言葉を、信じてくれるだろうか。いまだ、少年に見える彼の顔は強張ったままだった。それなのに、ぞっとするほど美しい。闇エルフの子の特徴的な美貌だった。人を誘惑し、情欲を煽るとしか言いようのない顔。タイラントの脳裏にメロールの顔が浮かぶ。半エルフの透明さを帯びたそれとは、相容れないと言いたくなるほどに、違う。 「離れろ――」 声に、タイラントは息を飲む。ようやく気づいた。闇エルフの子は、酷い怪我をしていた。 「何か……」 「離れろ!」 「側には行かない。だから、怖がらないで」 反論を許さず、タイラントは心を決めてその場に座る。闇エルフの子が、短剣を抜き放ったのが目に入る。それでもタイラントは動じなかった。 そしてタイラントは片目を覆った布を取り去った。色違いの目を少年に向け、にこりと笑う。闇エルフの子の顔色が変わったのを、見てしまった。 それでもタイラントの気持ちは変わらなかった。自分がかつてしたことを彼がしたからと言って、どうして彼を非難できようか。緊張を解いて目を伏せる。できれば、同じ人間から排斥される身として、怖がらないで欲しかった。 淡々とした手つきで、タイラントは竪琴を革の袋から取り出した。闇エルフの子に視線を向けず、静かに奏でる。 「なにを……」 戸惑っているのだろう、彼の声。年若いのだろう、とタイラントは感じ取る。いまだ澄んだ響きをしていた。 「少しだけ、歌わせてね」 疑問に答えるよう、タイラントは言った。わけがわからない、と彼はきつく唇を引き結んでタイラントを睨む。 竪琴の音が変化した。闇エルフの子は、それを聞き取っただろうか。タイラントは軽く目を閉じて歌っていた。 「あ――」 闇エルフの子の声。ようやくタイラントは目を上げて仄かに微笑む。服の破れ目から覗いていた怪我が、よくなりつつあった。 旅の間に、気づけばこんなことができるようになっていた。誇らしい、とは思わなかった。ただ、ありがたいとは思う。 誰をも傷つけた自分が、こうして誰かを癒すことができる。それがひたすらにありがたい。これも一つの魔法の形なのだろうか。タイラントにはわからない。わからないけれど、癒しの歌は、誰よりもタイラント自身を救っていた。 「少し良くなった?」 答えはない。タイラントは竪琴に目をやって、かすかに口許を緩めた。シェイティが贈ってくれた竪琴が、いま彼と同じ境遇の少年の助けとなっている。 「もう一曲」 やはり、答えはなかった。タイラントは彼を見もせず歌っていた。見られることを、きっと闇エルフの子は望んでいない。 傷が治っていくのを、タイラントは自分のことであるかのよう感じている。それなのに、苦痛の気配はいや増すばかり。喉が締め付けられるよう感じてしまうほど、強烈な苦痛。 「何がしたい」 不意に闇エルフの子の声。途切れさせることなくタイラントは歌いきる。それでも竪琴は奏で続けた。自分の心の深い場所から湧き上がってくる、癒しの力を彼へと送る。それしか考えていなかった。 「目の前で怪我してる人がいたから、応急処置。そんなに変かな?」 歌い続けた喉だった。それでも疲労を感じるほど歌ってはいない。だがタイラントは喉に異変を感じている。それは喉、ではなく彼に迫る危険の予告だったのかもしれない。 「治して、どうする? どうせ、人間なんか――」 すべてを言うことなく闇エルフの子が飛び上がる。傷は、そこまで治っていた。それをタイラントが喜ぶ間もない。 「待って!」 咄嗟に体をひねる。だが、身軽な少年は短剣を振りかざしてタイラントに襲い掛かる。 「誰が!」 少年の目の中、タイラントは闇を見た。そして悟る。これが、いま自分が感じている苦痛の正体だ、と。 「人間なんか!」 短剣が、タイラントの頬を掠めた。ぴしりと切れた傷が熱い。タイラントは自分の体より先に、竪琴を庇った。 「殺されるより先に、殺してやる」 低い声。澄んだ少年の声がそのような言葉を放つなど。悲しく思う間もなかった。少年の手がタイラントの髪を掴んでは手繰り寄せる。 「やめて!」 色違いの目に、はじめて恐怖が宿るのを、闇エルフの子はなんと見たことだろう。少年の手には、リオンが編んだ髪があった。 「離して。お願いだから」 タイラントは片手を竪琴から離し、少年の手に添えた。それが、彼を激高させる。はっとしたときにはもう遅かった。 「離せ!」 少年の短剣が、タイラントの手を傷つけていた。手の甲を浅く切っただけ。それでも血は流れる。血に怯えたのだろうか。少年が息を飲む。 そしてそれに怒りを覚えた彼はさらに短剣を振った。力のこもった一撃だった。よけることのできなかったタイラントは、自らの体で庇うだけ。竪琴を。 「あ……」 短剣が、弦を切り飛ばす。勢いのまま、竪琴の腕木を壊しタイラントの肩までえぐる。吹き出した血が、竪琴にかかるのを、呆然と見ていた。 弦が弾け、無残に壊れた竪琴を見つめるタイラントを少年もまた唖然と見やっていた。いまならば、とどめを刺すのも容易だった。心を失ったよう動きを止めて壊れた竪琴を見つめる男を、少年は見る。 短剣を振る。タイラントの血が刃から飛んだ。闇エルフの子は、何も言わずに立ち去った。タイラントをこれ以上害すことなく。 「シェイティ……」 それにも気づかず、タイラントは竪琴だけを見ていた。彼からもらった大切なものが、自分の手の中で壊れていく。 そっと竪琴を撫でてみる。弦は、張り替えればいい。だが、壊れてしまった。泣き出すこともできず、ぎゅっと手を握り締めれば、ようやく肩が痛む。 「あ……」 見回して、闇エルフの子がいないのをはじめて知った。それから自分がまだ生きていることも。不思議だった。 「殺せたはずなのに」 生きることを許してくれた。不意にそう思う。彼は、人間からどんな扱いを受けたのだろうか。シェイティへの仕打ちを思いタイラントは唇を噛む。彼もまた、限りない苦痛を受けたのだろう。それでも、生きることを許してくれた。 「ありがとう」 どこかへ去ってしまった闇エルフの子に、聞こえるとは思わなかった。聞かせようとも思っていない。誰への感謝だったのだろう。そしてそれは感謝だったのだろうか。タイラントには、自分の声が謝罪のよう、聞こえていた。 静かに肩に手をあてる。竪琴に視線を落としては、目の奥が熱くなる。それに耐えてタイラントはそっと歌った。自分で自分の傷を治したことはなかった。治るのか、確かめたこともない。 深い傷は、薬では治らないだろう。タイラントは怯えながら歌う。目を閉じて、傷が治ることだけを一心に考えて。 そして傷は、塞がった。それでもタイラントはいまだ青ざめたまま。動きにくいような気がする手指で、竪琴の弦を張り替える。張り替えようと努力する。 「シェイティ――」 指は動いた。肩の傷の影響に、強張ってはいたけれど、動いた。タイラントの喉から漏れるのはけれど苦痛の響き。竪琴は、何を奏でることもできないほど壊れていた。 |