気づけば竪琴を手にしていた。それなのに、弾くことができない。指を動かしても弦の前で止まってしまう。 「君は――」 いまどこにいるのだろうか。きっとすぐ側にいるはずだと、ずっと思っていた。どこからか、こちらを窺っているに違いないと、思い込んでいた。 「いまは、とても」 そうは思えない。もう、どこにもいないのではないだろうか。思ってタイラントはぞっとした。 「そんな、馬鹿な」 側にいないからと言って、死んでしまったとは思わない。思いたくない。それでも彼が死を選ぶのではないか、そんな不安はつきまとう。 「俺は、それだけのことをした」 口に出してみればそのとおりだと自分でも思う。トビィに言われたことを思い出す。筋が違う。彼はそう言った。 「恨むのは、姫、か……」 タイラントの唇が歪んだ。自分をいいように扱って、命さえ奪いたいと願ったのは、イザベラだった。それから守ってくれたのが、シェイティだった。 真実を明かせば傷つくのは自分だと、心さえ守ろうとしてくれたのが、シェイティだった。 「いまになって」 ようやくわかる。イザベラを、信じていた。どうして彼女をあそこまで信じられたのか、もうタイラントにはわからない。誰かを信じるときなど、そのようなものかもしれない。 そのイザベラに裏切られたと理解したとき、タイラントの何かが壊れた。彼女を信じない、ではなく誰も信じない、に変わってしまった。 「違うか」 自らを嘲笑いタイラントは竪琴に目を落とす。シェイティを、信じられなくなった。信じて裏切られるのが怖かった。だから、彼を先に裏切った。 「化け物――」 シェイティに向けるのではなく、自分に。忌まわしい邪眼と呼ばれたこの自分が、シェイティを化け物扱いした。 「醜い」 人間の醜悪さが、たまらなかった。その人間である自分がたまらなかった。 イザベラに裏切られた八つ当たりのよう、シェイティを傷つけたのに、彼はそれを自分のせいだと言っていた。 「馬鹿な」 悪かったのは、自分であって彼ではない。心に思ってみれば、それも違う気がした。 「俺たちは、二人とも。たぶん」 双方が、悪かったのだろう、きっと。自分だけではなく、彼もまた。それを伝えられるだろうか、いつか。 「――会いたい」 伝えることができれば、はじめからやり直せる。そんな気がした。虫がいいとは自分でも思う。それでもタイラントは願う。 「もう一度、君と話がしたい」 呟いて、愕然とした。それこそシェイティが願っていたこと。その機会が訪れることを切望して、彼は言いなりになっていた。 「……く」 タイラントの唇から嗚咽が漏れた。いなくなってしまった今になって、彼の気持ちがわかる。なんと無意味なのだろう、そう思えば涙は止まらなかった。 竪琴の上、タイラントの涙が降りかかる。はっとして竪琴を拭った。彼が、贈ってくれた楽器。吟遊詩人に必要なものだろうと贈ってくれた。それをだめにしたくはなかった。 「どうやって、君は」 体で稼いだものだと、あのときは疑った。けれどいまは違うとわかる。あのようなこと、シェイティが誰でもかまわずさせるはずがない。 「俺だから」 思いたかったけれど、そこまで自惚れてもいなかった。何をしても許してくれた。償いだと受け流してくれた。 だからそれは、彼が望んだことではなかったに違いない。本当は、触られるのも苦痛だったはずだ。シェイティの、過去を知りようやく悔いることを覚えたタイラントは自らの行為に苛まれていた。 涙を拭って、よろよろと立ち上がる。手には竪琴。背には荷袋。ここに戻るつもりはもうない。ふらりとねぐらを後にすれば、燦々と昼の日差しが照っていた。 娼婦たちの気だるい声。子供たちが走り回る音。時折、上がる歓声。こんなところでも、子供がいるのだとタイラントは驚く。いままで気づきもしなかった。 何も、見ていなかったのだとわかった。ここで、自分は暮らしてなどいなかった。はじめはそうしようと思ってねぐらを見つけたはずなのに。 「馬鹿だな、俺は」 振り返りもせずタイラントはねぐらをあとにする。彼がいなくなればすぐまた新しい住人が住み着くだろう。 シェイティの、ねぐらへの分かれ道。彼がそこに住んでいないことはとっくにわかっている。すでに、別の人間が住んでいた。 それでもタイラントは立ち止まる。じっと路地の奥に視線を注いだ。シェイティが、姿を見せるなど思ってもいない。それでも。 「……シェイティ」 喉から絞り出すよう彼の名を呼ぶ。子供の声が遠くなる。裏路地に珍しい、一瞬の静寂。 