ラクルーサへと渡る、国境大河の渡し場は今日も相変わらず混んでいた。戦時ではないいまは、二つの国の人の交流は、さほど厳しくはない。
 それでも対岸に渡るには検問がある。そのせいで大河を王都へ向けて下るよりはずっと混んでいた。タイラントは検問の列を眺めるともなく見ていた。
 吟遊詩人である彼は、他国へと入るのに何も証明など必要としない。吟遊詩人である、それだけで充分だった。
「初めてだ……」
 それなのにタイラントはいままで一度としてラクルーサに行ったことがなかった。ミルテシアで充分、と思っていたわけではない。単に興味がなかっただけ、かもしれない。
 ラクルーサに興味が持てないのだと思っていた。だがそれは同時に自分の歌を磨くことに対して興味がなかったのだとも言えた。いま、タイラントはそれを知っている。
 みっともない、そう思った。それで一流の吟遊詩人など、どうして言えたのだろう。誇らしげに言っていた自分が情けなくて恥ずかしい。
「行こう」
 自らに言い聞かせるようきっぱりと言い、タイラントは足を進める。竪琴を握った手にぎゅっと力が入った。
 と、検問の列が乱れた。何事だろう、と思ううち衛兵の大きな声が聞こえてくる。
「だから、それじゃだめなんだって。婆さん」
 大きな声のわりに、衛兵は困っているらしい。衛兵、と言っても付近の若者なのだろう。できることならば便宜を計ってやりたいが、上官の目も怖い、そのようなところだろうか。
 そう感じたタイラントはそっと列に滑り込む。老婆と衛兵を取り巻いている人々にそれとなく話を聞けば、どうやら老婆はラクルーサに渡る証明書をなくしてしまったということらしい。
「さっきまであったんだ。本当だよ。それに――」
「孫んとこに行くってのは聞いたさ。婆さん。それでもなぁ」
「だったら何が悪いのかい。あたしの孫だよ」
 憤然として言い返し、そして上官の目をはばかったのか慌てて首をすくめた。タイラントは老婆にようやく目を留めた。そして目を瞬く。
「あの……」
 意を決して衛兵に声をかける。じろり、と睨まれてすくみそうになった。
「なんだ」
 老婆に対するのとは違う、いかにも衛兵らしい声で彼は問う。タイラントの身なりに堅実に土と共に生きる民ではない、との思いを持ったのだろう、表情が硬かった。
「その人、俺のつれなんです」
「なんだと?」
「ちょっと前にはぐれちゃって。国境大河で会えるかな、と思って捜しにきたら丁度。よかったなぁ」
 にっこりと言ってタイラントは老婆に向かって笑いかけた。話をあわせてくれるだろうか、そんな不安があったものの、老婆は心得たよううなずいている。
「なんだ、ようやく追いついたのかい。こんな婆さんの足に遅れるなんて、だから吟遊詩人ってのはねぇ」
「そう言わないでよ」
 タイラントは老婆に叱られる若者、を演じつつ首をすくめて横を向く。そして周りの人々に向かってちろり、と舌を出して見せた。そこここでぷっと吹き出す声がする。
「ちょっと待て、婆さん。この男はあんたの……」
 だが衛兵は顰め面をして二人を見比べている。老婆と吟遊詩人の二人連れは幾らなんでも無理がある。
「孫だよ」
「孫はラクルーサって言ったじゃないか!」
「あんた、頭のほうは大丈夫かい。孫ってのは何人もいるもんだよ」
「う――うるさい! おい、あんた。吟遊詩人だな?」
 やり込められて衛兵は喚き、次いでタイラントに目を向ける。どうやら芳しくない成り行きになりそうだった。疑いも露な目で見られては何かと色々やりにくい。
「それ、楽器か?」
「えぇ、そうですよ。吟遊詩人ですから」
「聞かれたことだけに答えろ!」
 怒鳴った衛兵に、周りの人々から不満の唸りが漏れ聞こえた。それにたじろいだだろうに、衛兵はかすかに表情を変えただけで言葉を接いだ。
「何か、弾いてみろ。吟遊詩人ならできるはずだな」
 意地悪げに言ってどうだとばかり老婆を見やる。どうやらタイラントは完全に信用されていないらしい。
「弾いておやりよ」
 投げやりに言った老婆にタイラントは溜息をついてみせる。
「ただで? 俺も商売なんだけどなぁ」
 ぼやいたけれどタイラントは衛兵の声を待たず竪琴を革袋から取り出していた。それに人々がどよめく。
 丁度いい余興だ、とでも思っているのだろう。タイラントはかすかな笑みを浮かべ竪琴を構えた。悪くはない気分だった。
 口ではああ言ったものの、このような状況で竪琴を弾く、と言うのは何か楽しくなってくる。衛兵を騙すのだろうと思えばなおさらに。
 タイラントの指が弦を弾き、喉が歌を奏でる。楽しげで悦ばしげな、秋の収穫のころによく聞かれる歌だった。つい、踊りだしたくなってくるのだろう、取り巻く人々が足を踏み、手拍子をする。
 タイラントはそこに一筆、手を加えていた。普通の演奏ではない。かつてシェイティに言ったよう、人を操る力を乗せている。
