何も考えられなかった。シェイティがどうなってしまったのか、タイラントには考えられなかった。感じたのはただひたすらに虚仮にされた、それだけ。沸き立つ怒りに唇を噛みしめるタイラントの周りに客がたかった。 「おい、あんた」 先ほどから声をかけているにもかかわらず、吟遊詩人は宙の一点を睨んだまま動かない。業を煮やして肩に手をかければ振り払われた。 「なんだよ!」 かっとして言い返したのだろう男の声に、ようやくタイラントは己を取り戻す。 「すまなかった。それで?」 「あんたなあ……。なんだよ、さっきの。あんたの連れだってことはわかってんだ」 「連れ?」 「さっきのあいの子さ」 口に出された侮蔑語に、タイラントはかすかに眉を顰めた。何度となく自分が口にしているにもかかわらず。 「あぁ……連れ、ね」 薄く笑って消えて言ったシェイティを思う。彼が蔑まれたからと言って自分が何を感じる必要もない。 そう心に言ったはずなのに、どこかが疼いた。知らずタイラントは己の胸を掴んでいた。 「あんたの、これか?」 そう男は小指を立てて見せる。あれでも男なのだからその仕種はおかしい、と思うものの言い返すのが面倒でタイラントはうなずく。 それに男がにんまりとした。嫌な笑いかただ、とタイラントは思う。話を終わらせたくて辺りを見回せば、客のすべても主人すらも自分たちに注目していた。 それが、癇に障った。主人の顔をタイラントは見据える。シェイティと、淡い交流を持っていたらしい酒場の主人。彼ら二人とも、自分には何も言わなかった、と。 また、隠し事をされたのだという思いばかりがタイラントを焼いていた。いつも自分ひとり、置いていかれる。それが嫌で嫌でたまらない。 「おい、あれ。あいの子だろ。だったらさ……」 男の声に、タイラントはトビィから視線を外した。トビィもまた、じっと自分を見ていることは、感じていたものの。 「なんだよ」 「いや。その、さ」 「だから、なんだよ?」 少しばかり照れた顔をして男が上目遣いにタイラントを見上げる。咄嗟に聞きたくない、そう思ったけれど、男を黙らせる方法がわからなかった。 「やらせろよ、俺にもさ」 「なに」 「いっぺん、あいの子抱いてみたかったんだよな、いいだろ?」 すっと、タイラントは顔から血が失せるのを感じた。これが同じ人間か、自分の同族かと思う。なんて醜悪なのか、と。 そして自らを省みた。自分がシェイティにしたこと。男と、同じだった。 化け物だから。あいの子だから。闇エルフの子だから。人間ではないから。だから、何をしてもいい。そう思っていなかったとは、言い切れない。 「……人間、か」 知らずタイラントは呟いて視線を落とした。シェイティが人間を信用できない、といった意味がはじめてわかる気がした。そしてわかりたくなかった。 「なんか言ったか?」 「いや」 「なぁ、いいだろ?」 媚びるよう、男の腕が自分の腕に添えられた厭わしさに、タイラントは思わず振りほどく。ぎょっとしたような顔をして男が下がった。 「あれは、俺のものだ。他人には、渡さない」 言いたいことは違うはずだった。それなのに、こんな言葉しか言いようがない。それがタイラントの心を騒がせた。 何を言いたかったのだろう、自分は。シェイティはいま、どこにいるのだろう。吟遊詩人のはずの自分なのに、簡単な言葉一つ出てこなかった。 「トビィ、騒がせた。今夜は帰るよ」 はじめて主人の名をタイラントは呼んだ。今夜まで、毎晩通っていたにもかかわらず、主人の名など知らなかったことに気づいて笑い出したくなってくる。 「あぁ、それがいいな」 肩をすくめてトビィはタイラントの視線をやり過ごした。タイラントは敵意、と言ってもいいほど強い目をしていた。 まだ騒ぐ客たちをトビィがなだめているらしい声を背中に聞きつつタイラントは扉をくぐる。途端に喧騒が遠のいた。 ゆっくりと路地を歩いた。抱えたままの竪琴に触れれば、かすかな音。弾くではなく、かき鳴らすでもない。ただ、触れているだけ。それがいまの気分には似つかわしかった。 「……おい」 タイラントは呼んだ。誰もいない路地に向かって。返事があるとは思っていない。ただ、姿を見せるだろうとは思っていた。 立ち尽くしていたのは、どれほどの時間だろう。諦めてタイラントが歩き出しても、路地には人影ひとつなかった。 翌晩、酒場に向かったタイラントは自分でも気づかぬうちに隅の席を見ていた。いつも、彼が黙って座っていた場所。 「きてないよ」 聞いてもいないのにトビィが言う。なぜか、責められている気がした。無言で首を振り、タイラントもいつものところへと腰を下ろす。 