タイラントはあの時の幻影をまざまざと瞼の裏に思い浮かべていた。実際、偽のカロリナには会っているのだが、やはり幻影で見たあの印象が強い。
 実見した贋物は、もっとずっと崩れた雰囲気を持っていた気がする。それがあまりにも「悪い魔術師」に当てはまりすぎて、だからタイラントは幻影のほうがまだ本物に近いだろうと思うのだ。
「幻影だったから、多少は割り引いてね」
「可憐な男ねぇ」
「愛らしいっていうより、綺麗、だったけどね」
 首をひねるメグに話しながらタイラントはシェイティを思っていた。顔立ちは、可愛らしいと言ったほうがよかった。それでも目のきつさが、その意志の強さが容貌を裏切る。
 そんな彼を自分はあそこまで傷つけてしまった。彼の師も、リオンもきっと許すまい。思わず胸元を掴んだタイラントをメグが叩いた。
「しっかりおしよ、可愛い子」
「メグ」
「なに、飲まれてるのさ。リオン様は取って食おうって言うんじゃないんだろ。平気さね。だからしっりおし。そんな顔してたら――」
 励ましの言葉は途中で途切れた。リオンが出て行った扉が、爆音の響きを伴って開いた。呆気にとられて扉を見やる二人の前、旋風が飛び込んでくる。嵐と言うより、炎の固まり。
「テメェか、俺の可愛い弟子を泣かせやがったクソ野郎はよ!」
 突然、現れた男が目の前に剣を突きつけていた。息を飲んで動くこともできないタイラントを苛立たしく思ったのか、ぴたりと剣を首に押し付ける。すっと背筋が冷たくなった。
 呆然とタイラントはその男を見ていた。淡い金髪が肩の辺りで断ち切られている。翠の目が生き生きと輝いている。白い肌に血の色の透けた唇。がらがらと、幻影の記憶が音を立てて崩れていった。
 突如として思い出す、シェイティがその師を評した言葉の数々を。幻影とはあまりにもかけ離れていて、忘れていた。否、忘れたかった。
「はい、カロル。そこまでです」
 朗らかに言ったのはリオンだった。金髪の男の背後に立って、笑みを浮かべては彼の腕を押さえている。剣がリオンの手に移った、と見る間に消える。タイラントの胸に痛みが走る。シェイティの剣を思い出していた。
「離しやがれ、クソ坊主!」
「いま離したりしたらあなた、彼のことばっさりやるつもりでしょ。だめですよ」
「うっせェ! 離せったら離せ!」
 やんわりと掴んでいるようにしか見えなかった。リオンはいまだ微笑んでいる。それなのにどうしても腕を振りほどくことができないでいるらしい。タイラントは唖然として二人を見ていた。
「なんだか今更と言う気もしますけどね。この人がシェイティの師匠ですよ」
 改めてリオンはタイラントに向かって微笑む。信じたくなかったけれど、はっきり言われてしまってタイラントは思わず顔を覆いたくなった。
「シェイティ? なんだ、そりゃ」
「彼はそう名乗ったみたいですよ、カロル」
 不思議そうな顔をする男に向かってリオンが言えば忌々しげな舌打ち。
「あの馬鹿弟子め。根に持ってやがる」
「おや、そうなんですか?」
「シェイティってなァ、俺の悪口だ。あの馬鹿を引き取ったばっかのころだから、ずいぶん昔のことなんだがな」
 そう男は苦笑した。リオンにも何か思い当たる節があるのだろうか、少しばかり困ったような顔をする。
「可愛い子……」
 呆然としていたタイラントの耳に、同じく呆気にとられたメグの声が届く。何も考えずにこくりとうなずいていた。
「これが、可憐かい?」
「言わないで」
「あんた、もうちょっと言葉の意味を考え直したほうがいいと、あたしは思うよ」
「……俺もだよ」
 こそりと二人で言葉を交わすのに、男が険悪な目を向けてきた。真正面に見据えられ小さくメグが息を飲む。脅された、と感じたのかもしれない。知らずタイラントはメグを庇うよう、腕を差し伸べていた。
「ありがとうよ、可愛い子」
 感情をなくしてしまったかのメグの声だった。驚いてタイラントは彼女を見やる。メグは目を丸くして男を見ていた。
 タイラントがメグの視線を追えば、男も目を瞬いている。何かが起こっている。問いかけるようリオンを見ても、彼は黙って首を振るだけだった。
「――おい、あんた」
 男の声が、不意に静かになった。問いかけられているメグは唇を引き結んで彼を見ている。じっと、凝視している。
「いまは、なんて呼べばいい?」
 その言葉にメグが微笑った。花がほころぶような、とても老女とは思えないほどに澄んだ笑み。
「メグよ。あなたのことはなんて呼べばいいのさ」
「カロルだ」
「そう……。いい名前」
「あんたもな」
 にかり、カロルが笑った。メグも笑った。何が起こっているのか、タイラントには咄嗟にわからない。
 思わずメグを見やりカロルを見る。突然、気づいた。カロルは言った、いまの名は何か、と。メグに向かってそう尋ねたのだ。
 ならば、彼はメグを知っていたのか。メグと言う名ではなかったころの彼女を。タイラントの背筋に震えが走る。
 メグの過去。金髪の美しい男。いま眼前にいる、同じ金の髪の男。タイラントはメグを見て、そして口をつぐんだ。
「テメェ、何か聞いてやがるな? それでいい、賢明だ」
