国境大河を渡った後の最初の町は大きなものだった。ミルテシア側のような小さくとも栄えている村、ではない。歴然とした町だった。
「こんなに違うんだねぇ」
 思わず溜息交じりの嘆声を漏らすタイラントをメグが笑う。その表情にタイラントは首をかしげて、つい尋ねてしまった。
「メグって、もしかしてラクルーサの人?」
 言ってしまってからまずい、と咄嗟に口をつぐむ。だが出てしまった言葉は取り戻せない。恐る恐るメグの顔色を窺えば、困り顔をしていたものの、怒ってはいなかった。
「まぁ、こっちの人間ではあるんだろうけどねぇ」
「ごめん」
「別にかまわないさ。あたしがラクルーサを出たのはずいぶん前だしね。それに――」
 一度言葉を切って肩をすくめたメグにタイラントはすまなそうに眉を下げた。自分が聞きさえしなければ、メグは決して語りはしなかったのではないだろうか。それでも話してくれたメグの優しさを思う。
「元々ラクルーサ人かどうかも、わからないのさ」
「え? そうなの」
「孤児だったからね。それが人買いに買われて……いいや、さらわれて、だね。誰も金なんかもらっちゃいないだろうから。それで娼家に売り飛ばされたのさ」
 なんという人生だろうか、そうタイラントは言葉もない。黙って前を向いて歩くことしか、いまの自分にはできない。それが悔しかった。
「あたしはね、それでも幸せだと思ってるよ、可愛い子」
「……どこが」
 言い方は悪い、そうわかってはいる。けれどタイラントにはメグの人生のどこが幸福だったのか、少しもわからない。
「亭主に会えたさ」
 だがメグは実に晴れやかにそれだけを言った。愕然として彼女を見やれば、真実幸せそうに微笑んでいた。
「だめな男だったよ、なれもしない魔術師目指してね。でも一生懸命だった。あたしのことも本気で思ってくれた」
「そっか」
「そうだよ」
 くだくだしい言葉は要らなかった。メグは力強くうなずく。きゅっとタイラントは拳を握って前を睨んだ。
「あたしは亭主に会ったよ」
 ではお前は何に出会ったのか。メグにそう問われた気がした。タイラントは答えられない。彼女のような幸福な関係を作ることもでき得たはずなのに、自分の過ちで失ってしまった。
「俺は――」
 言葉を続けることなくタイラントは首を振った。できればもう一度会いたい。会って、謝りたい。そのあとのことなど、とても考えられない。
「さぁて、そろそろ宿を探そうかね。ちっとばかし疲れたよ、あたしは」
 少し大きすぎる声でメグが言った。はっとして彼女を見る。軽く片方の眉を上げてメグは笑った。それにわずかながら気が軽くなるのをタイラントは感じる。
「そうだね。どうしようか」
 言いながら、気が軽くなどなってはいけない、そうも思う。自分はシェイティを苛んだ。その自分が楽になってなど、いけない。
「可愛い子。あんまり自分を責めなさんな」
「メグ!」
「どこに泊ろうかなんか、あんた考えてなかったね? シェイティのことを考えるのはいいさ。それが一番大事だとあたしも思うよ。でもね、タイラント。ぐちゃぐちゃと自分を責め続ける男ってのは、けっこうみっともないもんさ」
 そんな姿をシェイティに見せたいのか、言葉の外側でメグは言う。ぐっと唇を噛み、タイラントは顔を上げる。
「でも……。ちゃんと、謝れるかな」
 それでも口から出てきた言葉は弱気なものだった。それが情けなくてたまらない。自分はやはりだめな男だとそう思う。
「そうだね。そこそこくつろげるいい宿屋を見つけてくれるくらいの甲斐性があれば、できるんじゃないのかね」
 悪戯っぽく言ってメグが片目をつぶった。呆れてタイラントは溜息をつく。ついたはずが、笑っていた。
「そうそう、そのほうがいいよ。気楽になさいな、可愛い子」
「できないよ!」
 言い返しながらタイラントは町の通りを進んでいく。メグと歩みながら通りを飾る灯をぼんやりと眺めた。
 気楽になんか、とてもなれない。いまもシェイティをいたぶった記憶が体の奥にくすぶっている。自分にあれだけのことができるとは、考えてみたこともなかった。たかが一時の怒りごときもので、シェイティにあれほど酷いことをした。思わず握り締めた手の中、竪琴が硬くそこにある。
「シェイティ……」
 竪琴が、彼その人であるかのよう名を呼べば、どこかで呼び声が返ってくる、そんな気がした。タイラントの耳に町の喧騒だけが届く。
「あそこにしようか、メグ」
 朗らかに言っても、メグはきっと騙されなかっただろう。それでもにこやかにうなずいてくれた。ありがたい、つくづくそう思う。
 タイラントが目をつけた宿屋は、高くもなく安くもない、程々の町の人間が利用する宿らしい。一階の酒場もさほど下品ではなかった。それでいて活気はある。
