老人と子供に見送られ、タイラントは商家を後にした。ほんの束の間、彼は悩む。このままただの吟遊詩人として旅をしようか、と。 「シェイティ……」 彼を捜さないほうが、彼のため。いまだ心にその思いがこびりついている。シェイティを思いながら、歌ってすごそうか。 「――できない」 ぎゅっと竪琴を抱え込んでタイラントは首を振った。嫌われても、嫌がられても、会いたい。もう一度、話しがしたい。 「行こう」 竪琴を撫でれば胸の奥が痛んだ。竜の体であったときの感触は、ほとんど覚えていない。それが残念でならなかった。 「覚えていれば」 シェイティに触れられたときのことを懐かしく思えるだろうに。そうタイラントは思う。だが、覚えていれば遥かにつらかっただろうとも思う。 「それくらい、当然か」 シェイティは償い、と言った。あれはどういう意味だったのだろうとタイラントは思う。隠し事をしていたことに対してか、それとも信用しなかったことに対してか。 「両方かなぁ」 天を仰げば晴れ渡った青空。爽快で涼やかな風が吹く。シェイティがいまいるところにも、この風は吹くのだろうか。 不意にタイラントは世界を感じた。いままで見もしなかったものが目に見える思い。かといって、何かが変わっているのではなかった。 色違いの目に見えるものは、普段と同じ世界。それでいてタイラントははじめてこの世界を見た、そんな気がしていた。 「詩人の、目……」 瞬いて、辺りを見る。ずいぶん前に歌の師から聞いていた。自分が何者かを知れば、なすべきことを知れば世界との一体感を得ることができるだろう、と。それを歌うのが、吟遊詩人だ、と。 「伝説かと思ってたのに」 今にしてタイラントはこの世を見た。よくぞいままで目をつぶって生きてこられたものだと思うほど、新鮮で美しい。 美だけではなかった。醜悪で、おぞましくもある。怠惰で、情けなくもある。 「人間の、世界」 これが、自分たちの生きる世界だとタイラントは知った。美しいだけでもなく、醜いだけでもない。両方が揃ってこその、人の世だった。 「あぁ……」 これを言葉にあらわすことができたならば。世界を知ってもタイラントはこれを歌うことができない。悲しい、とは思わなかった。悔しいと思う。 「いつか、必ず」 歌いたい、この素晴らしくも情けない世界を。 「シェイティ。君に」 聞かせたい。人の世のことなど、自分よりずっと彼はよく知っていることだろうけれど。人間の目から見た世界を、彼に聞かせたい。 闇エルフの子は、どのように世界を見ているのだろうか。少しでも同じところがあればいい、とタイラントは思う。 違うところがあったとしても、もう二度と気味が悪いとは思わないだろう。世界への眼差しを得たタイラントは、差異をもまた受け入れることができる。 「できれば、いいな」 呟いて皮肉に笑った。受け入れられるだろう、とは思う。だがその場になってみなければ何もわからない。 シェイティのことを思っていた。彼に絶対の信頼を寄せていると思っていた。それがたったあれだけのことで自分は正気を失うほど怒り狂ったのだ。 思い返して、恥ずかしさに身を焼くばかり。あれは自分ではなかった、正気ではなかった。そう言い逃れることは簡単だった。 「違うよな」 それをしてしまってはシェイティに許されることは決してない。そうタイラントは思う。それ以上に、自分は自分を許せないだろう、そのような偽りを口にしては。 シェイティへの様々な仕打ちを一つずつタイラントは思い返す。次第にその顔が青ざめていった。自分ではなかった、と言ってしまえればどれほど楽だろうか。 「あれも、俺だ」 ぎゅっと唇を噛んで前を見据える。ひたすらに歩いた。そうすることで苦痛を噛みしめようと。その身に刻んで己のしたことを忘れまいと。 竜に変化していたときのことを思い出す。記憶は鮮明でいまだ薄れてはいない。シェイティの言葉の数々も、仕種も思い出すことができた。 それなのに、感覚だけが、思い出せない。タイラントは知らず自分の腕に触れていた。 そうすることでシェイティに触れられたことを思い出そうとするようだった。だが蘇ったのは、別の記憶。 「シェイティ――」 癖になるほど触れていた自分の首筋。彼はそこに竜の尻尾がないことを寂しく思っていたのだと思えば泣きたくなってくる。 いまの自分と同じだった。ないものを探して、自分で自分に触れている。二度と帰らないだろうものを探しているのも、同じ。 「捜そう」 必ず、見つける。シェイティに、あの竜を取り戻してあげることはできない。それでも別のものは取り返せる。 