タイラントは何気なく自分の手を見下ろした。剣だこが、できていた。それが時間を表しているようで少し切ない。
 以前はまったく剣など使えなかった。ミルテシアの裏路地に暮らしていたころ、少しだけ剣を覚えた。それでは危うい、と言ったのはメロールだった。
「手ほどきしてあげなさい、リオン」
 言葉少なにそれだけを言った半エルフの魔術師は、わずかに微笑んでいなくなってしまった。カロルもあれから一度も姿を見せなかった。
 怒っているのだとタイラントはわかっていた。弟子を苦しめた自分を、カロルが許すはずがない。それなのに、カロルを大切にしているリオンは自分に微笑んでくれる。ありがたいより、混乱していた。
「さぁ、ちょっと練習しましょうか」
「リオン様」
「なんです?」
「俺は――」
「剣のひとつも使えないようじゃ、危ないですよ、あなた、どこに行くかわかってないんだから」
 そのとおりだった。シェイティを捜す旅は目的地などない。彼のいるところが、目的の場所。そしてシェイティの居場所は杳として知れない。
 リオンの稽古は厳しいものだった。決して指を傷つけないよう心がけてくれているのだが、タイラントにとっては苦しみでしかない。
「まぁ、こんなもんですかね」
 肩をすくめて言うのは、満足していないせいだろう。自分ならば間違ってもこのような腕で旅になど出ない、そうリオンの顔が語っていた。
「……ありがとうございます」
 はじめのころは、少し打ち合うだけで息が上がっていた。いまは、多少使えるようになっていた。リオンに敵うはずはなかったけれど、彼は盗賊程度の相手だったら大丈夫、と言う。
「リオン様」
 旅支度を整えたタイラントは、ためらいがちに声をかけた。見送りに立ってくれたのは、リオンだけ。カロルもメロールもいない。メグとは昨夜のうちに別れを済ませた。
「どうしました?」
 柔らかい声音の中、怖気ついたかと叱責される。違う、と首を振ってタイラントは彼の目をしっかりと見た。
「預かって、欲しいものがあるんです」
「なんです?」
「これを」
 そう言ってタイラントが差し出したのは、あの竪琴だった。リオンの目が驚きに見開かれる。それにタイラントは唇を噛んだ。
「本当は、手放したくありません。でも」
「だったら、持って行くことです」
「でも! 何があるか、わからない……。だから。俺は、この竪琴を壊してしまいたくない。リオン様、わかってください」
「わかってあげたいなぁ、とは思いますけどね。生憎、物分りが悪いんですよ、私」
 にこりとリオンが笑った。ぐっと拳を握り締め、タイラントはどう説得すればいいのか、惑う。彼ならば、きっと理解してくれると思っていたのに、と失望が顔に出そうだった。
「タイラント」
「はい」
「あなた、吟遊詩人ですよね?」
 何を今更、とタイラントは思う。リオンが何を言いたいのか、わからなくなりそうだった。戸惑いながらうなずいたタイラントに、リオンは笑みを向ける。
「だったら、持って行きなさい。あなたは剣士じゃない。フェリクスを捜すあなたは、剣士ですか?」
「違います!」
「なら、持って行くべきですよ、この竪琴ならばなおさらね」
「でも……」
「歌いたくない?」
 言いかねていたことを、はっきりと言われた。茫洋とした顔つきからは信じられないリオンの鋭さを、すでにタイラントは知っているつもりだった。
 それでも、問われた言葉に驚く。それはエイシャの神官が、口にするとは思えなかった言葉のせいかもしれない。侍女神メイザの神官でもあるリオンから、問われてタイラントはうなだれた。
「正直に言えば。はい」
「どうして?」
「それは……」
 言わなくとも、リオンにわからないはずがない。だから、リオンはあえて口にしろ、と言っているのだとタイラントは解釈する。
「シェイティが、いないから。他に理由はありません」
「うん、そうでしょうね」
「だから……」
「だからこそ、ですよ。タイラント。あなたにあるのは歌だけでしょう。歌を失くしたあなたには何も残らない」
「……要りません」
「あなたが要らなくともね、タイラント。フェリクスは、どこかで聞いているかもしれないとは思わないんですか」
 そんな希望を持てるものか、タイラントはわずかに唇を歪めた。肩に置かれたリオンの手。タイラントは振りほどくよう首を振る。
「私はね、聞いているんじゃないかなぁ、と思うんです。そのつもりで、歌と共に旅に出るといいですよ」
「――リオン様」
「きっとね、聞いてますよ、フェリクスは……いえ、シェイティは、ね」
 そう、リオンは片目をつぶって離れていく。タイラントは答える言葉を持たなかった。黙って頭を下げた。
 差し出すつもりだった竪琴に視線を落とす。いい音が出なくても、高価な楽器を贖ってくれたのはシェイティ。だからこそ、これ以上はない貴重品。
「気をつけてね。行ってらっしゃい」