「シェイティ」 一度呼んでしまえば、楽になった。再び呼んだ声は、あのころのもの。己の耳でそれを聞き、タイラントはまた、泣きたくなった。 いったいどんな声で呼んでいたのだろう。彼を傷つけ続けた間、どれほど酷い声で呼んでいたのか。 「呼んで、なかった」 名を呼びすらしなかった。不意に思い出して込み上げるものを抑えきれない。化け物、あいの子。そう罵りはしても、彼の名を呼んだことはなかった。 「シェイティ」 いま彼は、どこに。どうやって捜せばいいのだろう。もう一度、会えるのだろうか。 「会いに、行くから」 喉元までせり上がってきた言葉は、口に出せなかった。ごめん、たった一言それが出ない。とても、言えなかった。 「君も、そうだったな」 謝罪など、できない。口で詫びてすむようなことではない。シェイティは確かにそう言っていた。 「俺もだよ、シェイティ」 だから、探しに行く。今度は自分が彼の意のままになろうか。思ってタイラントは苦笑した。それでは何も変わらない。 かといって、どうすればいいのかなどわからない。そもそも彼を捜す方法がない。長い溜息をつき、タイラントは分かれ道を後にした。 酒場は、人気が少ない。夕方になればもっと多くの客がくることをタイラントは知っていた。だがこの時間にきたことはなかったタイラントは、思ったよりずっと客が入っていないことに軽い驚きを覚えていた。 「トビィ」 むっつりとした主人が、顎をしゃくって店の片隅を指す。タイラントは首を振って別の隅へと腰を下ろした。 「なんでだ?」 湯気の立つ煮込みの皿と共に、トビィが目の前に腰を下ろす。二つの皿のうち、一つをタイラントに押しやれば、彼は黙って礼をする。 「気にするな、俺も昼飯だ」 言われて、そんな時間だったのかとタイラントは目を丸くする。ほんの少し、悩んでいただけのつもりだったはずだ。 「あそこは――」 「うん?」 「……シェイティが、いつも座ってた」 匙を無理やり口に運んだ。そうでもしなければ、喉に涙が詰まりそうだった。 「……覚えてたのか」 苦い声で言われ、自分はトビィに試されたのだとタイラントは知る。そして、それだけのことをしたのだと痛感する。 「あんた、どうするつもりだ」 「捜しにいく」 「どこに?」 「……わからない」 首を振るタイラントにトビィもまた首を振った。異なる意味を持っている気がして、タイラントは主人の顔をじっと見つめる。 「あんた、あの子が捜されたくない、そう思ってるとは思わんのか」 ゆっくりと、噛んで含めるよう言われ、タイラントは匙を取り落としそうになった。ぎゅっと握り込む。 「思う」 それしか、言えない。もう会いたくないから、姿を消したのだから、シェイティは。 「それでも、もう一度会いたい。会いたいのは、俺の我が儘だ。シェイティが、望んでいるとは思ってない。俺は――それだけのことをした。謝りたいと思うのも、俺の勝手だ。許してくれるなんて思ってない。許して欲しいなんて、願えない」 「わかってて、なんで捜す」 「仕方ないだろ!」 怒鳴れば、ぎょっとした客の注目を浴びた。トビィが客をなだめている間、タイラントは差し出された水を飲み干す。 「……仕方ないんだ。会いたいんだ。どうしても」 「嫌がられてもか」 「わからないだろ。ほんとに……」 「嫌がってないと、思うのか、あんたは」 「……嫌がってると思ってるさ。もしかしたら二度と会わないほうが、シェイティのためかもしれない。そのほうがあいつは楽なのかもしれない」 口にすれば苦くてたまらない。けれど、それがタイラントの本心だった。会いたいなど、思ってくれてはいないはず。 あれほど酷いことをしたのだ。忘れたいと願っているはず。ならばそっとしておくのが、一番の償いだ。それがわかっていてさえ、タイラントは自分を抑えられなかった。 「礼も、言ってないんだ。まだ」 「なに?」 「竪琴。買ってくれたの、シェイティだ」 ゆっくりと、タイラントは竪琴を撫でていた。まるでシェイティに触れるように。そう思って首を振る。 こんな触れ方はしなかった。いつも苦しめるためだけに、抱いた。胸の奥が激しく痛む。 「シェイティ……」 聞こえない彼を呼ぶ。弦にそっと触れた。彼の髪、彼の肌、彼の唇。思い出しながら。タイラントの顔が歪む。思い出せなかった。 「あんた、そういうのなんて言うか知ってるか」 呆れたような、からかうようなトビィの声にタイラントは首を振る。 「惚れてるって、言うんだ」 泣き笑いのタイラントに、トビィは顔を顰めてもう一皿、煮込みを勧めた。 |