タイラントはそれを願って足を速めた。着々とミルテシアの草原を歩いた。青い草を踏みしめれば豊かな匂いがする。 「感じなかったな――」 竜であったときはどうだっただろうか。少なくとも、それ以前、呪いを受ける以前の自分は草の匂いなど意識した覚えがなかった。 「だから、だめだったんだ」 吟遊詩人として大成できなかった理由が今はよくわかる。一流を気取った独りよがりで自分勝手な歌だった。それでもシェイティは耳を傾けてくれたのだと思えば、足が止まりそうになる。 強いて踏み出しタイラントは首を振る。人気のない草原を、タイラントは渡っていた。はじめは小さな声だった。次第に朗々と響く。 踏まれた草を歌い、立ち上がる草を歌う。花が咲き枯れては実り。繋がっていく生命。唐突に、歌声が途切れた。 「こんなんじゃないんだよなぁ」 長い溜息をついてタイラントは辺りを見回した。自分が感じている世界はもっとずっと大きい。こんな小さな歌詞ではとても歌いきれない。それが残念だった。 「大きいとか、小さいとかでもないかな」 言葉の定義が巧く出来ない。新しい感覚を手に入れたせいか、とタイラントは思う。だが違うとも思う。 元々、言葉を曖昧なままに使っていた、そう思っていた。 「だからだ――」 シェイティを信じる、と再三言っていた過去の自分。本当に信じていたのならば、あの程度のことで動揺などしなかったのではないか、とタイラントは思う。 あるいは、願うのかもしれない。自らのなしたことを悔い、そうであればよかったと願うのかもしれない。 いずれにせよ、タイラントは心からシェイティを信頼してなどいなかったのだと自らを省みていた。言葉を、そのごく表面的な意味としてだけ、使っていた。 「吟遊詩人だなんて、笑わせるよな」 気づいていたのではないか、シェイティは。そうタイラントは思う。彼は魔術師で、言葉の技に長けてはいないのかもしれない。 それでもどこかにかすかな確信があった。もし自分が彼を完全に信頼していたのならば、彼もまた隠し事はしなかったのではないか、と。 「シェイティ」 闇エルフの子であることを、あのときまで隠し続けた彼を思う。 「君は、知られたくなかった?」 幻影を解いた瞬間の表情を思い出そうと努めても、巧くはいかない。それがもどかしくてならなかった。 「俺が、嫌がると思ったから? それくらい、自惚れてもいいかな……」 聞こえないシェイティに問いかけて、タイラントは仄かに笑った。きっとそうだろうと思う。なぜか、間違っている気はしなかった。 「いま、君はどこに――」 一瞬、道をそれようかとタイラントは考えた。左に行けば、ラクルーサとの国境の大河。右に行けば知り人の家。 「会いに、いってみようか」 タイラントの脳裏にメグの顔が浮かぶ。あの老婆はタイラントに何を言うだろう。痛罵される、そんな気がする。 「それも悪くないかな」 誰かに思い切り罵られれば、自分のしたことがどれほどの罪悪かがよくわかる。 「だめだ」 そのようなことをしなくとも、理解できる自分になりたい。もしもシェイティに再び会うことがあるのならば、彼の前で恥ずかしくない自分でいるために。 「メグ、いつかね」 会いにいこう。そう思う。だがいまはだめだった。深く息を吸い、タイラントは体の向きを変えた。ラクルーサへ。 そして今までこの期に及んでもまだ迷っていたのだと知る。情けなくて笑い出しそうだった。 「だめだな、俺は」 シェイティを、本当に捜したいと思っているのだろうか。自らに問いかけ、タイラントはうなずく。 「捜す。必ず見つけだす」 ならば、はじめから道は決まっている。ラクルーサへ。他に探す場所などないではないか。シェイティは、ラクルーサの魔術師なのだから。 「帰ってるかな」 首をかしげてみたけれど、そうは思わなかった。不思議とシェイティがその師の元に帰っているとは思えない。 「怖いだけかもな」 彼の知り合いに自分が会いにいく。それを考えるだけで身の置き所がなくなるほど恥ずかしい。彼にしてしまったことを思えば。 「総司教様――」 タイラントは唇を噛みしめた。ミルテシアの王都にもあるエイシャ神殿。旅に出ると決めても足を向けなかった。向けられなかった理由はひとつ。 「裏切ったのは、シェイティだけじゃない」 リオンもまた、自分は裏切ってしまったのだと心に刻む。何があっても決して彼のそばから離れないで、そう言ったリオンの言葉をタイラントは忘れていた。それがどのような思いから発せられた言葉か考えたことなど、一度もなかった自分を忘れないために。 |