タイラントはそうして酒場を後にした。行くあてなどない。シェイティがどこにいるのかなどわからない。それでも動かずにはいられない。 たいした量ではない荷物を背に担いだ。旅に出るのだ、と思えばわずかに心が弾む。新しい歌を覚えることができるかもしれない。それはかすかな慰めとなった。 「シェイティ」 呟いて、竪琴を丈夫な革の袋にしまって抱える。万が一にも水に濡れてしまわないように。何を失っても、これを失いたくなかった。 「あんた、吟遊詩人かい?」 大通りに出るなり、声をかけられた。タイラントは驚いてうなずいた。声をかけられたことにではない。 その声の、響きに。裏路地の住人のみなが荒んでいたとは言わない。トビィの例もある。だが表通りの人々の声は明るかった。 いままでそんなことにも気づいていなかったのか、と思えば情けなくてたまらなくなる。吟遊詩人の自分が、人の声の響きすら聞き分けることができなくなっていた。 「あぁ……」 うなずけば、その人はにっこりとうなずいた。弾いてくれ、とはなぜか言われなかった。そして気づく。まだ昼間なのだ、と。明るいところに住む人たちの憩いの時間はまだ遠い。 「そんな風に大事に楽器抱えてるから、きっとそうだと思ってね、頑張ってね」 ちらりと笑みを見せ、それだけで行ってしまった。温かい人の心に触れた思いだった。 「トビィ。ごめん」 まともな礼をせず、出てきてしまった。わずかに顔をうつむけタイラントは口許を歪めた。ぎゅっと竪琴の袋を抱え込む。 それからきっぱりと顔を上げた。もしもシェイティに会うことができたならば、きっと彼の言葉を伝えよう。 「それが、一番かな……」 自分を許すことはしなくとも、トビィの言葉を聞けば悪い人間ばかりではないと、きっとそう思ってくれるはず。 自分のことなどどうでもいい、とはタイラントは思わなかった。できれば許して欲しいし、もう一度話がしたい。 「魔法」 歩きながらタイラントは小さく呟いた。教えてもらうはずだった。彼から習うのだ、と希望を持っていた。 なぜ忘れてしまっていたのだろう。あれほど楽しみにしていたと言うのに。 「たかが、なんて思ってない」 すれ違う人々が、独り言を言うタイラントを奇妙な目で眺めて消えた。気づかず彼は前を見る。まるでその先にシェイティがいるように。 「教えてなんて、くれないね」 もう、無理だろう。そればかりは無理だろう。そう思えば悲しくて仕方なかった。今更だった。自分でだめにしておいて、切なく思ったとてどうにもならない。 機会はあったはずだった。自分がもう少し冷静だったら。もう少し物を考えていれば。人のせいにすることなく、自らの過ちを認めていれば。 「仕方ない、か……」 考えてどうになることでもなかった。すんでしまったこと。 タイラントは夢想する。もしも魔法で時間を取り戻すことができるならば。過去に戻って自分に言うのだ。シェイティを大事にしろ、と。 「違うな」 シェイティを、ではない。きちんと物をみろ、とでも言うべきだろうか。考えてタイラントは少しだけ笑った。 「お兄ちゃん」 不意に低い位置から声がした。幼い声にタイラントは目を向ける。駆け寄ってきた子供はきゅっと自分の手を握りしめていた。 「どうしたの?」 子供の相手をしたことはなかった。酒場の客はたいてい男で、宮廷に伺候していたときは貴婦人が相手だった。 戸惑いも露な顔をするタイラントに、子供もやはり困り顔をしていた。互いに顔を見合わせて唇を噛む。それが双方の笑いを誘った。 「うん、あのね。お目々、どうしたの」 タイラントの目の覆い布を指して子供は首をかしげた。思わずタイラントは布に手をやる。なんと答えたものか、迷った。 「あ……」 「ごめんね。あのね、痛かった? 聞かれるのも、いや?」 たどたどしい言葉ながら、子供は真剣だった。心からこちらを気遣っているのがわかる。タイラントは胸が詰まって言葉にならない。 それを、子供に言えたならば。吟遊詩人のくせに、言葉が見つからない。 「……ありがとう」 ぱっと子供の顔が明るくなった。子供なりに、なにかを感じたのだろう。含羞んで目を伏せた子供の頭にそっと手を乗せれば柔らかい感触。 子供の髪はこんなにも柔らかいものだったとは、知らなかった。手に馴染んだものとは、違った。はっとしてタイラントは思い起こす。心に浮かんだのは、シェイティの髪。 「痛く、ないよ。大丈夫」 「よかった! うちのおじいちゃんもね、お目々が悪かったの。ちっとも見えないって悲しそうだったの。だから、お兄ちゃんは平気かなって」 「平気だよ、痛くないから」 「おじいちゃんも、痛くはなかったみたい」 そう言って子供は顔を曇らせた。この子に、自分は何をしてやれるのだろう。