「メグ」
「なんだい」
「ちょっと、稼いでもいいかな?」
「一々あたしに断るんじゃないよ、可愛い子」
 茶化して言われたのにタイラントは肩をすくめて竪琴を掲げて見せた。
「練習しないと腕が鈍りそうでさ」
「鈍りそう、じゃなくて鈍るんだろ」
「そのとおりだね」
 くすりと笑ってタイラントは宿の主人と交渉に行った。その背中をメグが少しだけ悲しげに見やる。
 はじめて会ったときにはあれほど仲のよかった二人だったのに、そう思えば二人のためにメグは悲しい。
「因果なもんだねぇ」
 宿の明かりの中、タイラントが主人と言葉をかわしているのが見える。彼の顔を見れば交渉は順調に進んでいるらしい。
「もう一度――」
 タイラントが手を振っていた。笑みを浮かべているからきっとうまく行ったのだろう。メグはよっと腰を叩いて歩き出す。
「会えればいいねぇ」
 メグは祈る。タイラントのために。シェイティのために。何より、自分のために。何かの縁で出会った二人が、不幸せな顔をしているのを見るのは、いやだった。
「メグ、二人部屋取ったからね」
 言ってタイラントはちらりと背後を窺う。主人はまだそこにいた。それと察してメグはうなずく。にこやかに主人を見やった。
「いい孫でしょうが、ご主人」
「ほんとにねぇ。最近聞かないねぇ。おばあちゃんと一緒に従兄弟んところだって?」
「それもあたしの孫さ。いい子だよ、ほんとにね」
 言ってメグはぽん、とタイラントの肩を叩いて見せた。あまりの芝居っけにタイラントがわずかに驚いた顔をしている。それが次第に嬉々としたものに変わっていく。
「メグ。俺は酒場で弾かせてもらうけど、聞く?」
「そうだね、晩御飯をいただきながら聞こうかね」
「じゃあ、まず部屋だ!」
 軽やかに言ってタイラントはメグの手を引いた。ちらりと見上げてメグが笑う。宿に入る前に縛りなおしたのだろう、色違いの目を隠す布は固く結ばれている。
 不憫なものだ、とメグは思う。ちゃんと見える目を隠していなければならないことは、彼にはどれほど不自由なことだろう。
 それでもタイラントはそうして生きてきたのだから慣れている。つまづくこともなく階段を上がり今夜の部屋へとメグを導いた。
「メグ、食事の前に風呂があるってよ」
「へぇ。珍しいもんだ。あんたはどうするね」
「どうするって! そんな……!」
「誰が一緒に入るかって聞いてるかね、この子は! あんたも入っておいでって言ってるのさ、まったく」
「だったらそう言ってよ! びっくりした……」
 胸元を押さえて荒い息をしているタイラントをメグは笑った。からかいたくなっては彼の肩を小突いた。
「なんだい、一緒に入りたかったのかい? 可愛い子」
「誰が!」
「おや、お言葉だねぇ」
「もう、メグ! 勘弁してよ!」
 悲鳴まじりに出て行ったタイラントの背中をくつくつと笑ってメグは見送った。実にいい気分だった。タイラントが少しでも明るい気分になったのならば言うことはない。
 メグはその後ラクルーサでも珍しい、魔法で整えられた浴室を利用してすっかりくつろいだ。ミルテシアからの旅人は、はじめてこれを目にして驚くものだろう。
「こけおどしさね」
 小声で言ってメグは浴室を振り返る。魔法で用意しようが人力で用意しようが風呂は風呂。それを知っているメグは設備をありがたいと思いこそすれ、驚倒したりはしなかった。
「メグ。風呂、凄かったね」
 だがタイラントは驚いたらしい。シェイティと共にすごしてきたというのに、おかしいものだとメグは笑った。
「魔法が珍しいのかい、可愛い子」
「そりゃね。俺はミルテシア人だから」
「あの子と一緒にいたのに?」
 からかいまじりに言えはかすかにタイラントの顔が曇った。わずかに後悔するものの、メグは悪いことを言ったとは思わなかった。
「やっぱり、珍しいと思うよ、俺は。何度見てもたぶん、そう思うんじゃないかな」
「どうしてだい?」
「だって……。凄いよね、魔法って。綺麗だったり怖かったり、考えられないようなことだったり。シェイティはさ、俺に言ってたんだ。魔法の才能があるって」
 そのときの声の響きを思い出せれば。タイラントはは願う。だが、やはり思い出せなかった。言われた言葉だけが虚しく耳に残っている。
「魔法、シェイティのも見たよ。凄かった。もっと見たいな、と思う。やっぱりちょっとは怖いんだけどさ。いつか――」
 なれるだろうか、魔術師に。なれたとしても、シェイティ以外の誰かから教えを受けたいとは思えない。だから、望みはない、タイラントはそう思う。




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