どこへともなく向かっているときのことだった。タイラントは心の趣くまま、竪琴を奏でていた。音楽に没頭しているとき、タイラントの頭からは危険と言う言葉が消えてしまう。そして実際、危険は少しもなかった。
「ねぇ」
 不意にかけられた声にタイラントは振り返る。少しばかり驚いていた。背後にいる少年に、まるで気づいていなかった。
 だがしかし、なぜか不安には思わなかった。自分が気配を見落としたとしても、無理もないことだとタイラントは思う。
「なにかな?」
 十歳ほどだろう。遊びまわったせいだろうか。濃い金髪を泥で汚した少年が首をかしげている。タイラントは彼の目線にあわせるよう、体をかがめた。
「あなたが、世界の歌い手?」
 少年の澄んだ声にタイラントは苦笑する。黙って首を振れば、彼はあどけない顔をして目をみはった。
「違うの」
「そう、呼ばれることもあるけど……」
「じゃあ、そうなんでしょ?」
「自分では、まだとても、ね」
 吟遊詩人、最高の称号に相応しい人間だとは思えない。そのような思いがまだ幼い彼にわかってもらえるだろうか。タイラントは言葉を濁して苦く笑った。
「でも、いいや。歌を聞かせて?」
 少年は、タイラントの戸惑いになど気づきもせずにっこりと笑った。タイラントが拒むなど、考えてもいないのだろう。道端に腰を下ろして期待にあふれる目をしてタイラントを見上げた。
「いいよ。なにがいい?」
「なんでも」
「そっか。じゃあ、こんなのは?」
 タイラントが奏でだした明るい音楽に、少年は顔をほころばせるでもなくじっと聞き入っている。それがタイラントの注意を引いた。
「吟遊詩人に、なりたいの?」
 三曲ばかり立て続けに弾いた後、思いついて尋ねてみれば、少年は黙って首を振る。それから突如として立ち上がっては、慌しく礼を言って駆けていく。
「困ったな……」
 少年を見送るタイラントの口許には、かすかな笑みがあった。道端の木に、タイラントはもたれかかる。
「シェイティ――」
 遠い空を見上げた。何度も目を瞬いて、涙をこらえる。それでも足らなくて、口許を覆った。食いしばった歯の間から、抑え切れなかった嗚咽が漏れる。
「君は……」
 タイラントの目は、いつしか駆け去った少年を追いかけていた。
 はじめてだった。ラクルーサの王宮を辞して以来、はじめてだった。リオンが編んでくれた髪に、かすかな反応。
 ほんの少し。本当にかすかなもの。タイラントが、これほどまでに求めていなければ、きっと気づかなかっただろうほどに。
「シェイティ」
 少年が駆けて行ったほうへと、髪は引っ張られていた。高ぶる気持ちを抑えるよう、タイラントは髪を手にする。
「あれは、君だったのか?」
 金髪の少年だった。シェイティとは、似ても似つかない。それでも彼は魔術師だ。姿を変えることくらい、できるのかもしれない。
「できる、よね」
 魔法で自分は竜に変わっていたのだ。ならば、シェイティが、小さな少年に身をやつすくらい、どうと言うこともないはず。
「会いに……」
 きてくれたのだろうか。違うのだろうか。そのときすでにタイラントはあの少年がシェイティであることを確信していた。
「行こう」
 彼が消えた方角へ。また会える、そんな望みは持っていなかった。だが、歌い続けば、いつかシェイティが聞きに来てくれるかもしれない。
「無理かなぁ」
 空を仰いでタイラントは呟く。まるで望みは持っていない。それでも彼の目許は和らいでいた。
 それ以来、タイラントは少し明るくなった。もしもリオンが今のタイラントの歌を耳にすれば、切迫感がなくなった、そう言うことだろう。
 タイラント自身、感じる。星花宮で歌ったときより、ずっと声の伸びがいい。いまだかつてこれほど伸びやかに歌えた例はない、そう断言できる。
 それが嬉しかった。吟遊詩人としての歓びではない。こんな歌が歌えるのならば、また彼が聞きにきてくれるかもしれない。
「無理だよね、きっと」
 口ではそう否定しつつ、仄かな望みを持つようになってしまっていた。
「シェイティ。会いたいよ」
 いま、どこに彼はいるのだろう。あれ以来、また髪の反応はなくなっている。それでもきっとどこかにいる。それだけを強く感じる。あるいは、信じる。
 タイラントは小さな村ばかりを選んで歌って歩いた。村から村へ、さまよい歩いていれば彼も姿を現しやすいだろうと。
 そうして一つの村を出て数日したころのことだった。街道の並木の陰から、ひょいと顔を出した少女がいた。
「吟遊詩人さん?」
「あぁ、そうだよ」
「じゃ歌って」
 年のころは十五六。吟遊詩人が無報酬で歌うわけはないと知らない年でもない。それでも少女は無邪気に言った。
