酒場で二人はたいそうな歓迎を受けた。この日ミルテシアから到着した旅人もずいぶんいたが、吟遊詩人はタイラント一人だったのだ。
「歌っておくれよ!」
 ラクルーサ人の客の声にタイラントは優雅に一礼する。妙な気がした。まるで吟遊詩人のようだ、と。
 そう思ったことにタイラントはぎょっとする。竪琴をいじりながら自分を見失っていた時間がいかに長いのかを思う。
 ゆっくりと呼吸を整えて歌いだしたタイラントの声に客が一様に息を飲んだ。たかが旅の吟遊詩人。そう思っていたに違いない。
 だがタイラントの歌声はそれで済ますにはあまりにも素晴らしかった。魅入られたようタイラントを見ていた人々の目がいつしか閉じられる。歌に没頭していく様をメグは快く眺めていた。
「可愛い子、ちょっと聞いておくれ」
 さらに何曲かを歌ったあと、タイラントはあたかも古い馴染みであるかのよう人々に受け入れられていた。
 それがたぶん、つらいのだろう。メグの目はタイラントの目許にわずかな影があるのを捉えていた。だからかもしれない、そのようなことを言ったのは。
「なに、いいよ?」
 首をかしげて純真な孫のふりをする。それにメグは苦笑して一人きりで歌いだした。
 タイラントがはっとする。老いた喉だった。美声とはとても言いがたい。それでいて圧倒してくるもの。
「メグ……」
 彼女は娼家の出と言っていた。いつこのような歌を覚えたのだろう。きちんと学んだ自分よりさらに上を行く歌の響き。
「違う」
 タイラントは小さく呟いた。歌の技巧ではない。そこにこめられた想い。これこそが真に必要なものだといまのタイラントにはわかる。
 ずっと技巧ばかりを追ってきた。シェイティが知っている自分の歌はそのようなものだった。今、少しは歌と呼ぶに値するものを知った気がする。
 素朴と言うには力強いメグの歌にタイラントは耳を澄ませていた。ミルテシアの音楽ではなかった。はたと気づく。この土地と同じ響きがしていた。
 歌の終わりと同時に客がわっと沸きあがる。メグに向かってジョッキを掲げる者、メグにジョッキを押し付ける者、みなが明るい顔をして笑っていた。
「可愛い子」
 メグの一言にタイラントはうなずく。はじめてだった。だが、いまの自分にならばできる。その強い思いに動かされてタイラントは竪琴を爪弾く。
 彼は奏でていた、ラクルーサを。この大地に眠る思いの数々を。歴史、人々の生き様、流れた血。名誉。それからさらに重んぜられるべきもの。平和。
 気づけばタイラントは歌っていた。ミルテシアでは口にしたこともない言葉だった。同じ言語であるにもかかわらず、歌の言葉にすればこれほどにも違う。
 歌はラクルーサの冷たい氷河の音がした。目にしたこともない氷河を思いタイラントの喉は声を絞り出す。
 客の目など気にもならなかった。あれほど聴衆を欲していた自分と同じ人間だとは我ながらとても思えない。
 歌に取り憑かれていながらタイラントの一部は冷静にそれを捉えていた。それが正しい吟遊詩人のあり方と言うものかもしれない。不意にそんなことを思う。
 突然、歓声が聞こえた。驚いて目を開ける。それではじめて目を閉じたまま歌っていたのだとタイラントは気づいた。
「なに……」
 声を出して自分が歌い収めていたのだと知った。先ほど竪琴に終わりを奏でさせたのは覚えている。歌をやめたのも知っている。
 それでも、まだよくわかっていなかった。まだまだだ、自分の心にタイラントは呟いた。
「凄いな、あんた!」
「いったいどこでそんな歌」
「いやいや、そんなこたァどうでもいい。あんたは吟遊詩人だ」
「間違いない。世界の歌い手だ」
 タイラントはその声にぎょっとした。そのような尊称を賜れるほどの歌い手ではない。否定しようとしたのに声は喉に張り付いて出なかった。
「なに言ってるんだい、あたしの孫さ。まだまだだね、可愛い子?」
「もちろん!」
 メグの介入に感謝して叫べばやっと声が出る。彼女は悪戯するよう片目をつぶって見せジョッキを掲げた。
「メグ、飲みすぎだよ」
 どれほど歌っていたのだろう、いささか喉が痛い。ふらりと立ち上がってメグの側に行けばほんのりと赤い顔をしてメグが微笑っていた。
「まだまださ」
 くっと笑った彼女のジョッキが揺れる。慌てて手を出したおかげで中身を零すことはなかったけれど、メグはそれに自分で驚いたらしい。
「おやおや、あたしも弱くなったものさね。そろそろ部屋に戻るとしようかね、タイラント」
「うん、そのほうがいい。まだ旅は長いよ」
「やだね、この子ったら。あたしを年寄り扱いして」
 背中に置いた手を嫌ってメグはタイラントをぴしゃりと叩いた。それに客が沸き返る。タイラントはどうしようもないとばかり両手を広げて見せ、肩をすくめた。