 衛兵に、自分たちは無害な旅人だと思わせるよう。目に留めるだけ時間の無駄になるような、農民の老婆と出来損ないの孫だと信じさせるよう。
「どうです?」
 一曲歌い終えたころには、衛兵の険のある目が和らいでいた。だが首を振る。そしてタイラントがもう一曲奏でる。そのときにはもう衛兵は彼の術中にはまっていた。
「よい。いいぞ、行って。おい、吟遊詩人」
「はい?」
「あんまり婆さんを嘆かせるな。正業につけよ」
 一つ叱り飛ばしただけでさらりと通してくれた。自分の腕には自信があったものの、タイラントはほっとする。
「ご忠告、ありがたく」
 軽く頭を下げて見せた、いかにも吟遊詩人風に。それに渋い顔をしたけれど衛兵は手を振っただけだった。
「さぁ行こうよ、婆ちゃん」
「あいよ。それにしてもなんて言い草かねぇ。吟遊詩人のどこが悪いんだい?」
「ま、普通の人には遊んで歩いてるようにしか見えないだろうさ」
「あんたは遊んでるだけだろ」
「そう言わずに、婆ちゃん」
 叱られる孫のふりをしながらタイラントは老婆を船の中へと誘った。周りの人々が好意的に笑っている声が聞こえる。
 船の隅へと二人きりで座るのに、かなりの時間がかかった。タイラントとしては別れてしまってもよかったのだけれど、孫のふりをしている以上、ここで別々になっては怪しまれる。しかたなしに老婆と共に腰を下ろした。
「悪かったね」
 人が離れたのを確かめて小声で老婆は言った。タイラントは黙って首を振る。
「実はさ」
 あまり打ち明け話などしないほうがいい、と老婆に言いたくともそれすら人に聞かれるかと思うと口に出せない。
「孫ってのも嘘でね」
 実にさらりと老婆は言った。思わずタイラントは咳き込みそうになる。まじまじと見やればにやつく老婆。心から呆気にとられていた。
「村にさ、居づらくなっちまってね」
「え……」
「別に何があったってわけでもないんだけどね。本当だよ?」
 言い添えるだけ、嘘が滲む、とタイラントは悲しくなる。ぎゅっと竪琴を掴んだ。
「そんなに掴むんじゃないよ、大事な楽器だろ。あたしのことはいいのさ。どうせ死ぬまでにもういっぺん村から出てみたいと思っちゃいたからね。ついでだからラクルーサに行こうと思ってさ」
「でも、ラクルーサに行って何か、その。あてはあるの」
「ないよ」
 こんな老婆が、住むところもなくして他国に渡って、いったいどうしようと言うのか。タイラントは湧き上がる思いを抑えきれずにいる。
「あたしみたいな人間はね、どこでだって生きてけるものさ。ラクルーサに渡ったら、とりあえず王都に行こうかと思ってね」
「それからどうするのさ! どうやって金稼ぐんだよ。金がなかったらどうやってパン買うんだよ!」
「大きな声をだすんじゃないよ。人に聞かれたら困るのはお互い様だろ」
 ぴしりと言って老婆は声と同じくタイラントの膝を叩いた。ぐっと喉に怒鳴り声を詰まらせて、タイラントは老婆を見据える。
「王都にだって下町はあるだろ。それともなにかい、小汚い裏路地があるのはミルテシアだけかい?」
「そんなことはないと思うけど……俺だって行ったことないし……」
「あるんだよ。そんなもんどこにだってあるもんさ。だから、そういうところに紛れちまえばいいのさ」
 なんでもないことのよう、老婆は言う。それがどれほど大変なことなのか、タイラントは身に染みてわかっているつもりだった。それでも自分には喉があった。竪琴があった。老婆には、何もない。
「でも……」
 自分に、何ができるだろう。いっそ老婆をミルテシアから出さないほうがよかったのではないかとまで思えてしまう。
「あたしは出たかったんだよ」
 はっとした。思わず老婆を凝視する。考えを言い当てられたことより、その声に優しさにタイラントは驚いていた。
「あんたが気にすることじゃない。ありがたく思ってるさ。ほら、このとおりにね」
 そう、老婆は茶化しつつも頭を下げた。これにはタイラントも慌てる。おろおろとしてどうにか頭を上げさせたものの、まだ老婆は悪戯そうな笑みを含んだままだった。
「ついたぞー!」
 声と共にどん、と衝撃が来て対岸についたのだと知る。おかげで老婆との話もそれまでになってしまった。
 人混みを抜け、どうにか船を下りたころにはすっかり人々は散ったあとだった。老婆の足とあっては致し方ない。もう少し、人の目がなくなれば老婆ともこれまでか、と思えばタイラントは忸怩たるものを覚える。どうにもできない、だがどうにかしたい。
「それじゃあ……」
 タイラントがためらいながら別れを切り出したとき、老婆の目がにやりと笑った。
「ここで見捨てるのかい、タイラント?」




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