 タイラントは何も問わずに木の根元に腰をおろして歌った。傍らで、立ったまま少女が音色に耳を傾ける。
「気に入ってもらえた?」
 やはり、三曲歌った。あの少年に聞かせたのとは違う歌を。見上げたタイラントの目に、少女の顔が飛び込んでくる。彼女は、無表情だった。
「全然!」
 言うなり、こればかりはあの時の少年のよう、駆けていってしまった。タイラントは腰を下ろしたまま、少女を見送る。
「器用だなぁ……」
 ぼんやりと口にしてみた。姿を変えられるのは、これで決まったようなものだった。
「性別まで、変えられるんだ」
 かすかな笑みすら含んだタイラントの声だった。目はいつまでも少女を追い続けていた。いつしか知らず、タイラントの手は編み髪を触っている。先に進もうと誘うよう、反応していた。
 シェイティだと、タイラントが信じる者を見かけたのは、実に数ヶ月ぶりだった。
「また、会えるね。きっと」
 竪琴を指で弾けば、柔らかな音色。シェイティは見ただろうか、この竪琴を。見ていないはずはない、とタイラントは思う。
 事実、シェイティはしっかりとそれを見ていた。竪琴のみならず、タイラント自身をはっきりと見据えていた。
 だからタイラントは驚かなかった。再び月を隔てて出会ったのは、今度は青年。共に旅をしていたころのシェイティに、見かけ上の年齢は一番近いだろう。だが彼はあの少年が成長したかのよう、濃い金髪をしていた。
「いい歌だと、自分で思う?」
 彼はやはり三曲を聞いた後、はじめて問いを発した。今までにないことだった。だがタイラントは即座に応ずる。
「まさか」
「どうして」
「歌いたい歌があるんだ」
「歌えばいいのに」
「……歌えない」
「どうして」
 青年が、不思議そうに尋ねてくる。思わずタイラントはシェイティ、と呼びかけそうになっては危うくこらえた。
「竪琴のせい? 酷い竪琴だね」
 言ってのけた彼に、タイラントは笑いそうになる。口をつぐんで首を振れば、彼は横を向いてしまった。
「違うよ。俺には、この竪琴は何より大事な、いいものだよ」
「そんな風に見えないけどな。どっかの古道具屋で買ったぼろじゃないの」
「どうかな。わからない。なんでもいいんだ、そんなことは。俺は、これを贈ってくれた人が大事だから」
 そこまで言ってしまえば、青年は駆け去るだろう、そうタイラントは思っていた。だが意外なことに、間違いなくシェイティである彼は、いまだそこに立っていた。
「竪琴のせいじゃないなら、どうして歌わないのさ」
 聞きたいことはそれだけだとでも言うような、突き放した声。シェイティの感情を滲ませない声に、響きだけがよく似る。
「聞かせたい人がいる。……違うな、聞いて欲しい人がいるんだ。聞いてもらえるかどうか、わからない。たぶん、聞いてもらえないだろうなぁ――」
 言葉の途中で、青年が去っていくのをタイラントは感じていた。それで、よかった。言いたいことは言った。
 彼がいなくなったのを充分確かめて、タイラントは呟く。
「シェイティ。君にだけ、聞いて欲しいんだ」
 いなくなったはずのシェイティが、その言葉を聞いているような、そんな気がした。タイラントは苦笑して首を振る。
「リオン様。ありがとう」
 遠いラクルーサの王城にいるはずのリオンに感謝を。竪琴を手放そうとした自分を止めてくれたことに。
 もしも竪琴を手にしていなかったならば、シェイティには会えなかったかもしれない。そっと視線を竪琴に移しタイラントは微笑む。
「ちょっと、運命じみてるかな。君は好きじゃないだろうね、こんな考え方は」
 運命は、自分で切り開くもの。きっと彼はそう考えている。自分は流れ流されてここまで来てしまった。彼と共に旅をしたのも、彼を傷つけたのも。いまここで彼に贈られた竪琴を手にしていることも。
 シェイティに告げた言葉は嘘ではなかった。本心から、大事なものだと思っている。たとえそれが、満足な演奏もできない代物であったとしても。
「シェイティ。君が好きだよ。また、聞きにきてよ。いつでもいい。ずっと俺は、歌ってるよ」
 その言葉すら、聞いている気がしてならない。髪の反応は、とっくに消えてしまったというのに。シェイティの、ありえない気配だけがタイラントの周囲を巡る。
「本当に言いたいことは、他にあるんだ」
 好きだなんて言うよりも、ずっと。彼に言わなくてはならない言葉が、他にある。それを言える日が来ればいい。
 タイラントはそれを願って歩き続けた。どこへ行くでもなかった。目的地は、シェイティ。それはタイラントに定められるものではなく、彼をひたすら待つ日々だった。




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