差し込む朝日に、タイラントは間違いを知る。呼びかけた自分の声に、完全に目覚めた。
「それがあの子の名前かい? 最後まで、名前も知らなかったな」
 酒場の主人、トビィがそこにいた。何をしにきたのか疑問に思うこともなくタイラントは体を起こす。
「まぁ、あの子って、年でもないんだろうがな。魔術師の年なんか見た目じゃわからねぇ」
 肩をすくめてトビィが言った。そのあっさりとした言い振りにタイラントは違和感を覚える。
「あんた……」
「なんだ?」
「あんたは、なんで……」
 魔術師の年齢が見た目と違うことなど、それほど一般的な知識ではない。ましてここはミルテシア。魔法になじみの薄い国だった。
 タイラントは首を振って寝台に腰掛けた。何がなんだか、わからなかった。
「座ってくれって、言えるようなところもないんだけど。どっか――」
「あぁ、勝手にさせてもらう」
「それと、何しに。俺に――」
「用事ってわけでもないな。あんだがって言うよりシェイティか? あの子がどうしてるか、気になってな」
 言われた言葉にタイラントは反感を持つ。気にした風情もなく部屋の片隅にトビィが腰を下ろした。いつも、シェイティがうずくまっていた場所。不意に彼の姿にシェイティの幻がかぶさった。
「あんたも、あれに興味があるのか。そんな年かよ?」
 客の一人ひとりを思い出す。誰しもがシェイティに興味を持った。こっそりと言ってくるものもあれば、堂々と抱かせろと言ったものもいた。
 トビィまでもがそうだとは。それなりにいい年をした酒場の主人が、わざわざこんなところまで足を運んで闇エルフの子を抱きたいと言う。それが不快でたまらない。
「まさか」
 だが、トビィは鼻で笑ってそれを否定した。思わず目を丸くするタイラントを哀れむよう、トビィは視線を向ける。
「あの子が、可哀想でな」
「なにを!」
「あんたたちの間に何があったのかは、知らんし興味もない。だがな、あんた。あんな歌を歌って聞かせるほど、あの子が嫌いならさっさと解放してやりゃいいじゃねェか」
 闇エルフの子を惨殺する数え歌。それともラクルーサの塔の迷宮。タイラントはどちらだろうと思う。どちらもが、シェイティを酷く苦しめた。
「解放ってな……。あんたは何も知らない。自分でそう言っただろ」
「あぁ、言ったね。殺したかったら、殺してやりゃいいじゃねェか。あの子はそれでも黙って死んだんだろ」
 そんなことはない。タイラントは首を振る。殺そうとすれば、さすがに抵抗しただろう。何より、殺したいとは思っていなかったのだと今更ながらに気づく。
 傷つけたかっただけなのかもしれない。それは、達成された。それなのに、少しもタイラントは嬉しくなかった。
「あれは、化け物だ」
 だからタイラントは言う。人間ではない、とまるで自分に言い聞かせるように。
「だけど、泣いてたな。あの子」
 ぐっと胸に込み上げてくるもの。呆然とタイラントは主人を見やる。
「……いつ」
 自分のいないときに。あるいはトビィには何かを話したのか、彼は。自分ではなく、他人に助けを求めたのか。
 意味の通らないことを考えている自分に、気づかないタイラントではなかった。苦しめているのは自分。ならばシェイティがすがってくるはずもない。
 それでも、何かを求めるならば自分であって欲しかった。いつの間にかタイラントは自分の胸元をきつく掴んでいた。
「姿を消した、あのときさ」
「そんなことは……」
「ないってか? あんたに見えなかっただけだろ。あの子は涙も流さず泣いてた。俺にゃそう見えたね」
 必死でタイラントはあの時のシェイティの顔を思い出そうとした。それなのに、ぼやけて少しも思い出せない。
 瞼に浮かぶのは、共に過ごした日々の彼。泣くだろうか、あのシェイティは。
「泣いてた……か」
 淡々とした無表情が、少しずつ笑みを見せるようになった。馬鹿にされて、放り捨てられて、酷い目にもたくさんあった。
 自分のしたこと。彼のしたこと。思い返してみれば、シェイティには悪意がなかった。自分は、悪意の固まりだった。
「あんた、あの子に何がしたかったんだ?」
 言われても、もう何もわからない。自分のことすらわからない。黙って首を振るタイラントにトビィは溜息をつく。
「闇エルフの子だからってな、痛みも知れば悲しみも知る。あれは、人間と同じだ。少しも変わらない」
「なんで、あんたは。まだ答えてないよな、トビィ」
 そんなことを知っているなど、おかしいとタイラントは不安になってくる。トビィは知るはずのないことを、知りすぎている。そんな気がした。
「昔、冒険者だったからな」
 肩をすくめてさらりと言った。思わずタイラントはトビィをまじまじと見る。戦士、だったのだろうか。若いころはさぞかし屈強な体だっただろう。
