エイシャ女神の本神殿を前に、体が震えていた。メグが隣で今更、と呆れている気配がする。それでもタイラントはしばしの間動くことができずにいた。
「……行こうか」
 絞り出すよう言った声にメグが背中を叩いた。痛みに少しだけタイラントは笑った。それで気が楽になるというものでもなかったけれど、息ができるようには、なった。
「さっさと片付けておしまいよ、可愛い子」
「……うん」
「しゃっきりするんだよ、まったく」
「……うん」
 上の空のタイラントにメグは呆れて肩をすくめた。二人はいま、ラクルーサの王都にいた。アントラルの街は今まで過ぎてきたどこの町より大きく美しい。
 それすらタイラントの目には映っていないのだろうな、とメグは思う。致し方ないこととは言え、もう少ししっかりして欲しいと思わなくもない。
「仕方ないかねぇ」
 呟き声もタイラントに聞こえた風ではなかった。タイラントは落ち着かなげに目の上の覆い布をいじっている。
 今日は茶色いほうの目を露にしていた。メグは何か彼なりの法則があるのか、と思っていたのだが、単に気分の問題らしい、とずいぶん前に気づいた。
 二人でここまで旅をしてきた。王都が近づくにつれて鈍りがちになるタイラントの足を進めさせたのはメグに他ならない。
「ほら、可愛い子。行くよ!」
 ぴしゃりと、尻を叩いた。まるで本当の孫にするような仕種にタイラントがようやく情けない顔をした。
「うん、行く」
 ぐっと拳を握り締め、タイラントはあたかも敵陣に突っ込みでもするかのような顔をして神殿を睨み据えた。
「その意気、その意気」
 茶化すよう言ったメグを振り返ったタイラントは、もう迷ってはいなかった。いつまでも迷ってなどいられなかった。神殿に行くために、ここまできたのだから。
 タイラントが一歩を踏み出す。メグが黙ってその背を追った。
 神殿の中は、静謐に包まれていた。この神殿らしい爽やかで落ち着いたよい香りがしている。立ち働く神官たちの動作もどこか音楽めいて優しい。
「あの――」
 なんと言ったものか迷いつつタイラントは一人の若い神官を呼び止めた。小首をかしげて神官はタイラントを見る。
「突然このようなことを申し上げるご無礼をお許しください。総司教様に、お目にかかりたいのです」
 神官は、さぞかし驚いたことだろう。旅の吟遊詩人がこのエイシャ神殿に詣でることは珍しいことではない。だが総司教に面会したい、などと言い出すものがいるとは思ってみたこともないに違いなかった。
「総司教様……ですか」
「はい」
「失礼ですが……?」
「タイラントと申します。総司教様には――銀の竜のタイラント、とお伝えいただければ、おわかりいただけるかと思います」
「銀の竜、ですか」
 派手な二つ名だ、とでも神官は思ったのだろう。苦笑されてしまってタイラントはやるせない気持ちになる。単に事実であって、通り名でもなんでもないのだとは、さすがに言えなかった。
「はい」
 きっぱりとうなずいたタイラントに、神官は取り次ぐかどうか、考えているようだった。それから決心したのか、うなずく。
「総司教様は、この神殿にはおいでになりません」
「……え?」
 神官の答えにタイラントは目を丸くした。ここはエイシャの本神殿。総司教がいるならば、ここ以外にないはずだ。それともまた留守なのだろうか。
「ここは本神殿ですが、実は本神殿はここではありません」
 タイラントの驚きなど、神官には珍しいものではなかったのだろう。苦笑しながら教えてくれた。
「本当の本神殿は、王城内にあります。が、王城の敷地では信者が参ることができませんから」
「王城、ですか」
「はい、王城です。ですから、総司教様はそちらにおいでです。いまから伝言をお持ちしましょう。それでよろしいですね?」
「はい!」
 総司教が王城にいる理由などさっぱりタイラントにはわからなかったけれど、神官が伝言を持っていってくれるというならばそれでなんら問題はない。
「ありがとうございます!」
 言い忘れていた礼を、すでに背を向けてしまった神官に投げれば、気さくに片手を上げて応えてくれた。
「よかったねぇ」
 ほっと息をつけば黙って成り行きを見守ってくれていたメグの声。
「よかったのかな?」
「とりあえず、お目にかかれるんだろ。よかったじゃないか」
「会って、くれるといいんだけど」
「くれない、と思うのかい?」
 タイラントは言葉にはしなかった。無言で首を振る。間違いなく、彼は会ってくれる。自分の歌と同じくらいそれを信じることができた。
 別の神官に案内されて、小さな部屋に通された。そこで待て、と言うことだろう。温かい茶と、甘い菓子を置いて神官は出て行った。
「おや、これ食べてご覧よ、タイラント。おいしいよ」