今夜は、いつにもまして盛況だった。昨夜の騒動が、すでに遠く広まっているのだろう。物見高い客たちの中、見慣れない顔が散見する。 無事でいればいい。思ってすぐに否定する。自分が彼を気遣う必要など。タイラントの竪琴に乱れを聞き取ったものはいなかった。 その晩、シェイティはついに姿を見せなかった。それでもタイラントには確信がある。必ず戻ってくるとの。 おかしなものだった。求めてなどいない。それでも間違いなくシェイティは帰ってくる、そう思っている。 「俺から、離れられるはずが」 ない、とどうして言い切れるのかなど自分でもわからない。ただ、そう思っているだけだった。 「信じているってやつか?」 姿を消す前に彼が言っていた言葉。以前の自分はなんと軽々しくそれを言ったことか。あれほど重たい言葉だとは知らなかった。 皮肉に言ってタイラントは顔を歪める。翌晩も、その翌晩もシェイティは影すらなかった。 酒場から帰るとき、タイラントは暗い路地で足を止めるようになってしまった。そんんな自分が忌々しいと思いはするものの、それでも足は止まってしまう。 「なぁ……」 あれほど簡単に呼べていた彼の名が、唇から出てこない。何度となく呼んだ彼の名が、どうしてか口に出せない。 「いるんだろ」 どこへともなくタイラントは声をかける。暗い裏路地に人気はない。だからと言ってあの魔術師がいない証とはならない。 だからタイラントは立ち止まる。きっと、どこかにいるはずだ。自分を置いていくなど、考えられなかった。 「出てこいよ」 呼べども、呼べども。答える声は決してない。遠く、うらぶれて哀しげな犬の遠吠え。聞きたい声が、聞こえない。 「俺は――」 どうしてしまったのだろう、とタイラントは思う。なぜこんなにも気にかかる。いなくなってしまった化け物など、放っておけばいいはずなのに。 「まだ、足りない?」 彼を苛み足りないのだろうか。姿を見せたら、自分は彼をどう扱うのだろうか。 彼の声が蘇る。あのようなことをされて尚、慣れていると言った彼の声。哀しいものとは聞かなかった自分をも思い出す。 「君は――」 つらかっただろう、と以前の自分ならば思ったかもしれない。あのようなことをしたときには、当然だと思っていた。彼は、人間ではないのだから。 「化け物……」 口に出して苦さを味わう。客が口々に言っていた。彼がいなくなって以来、客の入りは常にいい。腰に下げた皮袋の中は、いつになく金で潤っている。 それが、少しも嬉しくなかった。聴衆がいて、もてはやされて、金を稼いで楽しい日々のはずだった。竜に変えられていたときには、この暮らしをどれほど望んでいただろう。 そして思い出してしまった、もう一つの望み。人間になど戻れなくともいい。共に過ごしたいと願った日。 「馬鹿な」 思い出に動揺したタイラントは足を速める。今夜は殊の外暗い。見上げた夜空に星はなく、雨になるのかもしれなかった。 その足が止まる。はっとして振り返った。そして浮かぶ自嘲。 「気のせい、か」 シェイティの声が聞こえた気がした。耳が惑わされるなど、自分はどうなってしまったのだろう。彼がいなくなって、すでに十日。どこにいても一人きりの静寂ばかりが癇に障って仕方ない。何も変わらないはずなのに。彼がいない、それを除けば。 「同じ、だったな」 幻覚をまとっていたシェイティ。それなのに声だけは、同じだった。目を閉じて聞けば、それが人間以外の生き物だとはとても思わなかっただろう。 ねぐらはいつもどおり暗い。彼がいなくなって以来、戻ってもタイラントは寝るだけだ。誰かを欲しいと思うことすらない。 襤褸同然の寝台に体を横たえれば、いつになく疲れた、そんな気がする。長い溜息をついて汚れた天井を見上げる。 指が、竪琴に触れた。やっと気づく。シェイティが贈ってくれた竪琴。礼さえ言わなかった自分。当然だと、なぜか思い込んでいた。 「ごめ――」 口から出かけた言葉は喉に詰まった。謝る言葉なんかない。そう言った彼の声が耳に聞こえる。唇を噛みしめ、タイラントは眠る。穏やかならざる眠りに落ちる。 嫌な夢ばかりを見た。あるいはそれは時によっては幸福な夢だっただろう。共に過ごした日々の夢。視界は狭く、見えるものといえばシェイティの髪。肩にいるのだ、と思い出せば体中に蘇る彼の温もり。 「あったかいな、君は」 言えば彼の笑い声。長い間、聞いた覚えのないそれがタイラントの心を揺さぶる。こんな声で笑っていたのだと、思い出すこともなくなっていた。 だから、目覚めも急だった。本当には眠っていなかったのかもしれない。物音が聞こえ、タイラントは飛び起きる。 「シェイティ!」 |