「だから、普通のやつらよりゃ、見聞が広い」
 言葉の裏側で、心が狭い、そう言われた気がした。間違っていない、むしろそのとおりだ、とタイラントは唇を噛む。
「闇エルフの子だからって、すぐさま手ェ出したいとは思わんな。ちょいと生まれが違うだけで、意思も心もある。娼婦や男娼ならまだしも、踏みにじろうとは、俺は思わん」
 お前がしていたように。トビィは言わなかった。けれどタイラントには聞こえた。惨く踏みつけたと思えばこそ、反論はできない。
「男娼だったら、いいのかよ」
 そんな皮肉を言うことしかできない。それほどのことを自分はシェイティにしていたのだ。
「あいつらは金もらってるからな。巧くすりゃ、客をカモれる。だがな」
「俺がしてたのは、ただ」
「あんたがしてたのは、なんだ?」
 言葉を切ったタイラントにトビィは畳み掛ける。言えなかった、とても。最低だ、とタイラントは思う。
 それでもまだ、どうしても彼を許す気にはなれない。なぜそうなのかなど、わからない。凝り固まった気持ちが、どうやってもほぐれない。
「まぁ、いいさ」
 あっさりと言われて、捨てられた気持ちになった。不安そうにトビィを見やり、タイラントは唇を噛む。不意に、一人きりだと思った。
 トビィはそこにいる。酒場に行けば、客もいる。それなのに、この世界に一人で取り残された気がしてならない。
「あんたは、どうしてあの子をあんなに苦しめる?」
「聞かないんじゃなかったのかよ」
「あんたが聞いてほしそうだったからな」
「別に……。いいよ、話してやるよ」
 くっと喉をそらしてタイラントは笑う。自分は悪くない。まだ、そう言い張りたかった。
 タイラントの語る言葉に、トビィは軽く目を伏せて聞き入っていた。口を挟みはしない。反論もしない。黙ってタイラントに喋らせた。
 そのせいだろうか。きっと話すべきではないことまでタイラントが言ってしまったのは。後になってから、そう思った。
 けれどいまは、何を考えることもなく洗いざらいトビィに語る。自分と王家の姫のかかわりまで。
「あんた、それであの子を恨んでるのか」
 語り終えたタイラントに向けて発したトビィの声は呆れかえっていた。
「悪いか!」
「あぁ、悪いな。あの子を恨むのは筋違いだろう」
「どこがだよ!」
「全部、だな。俺に言わせりゃ。あの子はあんたを必死で守ってたんだろうが」
「そんなこと――」
「いいから聞け。あんた、何が気に入らない? 俺はうちの店に出入りするようになったあんたらしか知らんがね、あの子は一生懸命だったろ。必死であんただけ見てた」
 違うか、そう問いかけられてもタイラントにはわからないとしか言いようがなかった。見られていた覚えなど、ない。
 自分は、シェイティを苛むことばかり考えていた。彼がどんな気持ちでいるのかなど、考えたことは一度もない。
「隠し事をされたのが気に入らないってな、あんたが傷つくのがあの子はいやだったんだろ。それだけだろ。そんなに大事にされてて、よくまぁ……」
 言葉を切り、トビィは首を振る。呆れて物も言えない。そんな態度にタイラントは同感だった。本当に、自分のことでなかったなら、呆れて見捨ててしまいたい。
「あんたは化け物だあいの子だって言うけどな、タイラント」
 きっとトビィが視線を向けてきた。その強さにタイラントは表情を引き締める。昔の気分になっているのだろうか、トビィの顔は酒場の主ではなく、精悍そのものだった。
「あんたが、それを言うか?」
 ひやり、とした。まるで喉元に剣でも突きつけられたかのよう。
「なにを……」
「あんたの目だ!」
 はっとした。咄嗟に片手を上げ顔に触れる。寝起きの顔に、覆いの布はなかった。色違いの目が朝日に鮮やかだった。
「あの子は、その目を知ってたのか」
「……知ってた」
「だったら、なんであんたがあんな酷いことを平気で言える! あんた、それでも人間か!」
「俺は――」
「あんただけは、言っちゃいけなかった。違うか、タイラント。あんただけは、あの子を化け物呼ばわりできないはずだ。違うのか、タイラント!」
「……違わない」
 人間の間では、同じ化け物。指摘されてタイラントは言葉もなくうなだれる。忌まわしい存在が、化け物を嘲笑った。その、愚かさ。
「あんたも、あの子も、人間だ。俺は、そう思う」
「俺は――どうしたら」
「さぁね。そりゃあんたらの問題だ。もしも会えたら、あの子に言ってくれ。俺が気にしてたってな」
 それだけ言ってトビィは立ち上がる。話は終わりだとばかり、振り向かずに出て行った。タイラントは竪琴を見ていた。会えるのだろうか、もう一度、彼に。そればかり、考えていた。




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