こんなに心を温かくしてもらったのに、返すものが何もない。 「おじいちゃん、おうちにいるの?」 「うん。いるけど……」 「あのさ、よかったら――」 いまできることを、自分のできる方法で。タイラントは道が遅くなる、とは思わなかった。シェイティに、ずっと助けてもらっていた自分。彼に返すことはできないだろう。 ならば、とタイラントは決心する。できることを、誰かに返していこう。いつか自分が返した思いが、シェイティのところに巡っていけばいい。 そうすれば、いつかシェイティはちゃんとした人間に出会うことができるかもしれない。自分ではなく。思えば、体中に痛みが走った。 「おじいちゃんにあわせてもらえないかな」 「え。なんで?」 「俺、吟遊詩人だから。目が見えなくっても、歌は聞こえるだろ。だから、おじいちゃんに聞いてもらえないかなと思って」 「ほんと! ありがとう!」 タイラントのそれ以上の言葉を待たず子供は走り出す。駆け去って行った子供のあとを追えば、朗らかに明るい笑い声。手招きをする小さな掌が、きらきらと輝かんばかりに見えていた。 あとを追いながら、タイラントは器用に覆い布を縛りなおした。その足がぴたりと止まる。 「俺は、いま……」 自分の心を明るくしてくれた子供のために、その家族をも驚かせたくない。決して色違いの目を見られることのないように。 そう思ってタイラントは布を縛りなおした。それが、シェイティのしていたことと同じだと、不意に気づいたのだった。 「君は――」 驚かせないように。不快に思わせないように。無論、言うまでもなく保身もあっただろう。それはタイラントとて同じだ。 自分と彼と。何もかも同じと言うわけにはいかなかった。それでも些細なことを除けばみな同じだと気づく。 トビィの言葉が蘇る。決してタイラントだけは彼を非難してはならなかった、と言った彼の言葉が。 「その、とおりだ……」 立ち尽くすタイラントを人波がよけていった。自分がしてしまったことのうち、もっとも残酷だったことは彼の体を踏みにじったことでもなんでもない。 「シェイティ」 自分が浴びせた言葉はどれほど彼を傷つけただろう。思うだにタイラントは身の置き所がなくなりそうだった。いっそこのまま死んでしまいたくなるほどに。 「お兄ちゃん! 早く!」 声に答えて走り出し、タイラントは深く息を吸った。また、子供に救われた、そんな気がした。 子供の家は、小さな商家だった。突然飛び込んできた吟遊詩人に、両親はいい顔をしなかったものの祖父は大変に喜んでくれた。 「ただで弾いちゃいかん。あんたの商売だろう」 頑なに言う老人に、タイラントも頑固に首を振り続けた。 「お孫さんに、救われました。このままだめになるところを、助けられました。だから、これはお礼なんです」 「孫が?」 こんな小さな子供がいったい何を、と首をひねる老人に子供までもが驚いた顔をしている。 「お兄ちゃん? なんにもしてないよ」 商売をしている家の子供だけはあった。稼ぎの機会を奪ってはいけない、と思ったのだろう、必死になって否定する。それがまたタイラントの心を温もりで満たす。 「してくれたよ。俺の演奏なんかじゃとてもお礼にならないくらい」 ゆっくりとタイラントは笑みを浮かべた。心からの笑みに、顔が歪んだ気がする。それほど長い間、こんな笑い方をしていなかったのを思い出していた。 「まぁ、いい」 老人はそれで何かを悟ったのだろうか。話を打ち切って素直に演奏を聞いてくれた。ありがたいとタイラントは精一杯の演奏をする。 指がつりそうになった。喉に違和感がある。声の響きもよくはない。自分でそれがよくわかる。悔しかった。 毎晩、歌ってはいた。だが裏路地の生活ですっかり腕が落ちている。豊かな情感を歌い上げるなど、いまの腕ではとても覚束ない。 「頼んでいいかね」 「なんなりと」 言えば老人はにこりと笑った。彼の要望に応えることはできないのではないか、不安はあったけれどタイラントは一生懸命に務めるだけだ、と思い直す。 これがいまの自分で、自分にはたぶんまだこれから先もある。いつか誇ることができる腕になったら、また聞いてもらいたい。そう願いつつ。 心には、シェイティを思い浮かべていた。老人の姿を見つつシェイティのために歌っていた。 この思いがいつか彼に届けばいいと。誰かの手によって。聞こえない彼に、届かない心を届けて欲しい。 「ありがとうよ。いい歌だった」 「お礼を言うのは、俺です」 「歌を褒めたのさ。もうちょっと、精進したほうがよさそうだけどな」 聞き分ける耳を持った人にあったのだとタイラントは微笑んで頭を下げた。この分ではきっと、自分が老人のためにだけ歌ったのではないことくらい気づかれているだろう。それをも老人は許してくれた、そんな気がした。 |