「せっかくですが、このあたりで失礼を」
 かなり砕けた礼をするタイラントを幾たりかは名残惜しそうに引き止めたけれど、大半は祖母に尽くせと快く送り出してくれた。
 酒場を後にしながらタイラントは心地良い疲労に身を任せていた。これほど真剣に歌ったのはたぶんきっとはじめてだ。
「よかったよ、可愛い子」
 隣を歩きながら階段を上るメグがひっそりと言った。思わず足を止めそうになるのに背を叩かれる。部屋に入ってタイラントはまじまじとメグを見ていた。
「メグ――」
 少しも酔ったようには見えなかった。それに気づいたのだろう、メグは肩をすくめる。ふと気づく。娼家の出。その程度のことは今でもこなせる、そういうことかと気づいたタイラントは何も言わずにメグに水のコップを差し出した。
「ありがとうよ」
 一息で飲んだメグは少しばかり疲れて見えた。ベッドに座り腰の辺りをぽんぽんと叩く。それから自分の荷物を漁った。
「メグ」
「なんだい」
「俺の歌――。あれ、何が……」
「なんだい、自分で歌ってて気づかなかったのかい?」
 呆れ半分からかい半分。だがタイラントは冗談に付き合う気にはなれなかった。
「あんたはね、可愛い子。シェイティと一緒だったとき、あんな歌が歌えたかい?」
 黙ってタイラントは首を振る。あっさりと彼女の唇から出る彼の名。ずきずきと体中が痛んだ。
「シェイティと出会って、こんなことになって。だからあんたはあんな歌が歌えるようになった」
「――代償とでも?」
「さてね、それはあんたが決めることさ」
「メグ!」
「あたしはそうは思わないけどね」
 茶目っ気たっぷりに言い添えてメグは片目をつぶった。がっくりと肩を落としてタイラントは自分のベッドに腰を下ろす。
「あんたは歌が何かを知った。違うかい?」
「あってると思うよ。でも、よくわからない。俺――」
 そうしてタイラントは一度言葉を切り、それから自分が見たまるで幻視のような世界の美しさをメグに話した。
「やっぱりあんたは世界の歌い手さ」
「違う!」
「どうして嫌がるんだい? 名誉なことさ、吟遊詩人にとっては」
 問われても答えが見つからない。それを察したようメグはかつて自分が若いころ出合ったという世界の歌い手のことをゆっくりと話してくれた。
「あんたの歌には、同じものがあるとあたしは思うよ、可愛い子」
 紡がれる言葉にタイラントは肩を落とす。そのような偉大なものになりたいとかつては願った。いまはどうだろうか。
「シェイティ……」
 彼にだけ歌いたい。彼にだけ、聞いて欲しい。世界がどう見えようと知ったことではない、そう思う。シェイティがいなければ、自分の目に映る世は闇だ。
「あたしの想像を話していいかい? 願いかもしれないね」
 言ってメグはタイラントの返事を待たずに言葉を続けた。ぎょっとして彼はメグを見つめる。何を言ったのかがわからなかった。
「メグ……」
「あたしはね、可愛い子。あんたの歌はあの子のためにある、そう言ったんだよ」
「……まさか」
「どうしてだい? それもいやなのかい?」
「まさか! でも……。そんなわけ……。シェイティが。俺なんか……。だって、いなくった。俺はきっと……」
「死んだほうがいいとでも? タイラント。正気にお返り」
 ぴしりと言われて落としていた目を上げる。メグの厳しい視線に出会って再び床を見そうになる自分を強いて励ましてタイラントは彼女を見た。
「死んだほうがいい人間なんか、どこにもいないんだよ、可愛い子」
 人間。メグはそう言った。だが彼女の言葉の奥深くにあるものにタイラントは目を開かれた。人の子も神人の子もその子らも、すべてを含めて彼女はそう言う。間違いなく。
「メグ」
「あたしはね、可愛い子。最初から知ってたよ」
「……最初って、いつ」
「あの子の怪我を診たのは誰だと思ってるんだい?」
 ぐっと喉に詰まった。それでもメグは動じなかった。彼が闇エルフの子だと知っても少しも態度は変わらなかった。それなのに自分は。また自責に沈みそうになる自分をタイラントは情けなく思う。
「俺は――」
「あたしと比べるんじゃないよ、タイラント。あたしとあんたじゃ生きてきた長さが違うんだからね」
 それでいいことにしてしまっていいのだろうか。よくはない。だが今はメグの優しさを受け入れることにタイラントは決めた。決してそれではいけないのだと、知っていればそれでいい。
「メグ、体が痛いよね。俺に歌わせてよ」
 それが礼代わり。タイラントの癒しの願いをこめた歌は確実にメグの体を楽にした。意外に思ったとしてもメグは一言も挟まず、優しい顔をして笑っただけだった。




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