 カロルがタイラントに笑みを見せる。メグに見せたのとは違う、獰猛な獣のような笑み。ぞっとして知らずタイラントはうなずいていた。
「厄介な女連れてきやがったぜ」
 カロルはそう言ったけれど、表情は柔らかい。メグを見つめる目も穏やかだった。
「おや、どうしてです?」
 黙っていたリオンが口を挟んでカップを渡した。どうやら人数分の茶を淹れていたらしい。そんなことにもタイラントは気づかなかった。続いて渡されたカップにありがたく頭を下げて口をつける。温かくて香ばしい匂いがする。ほっとくつろいだ気持ちになった。
「あん? んなもん決まってるじゃねェか、この女が見てる前で、知り合いぶっ殺すわけにいくかよ」
「そりゃ、困るよ。やめとくれ。あんたのお弟子は、この子がけっこう気に入ってたよ」
「気に入ってた?」
 言ってカロルは鼻で笑った。当然だ、とタイラントはいたたまれなくなる。シェイティに、気に入られていたはずはない。少なくとも、いまは。
「あの馬鹿弟子はな、こっちに戻ってから丸々十日、飯も食わずに部屋に引きこもりやがった」
 メグに言いつつ、カロルの言葉はタイラントに向けられている。刺し貫かれるような、などというものではなかった。実際刃でえぐられた気がした。
「いまはどうしてるね、あの子は」
「――行方不明だよ」
「そんな!」
 思わず声を上げたタイラントに、カロルの視線が突き刺さる。
「俺は馬鹿弟子を連れ戻す気はない」
「……そんな」
「見捨てたわけじゃねェ。テメェと違う。フェリクスもわかってる。最後まで俺があの馬鹿を見捨てないのを、あいつは知ってる。だから俺は待ってるさ、いつまでもな。テメェみたいに捨てたりしねェ」
 吐き出された言葉にタイラントは叩きのめされていく。カロルは、彼の師は自分が彼に何をしたのか知っている。
「あの子は、フェリクスって言うのかい?」
 メグの声にカロルがうなずく気配がした。自分がつけた名だと呟くカロルの遠い声。明日を信じる希望、それを持つことのできる幸福。彼の呼び名にこめられた師の思いに、タイラントはじっと床ばかりを見ていた。
「あぁ……。名前負けしたかな」
「そうかい?」
「あの馬鹿には、幸せんなって欲しかったんだがな」
 ぽつりと呟かれた言葉。それが最もタイラントを打ちのめした。彼の師は、これほどまでに彼を大事にしていたのに。
「幸せになれるさ、きっとね」
 それはあまりにも場違いな響きだった。信じられない思いでメグを見れば、彼女はタイラントに向かって微笑んでいた。
「メグ……」
「あたしはそう思うよ。いい名前だよ、フェリクス。あの子にぴったりだねぇ」
「俺は……俺が……」
 何を言っていいのかわからなかった。何を言いたいのかもわからなかった。じっと拳を握り締める。
「おい、そこの派手。テメェは何がしたい」
「は……派手?」
「派手だろうが。銀髪に色違いの目ェしやがって。テメェ、何してやがった?」
「ぎ、吟遊詩人です」
「なるほどな。それらしいかっこしてやがる」
 タイラントの全身を厳しい目で見やり、カロルはうなずいた。はじめから好意的な目で見られるとは微塵も期待していなかったけれど、それにしても派手は酷い、とかすかにタイラントは思った。
「おいコラ、ボケ」
「なんです?」
「テメェ、なんでこれを連れてきやがった」
「あなたが会いたがるかなぁ、と思って」
 さらりと言うリオンにタイラントは感嘆の眼差しを向けた。シェイティ、今は本名がフェリクスと知れた己の弟子を馬鹿と呼び、愛する人――そのはずだ――をボケと呼ぶ。ならば自分が派手、でも仕方ないような気がしてきた。
「別に会いたかねェよ、こんな屑。なぁ、やっぱりばっさり殺っちまっちゃだめかな」
「だめですよ」
「だめです!」
 リオンとタイラントが同時に言う。リオンには少しばかり困った顔をして見せたくせ、タイラントに顔が向いた途端、翠の目が燃え上がる。
「なんだと?」
 ずい、と進み出るのをリオンが軽く背後から腕を掴んでとめていた。そうしなければ、一瞬にして殺されていた、そんな気がタイラントはしていた。
「殺されて当然のことをしたくらい、わかってると思ってたんだがな」
「わかってます」
「だったら、なんでテメェは生きている。とっとと死ね」
「死ねません」
「ふざけたこと抜かしてんじゃねェぞ」
「真面目です」
 ぐっとタイラントは拳を握った。ゆっくりと息を吸い、はじめてカロルを真正面から見つめる。ひるみそうだった。裸足で逃げたかった。
「俺は、殺されても当然のことをしました。だから、あなたに殺されるわけにはいかない」
 一度言葉を切り、カロルを見据える。それからリオンを見つめる。うなずいてくれたリオンに励まされ、言葉を続けた。
「この命は、シェイティのもの。俺は、吟遊詩人です。だから、この腕も手も喉もシェイティのもの。彼だけが、俺を壊す権利がある」
 誰にもそれだけは譲らない。タイラントの目にその思いを読み取ったのだろうか。カロルがかすかに溜息をついた。




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