タイラントはぎゅっと竪琴を握り締めた。メグの信頼が、体に痛い。きっと、メグにはシェイティがそれほど自分に心寄せているように見えたのだろう。
「そんなこと、ない――」
「タイラント?」
「俺は、シェイティから信じられてなんか、いなかったよ」
 口にすれば心が軋んだ。だが、事実だった。シェイティは、決して自分を信じてなどいなかった。当然だ、といまはタイラントも思う。
「おや、そうかい?」
 だがメグはそう、茶目っ気のある目をして笑っただけだった。タイラントは返す言葉がなくて力なく微笑むばかり。
「それで、あてはあるんだろ、やっぱり」
 いかにも当たり前のことを言っている、そんなメグの声にタイラントは語りだす。
「あるのは……ある。と、思う」
「なんだい、その頼りない声は。あんた、吟遊詩人だろ。違うのかい?」
「吟遊詩人だよ!」
 声を荒らげて、ようやくタイラントに生気が蘇る。それをメグがにやりと笑った気がした。まんまとはめられてしまった、そう思ったけれどタイラントは嫌な気持ちになどならなかった。逆にほっと息をつく。
「あるのは、あるんだ」
「それで?」
「うん……」
 また、ためらいがちになってきたタイラントの背をメグは叩く。ひとしきり痛いと文句を言ってタイラントは意を決して話した。
「シェイティがさ、軟膏の処方をメグに教えたの、覚えてる?」
「忘れるもんかい。あれのおかげであたしはこうやって歩けるんだ」
 誇らかにメグは言った。顎を上げて、夕暮れの空を見上げる。その老いた目には、確かに世界を旅する歓喜があった。
「あの処方――」
「なんだかたいそうなもんだって、言ってなかったかい?」
「うん。たぶんね、凄く」
 言えばメグは驚くかもしれない。それを思ってタイラントは少し楽しい気持ちになった。
 不意に、メグと出会ってよかった。そんな気持ちが体に染みとおる。彼女と会って、こうして話をしてシェイティを捜す決心ができた。それだけではない。楽しい、と思うことすら最近は忘れがちだった自分をも思い出させてくれた、メグは。
「あれ、エイシャ神殿の処方みたい」
「エイシャ神?」
 訝しげな顔をするメグにタイラントは首を振る。それほど大きな勢力を持つ神殿できないせいだろう、神の名もまた知れ渡っている、とは言いがたかった。
「女神様だよ。俺たち吟遊詩人は、エイシャ女神か、その侍女神に信仰を捧げることが多いから、知ってたけど。シェイティの知り合いにいたのは、ちょっとびっくりしたな」
「あの処方の神官さんが、エイシャ女神にお仕えしてるんだね?」
「うん。エイシャの総司教様だった」
 言った途端、案の定メグは驚いた。驚きの激しさに足が止まる。次いで大きく息をしたかと思えば体を折って咳き込んだ。
「メグ!」
 慌ててタイラントは彼女の背を叩いた。驚くとは思ってはいたものの、ここまでとは思いもしなかった。
「あんた、年寄りを驚かせるもんじゃないよ!」
「ごめん」
「まったくもう……」
 ぶつぶつと文句を言うメグの背を撫でつつタイラントの顔には笑みが広がっていった。悪戯が過ぎたものの、おかげでメグとはなんとなく本当の祖母と孫のような気持ちになってしまう。
「総司教様ねぇ」
 首をひねって歩き出したメグの背を支えようとすれば、睨まれた。庇われるのは好きではない、と言うところだろうか。
「ごめん」
 老人と接する機会の少なかったタイラントには、どうやって彼女をさりげなく手助けすればいいのか、方法がよくわからなかった。
「いいよ、悪気があってしてるんじゃないことはわかってるさ。でもね、あたしにも誇りってもんがある。だめなときにだけ、助けておくれ。可愛い子」
 にこりと笑ったメグにタイラントは胸を突かれた。あのころ、シェイティと共に旅をしていたときの記憶が蘇る、メグのその呼び名に。
 幸せとは、あのようなことを言うのだといまならばよくわかる。失ってしまったシェイティを思い浮かべようと努めながら、タイラントは悲しみに沈んだ。
 酷く扱ったころの記憶が強烈すぎて、シェイティのあの仄かな笑みが思い出しにくい。そっと目を細めた仕種や、かすかな口許の翳り。そんなものはよく覚えているのに全体像となると定かではない。
 竜の背を撫でていた手つきが、一番思い出したくて思い出せない彼の仕種だった。いまのこの体に感じることができたならば、どれほどの慰めになることか。
 そしてタイラントは思う。慰めなど、この自分にあってはならないもの。それほど酷いことをした。シェイティを苦しめた。
「可愛い子。あんまり悩むんじゃないよ。なるようになるもんさ」
 忍び込んできたメグの声にタイラントは情けない顔をして笑った。なるように、なるものなのだろうか。
「総司教様が、あの子の知り合いねぇ」
 話を変えようと言うのか戻そうと言うのか、メグは再び言って首をひねる。夕闇が迫りつつあった。少し、足を速めなくてはならないだろう。もう村の明かりが見えつつあった。