 気後れすることなくメグが菓子を口にしていた。タイラントはといえば、会ってくれるはずの彼を待つこの時間が落ち着かなくてならない。
「あぁ、うん」
 どうでもいい答えを返せば、メグのきつい目に睨まれた。慌てて茶を手にする。口に運んでから菓子を食えと言われたことを思い出したが遅かった。
「あぁ……いい香りだ。凄くおいしいよ、お茶も」
「そうかい?」
「うん、菓子も甘すぎなくっておいしいね。こっちもいい香りだ」
「なんか特別な香料かねぇ」
「エイシャ女神の神官たちは香りを操るから。それかもしれないね」
 タイラントの言葉にメグは首をかしげ、けれどそれ以上を言わなかった。できるだけくつろごう、と必死になっている意思だけを汲むことにする。
 二人はゆっくりと茶を飲み、菓子を口に運んだ。これがなくなってしまえば、間がもたないことを二人ともが知っているようだった。
 タイラントが茶を舐めるように口にする。その手がはっと止まった。扉が、叩かれている。返事と同時に、開いた。
「お待たせしてすみません。ちょっと手間取っちゃいましたね」
 実に気軽に総司教が部屋に入ってきた。タイラントは我が目を疑う。一度、会っていなければ、決して彼が総司教だとは思いもしなかっただろう。
 正装どころか、神官服すら身につけていない。着古した胴着は少しばかり袖が裂けていた。どこから見ても町の若者でしかなかった。
「リオン、総司教様……?」
「そうですよ。忘れちゃいました、私のこと?」
「まさか!」
「ああ……この格好ですか? ちょっと剣の稽古に付き合っていたもので。また切られちゃいましたねぇ」
 言って裂けた袖を悲しそうに見やる。呆然とタイラントはその様を見ていた。慌てて首を振って正気に返る。
「お目通りをお許しくださいまして――」
「あぁ、やめましょうよ、そんな面倒なこと。いいですよ、こんな格好で礼儀も何もあったものじゃない。それよりこちらの御婦人を紹介してはくれないんですか、タイラント」
 悪戯をするよう、リオンは言った。その言葉にタイラントはやっと正しく驚くことができた。彼とは、竜の姿のときにしか会っていない、それなのに。
「私がどうしてあなただってわかるか、不思議ですか?」
「いえ……」
「そうです。エイシャの神官ですから、私」
 にこり、とした。リオンに指摘されてタイラントは彼が人間の目では見ることのできないものを見ているのだと思い出す。それでもあまりにもあっさりと看破された驚きは強かった。
「こちらは、メグ。シェイティを、助けてくれた人です」
「もしかして、私の処方を教えたって、彼が言ってましたけど。その人?」
「はい、その人です」
 リオンのぼんやりとした口調に、どこか心和むのをタイラントは覚えた。メグはどう思うのだろう、と振り返れば瞬きばかりを繰り返していた。
「シェイティが、何かあったら彼のお師匠様を捜せって、言い置いていったみたいで」
「と言うことは、あなたは知らない?」
「……はい」
「なるほどね。彼らしい意地悪です」
「は?」
「いえいえ。彼の秘密主義はいまにはじまったことではないから、あなたは気にしなくっていいんですよ、と。そういうことです」
 そう言ってリオンは笑みを見せた。それがタイラントの心を焼く。気遣われる資格など、自分にはない。心の底からそう思う。
「それで、私のところに?」
「はい。総司教様なら、シェイティのお師匠様に伝言できる、と思って」
「できますよ。と言うか、連れて行ったほうが早いですから、それでいいですか、メグ?」
「は……はぁ」
「何か、不都合があれば――」
「とんでもない! ちょっと、驚いただけでございますよ。えぇ」
 慌てて顔の前で勢いよく手を振るメグにリオンが首をかしげる。どこかずれている、と言う自覚はどうやらないらしい。
「タイラント」
 そのリオンの顔つきが引き締まる。タイラントはぐっと拳を握って彼を見た。いまここにいる自分のすべてを見せるつもりだった。
 リオンには、それができる。タイラントの知識はそれを知っていた。だから、隠そうだとか言い逃れをしようだとかは考えもしなかった。本当は、少しだけ考えた。そんな自分を恥じてタイラントは覚悟を決める。
 エイシャの神官の目に、自分をさらす。タイラントの心が震えた。怖くないとは思わない、などと言うものではなかった。怖くて怖くてたまらない。醜い自分が他人の目に暴かれるのは、拷問にも等しい。
「はい」
 だが、タイラントは耐えた。それを寿ぐよう、リオンの目が和らいでいた。
「あなたの望みはなんですか」
 こんな抽象的な問いはなかった。それでいてこれほど具体的な問いもなかった。




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