 まるでちょっとそこまで出かけでもするかのような気軽な言葉に送られて、タイラントはラクルーサの王城を後にした。
 あれから三年の時が過ぎている。吟遊詩人の柔らかい手に剣だこができるくらい、時間が経っている。それでもシェイティの噂すら聞くことができていない。
「シェイティ……」
 彼が行きたい場所など、思いつかなかった。人間のいないところに行きたがるだろうか、そう思ってラクルーサの山々を歩いた。山賊に遭っては、切り伏せた。自分の手が血に汚れていくのを、ぼんやりと震えたものだった。
 それでもシェイティは見つからない。あるいは彼は、人混みに紛れてしまうことを選ぶだろうか。ラクルーサの、ミルテシアの町と言う町を歩いた。
 時間が、あっという間にすぎていく。いつしかタイラントの名は、各地で聞かれるようになっていた。世界の歌い手と、呼ばれるようになっていた。
「要らない……」
 名誉が欲しいと思っていた。自分の歌を響かせて、聴衆に囲まれたいと思っていた。いま、それが叶っている。
 少しも嬉しくなかった。だからこそ、自分は世界の歌い手と呼ばれるようになったのだ、とタイラントはいまはもうわかっていた。
 欲もなく、自分すら捨てて歌うこと。聞かせたい相手はただ一人。彼のためだけに、どこかで聞いているかもしれない、そう言ったリオンの言葉にすがってタイラントはどこに行っても歌い続けた。彼に美しい世界を知って欲しくて。醜いものを多く見たシェイティにこの世界の美の欠片を届けたくて。
 決して気配も噂すらもないシェイティのために。死んでしまっているかもしれない、とは考えなかった。
「シェイティ。いま、どこ」
 君はどこにいるのだろう。タイラントは空を仰ぐ。澄んだ青空に、鳥が一羽飛んでいた。懐かしく思い出す。
 あの空を飛んでいた自分のこと。シェイティの肩に止まったこと。彼の声、温もり、背を撫でる指先。懐かしい、としか思い出せない記憶が憎かった。
 もっとはっきり思い出すことができたならば、どれほど嬉しいだろうか。竜でいたころの記憶は曖昧で、時折シェイティの顔さえ忘れてしまうのではないか、そんな恐怖がタイラントを襲う。
「それはない」
 自分で自分に言い聞かせるよう、タイラントは呟いてしっかりと前を見た。実際、いままで彼のことを思い出せなくなることだけは、なかった。自分が彼にした仕打ちも含めて。
 タイラントはいま、どこへとあてもなく歩いていた。もうどこかを捜すことはやめた。シェイティが、もしも自分の歌を聞いてくれているのならば、きっと彼のほうから自分を見つけてくれる。
「不安だよなぁ」
 希望など、どこにもない。なぜ彼が自分を捜そうとしてくれると思えるのかなど、自分で自分が理解できない。
 それでももう、それしか方法がなかった。自分にシェイティを見つけることはできない。リオンが編んでくれた魔法のかかった編み髪も、今まで一度も反応しない。
「間違ってるんだな、きっと」
 何かが間違っていたのだ。シェイティを捜そうとしてはいけないのかもしれない。彼は、自分に見つけられたいと思っていないのだろう。
 それでもタイラントは歩くしかない、そう決めている。この命の尽きるその日まで、シェイティのために歌い、どこまでも歩くのが自分の定めだと、決めている。
 タイラントの前、また新しい村が見えてきた。こうして歩いてみて、アルハイド大陸がいかに広いかをタイラントは知った。
「狭かったな……」
 シェイティと出会う前に知っていた世界の狭さにタイラントは苦笑する。あれで一流の吟遊詩人だとほざいていた自分が、いまはとても恥ずかしい。
 村人を驚かせないよう、目の覆い布を確かめ努めて気楽な風情を装ってタイラントは村に入っていった。
「あ――」
「吟遊詩人が来たよ!」
「銀髪の人だよ!」
「あれまぁ、世界の歌い手かい? そりゃ凄い!」
 子供たちが駆け寄ってくる。女たちがさんざめく。タイラントは笑みを絶やさず彼らを見ていた。日々の単調な暮らしに、わずかな色を添える歌。それを求める人々の願いがこんなにも強いものだと、タイラントはそれも知らなかった。
「どこか、歌えるところはないかな?」
 駆け寄ってきた小さな女の子に尋ねれば、含羞んでうつむかれてしまった。あまり体が丈夫ではないのだろう、顔色がよくなかった。
「……あっち」
 そう言って少女は細い指でどこかを指す。タイラントは礼を言って、少女に手を差し出した。驚きながらも、その手をとってくれる。
 村の広場は、とっくに人々が集まって輪をなしていた。その中心でタイラントは歌った。すぐ側に、案内してくれた少女を座らせて。シェイティを思いながら、彼女に歌う。歌が終わったころ、少女の顔色は格段によくなっていた。




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