「うん。だから、総司教様を捜せばいいんだ。手がかりって、言うのかな。これも」
「言うだろうさ。ちょっとでもシェイティに繋がってるんだろ」
「ちょっとじゃないと思うけどなぁ」
 シェイティが、実はエイシャ女神の総司教の兄弟子だ、などと言おうものならメグは卒倒しかねない。それを思ってタイラントは含み笑いをする。
「そうだ、メグ」
「なんだい?」
「俺と、一緒に行かない?」
「あたしは……。あんた、もしかしてまだ怖いのかい?」
 きゅっと唇の端を吊り上げたメグにタイラントは睨みつけられた。この期に及んで怖い、などと言えばメグから面罵されるだろう。それも悪くはなかったけれどタイラントは首を振る。
「まぁ、怖くないって言ったら嘘なんだけどさ。でも、俺は大丈夫。シェイティに、会いたいから」
「だったらなんであたしが?」
「うん。えーと、メグ。驚かないでね?」
 今度は一応、用心をすることにした。タイラントの言葉にメグが身構えて大きく息を吸う。
「これは言ってもいいことだと思うんだけど、あとでまずかったら、忘れてね?」
「いいからお言いよ、あたしを信用しなさいな」
 軽く言って、けれどメグは拳を握っていた。緊張しているのだろう、とタイラントはすまなく思う。
「総司教様、リオン様って言うんだけど、あの人とシェイティのお師匠様が――」
「そっちも知り合いなのかい? 世間は狭いねぇ」
「知り合いって言うか……その。メグ、驚かないでよ。なんというか、まぁ、両方とも男なんだけど……あのさ、その、恋人同士らしいよ?」
 言っててタイラントは恥ずかしくなってくる。リオンは確かにいい男だったし、幻影で見たシェイティの師は、美しい人だった。だが、どちらも男なのだ。
 メグがひっと、小さく声を上げた。タイラントは失敗したか、と顔を曇らせる。彼自身、恋に対しての禁忌は持っていない。だが、誰も彼もがそうだとは限らないことをうっかり失念していた。
「まぁ、驚いたこと。ほんと、世間は狭いねぇ」
 目を瞬いてメグは言う。その言葉のこだわりのなさにタイラントはほっとしていた。メグは単に驚いた、それだけだったのだろう。
 思えば彼女は若いころ娼家に勤めていた、そう言った。同僚には男もいたと言っていたではないか。タイラントは記憶の曖昧さが情けなくなってきた。これでは吟遊詩人などとはとても名乗れない。
「うん、だからね。俺と一緒に来れば、シェイティのお師匠様もすぐ見つかると、そう思うんだけど。どうかなぁ」
 最後は頼りなく持ちかける形になってしまった。本心を言えば、ここで一人になるのは寂しい。メグを独りぼっちで放り出す心配より、心細さが先に立つ。
 なんてだめな男なんだろう、とタイラントは内心に自嘲する。人のことよりまず自分のこと。そう思う自分をなんとか変えたい。
 シェイティを思った。なんの得にもならない自分に付き合ってくれた。師の元から奪われたという盗品を探す、そんな目的はあとから付随したもの。
 最初は彼にはなんの益もないのに助けると言ってくれたのだ。人を信じない。人間なんて嫌い。そう口で言いながらシェイティはいつも優しかった。
 嫌いなのもまた、真実だろう。そうタイラントは知っている。だがそんな人間に対してであったとしても、シェイティは優しかった。
 優しさの大きさが違う。そう思ったのはいつのことだっただろう。いまは少し、彼の心の幅の広さがわかるようになった。そう思う。
 もっと早くにわかっていれば。心に浮かぶのは悔いばかり。そうすれば、シェイティを痛めつけることもなかっただろうに。
「そうだねぇ。一緒に行こうかねぇ」
 メグの声にタイラントは正気に返る。少しばかり大きいメグの声だった。彼女を見やればにやりと笑う。
 ありがたいな、とタイラントは心底思った。こんな出会いがあって、自分はなんと幸福なのだろうと。そう思えば思うほど、シェイティに会いたくなる。
「よかった」
「なんだい、やっぱり怖いんじゃないか」
「そりゃ、ね。俺、総司教様との約束も破っちゃったから……」
「あんたねぇ……」
 メグの呆れ声にタイラントは首をすくめた。本当は、それで済ませてはいけないようなことだと、わかってはいる。
「うん、総司教様に謝りたい。違うな……」
「なにがだい?」
「謝んなきゃいけないのは、シェイティになんだ。でも、あんな酷いことして、俺。どうやって謝ったらいいんだろう。ごめんなんて、言えない。そんな簡単に済ませていいような、そんなことじゃない」
「わかってるなら、誠心誠意謝ることだね」
「メグ?」
「謝るのはあんたでもね、可愛い子。許すのはシェイティだろ? だったらまずシェイティがどうしたいかだよ。まぁ、会えばわかるさ。だから」
「うん。捜す」
 そうしてメグは、再会してよりはじめてタイラントの力強い笑みを見た。ほっと息をついて、一つ大きく彼の背を叩いた。




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